杉の名は
明智吾郎
杉の名は
序章:消えた少年
朝の霧は、まるで町そのものを飲み込むように、ゆっくりと流れていた。
十一月の冷たい風が杉林を渡り、湿った土と針葉の匂いが通学路に漂う。
その日、最初に異変を見つけたのは登校中の女子生徒だった。
彼女は歩道脇のガードレールにぶら下がっている“赤いもの”を見て足を止めた。
ランドセルだった。
まだ新しい。表面は泥に汚れ、肩ひもが片方だけ引きちぎれている。
周囲を見回しても、持ち主の姿はない。
通学路の先には、杉林へと続く小道がある。
彼女は誰かを呼ぼうとしたが、声が喉の奥で凍りついた。
霧の向こう、杉の木々の隙間で、何かが立っていた。
小柄な影。
人のようで、人ではない。
その“それ”は、枝のように長い腕をゆっくりと持ち上げ、
まるで手招きをするように指を動かした。
女子生徒の叫び声が霧に溶けた。
——その日の夕方、町の掲示板には新しいビラが貼られていた。
「行方不明 小学四年 山岸陽斗(やまぎしはると)」
最後に目撃されたのは、真尾高校前の通学路。
警察はすぐに捜索を始めたが、夜になっても手がかりは何一つ見つからなかった。
ただ一つ、現場近くの杉林の入り口で発見されたという。
折れた枝の間に、小さな靴が一足。
泥にまみれたそれは、まるで木の根に引きずり込まれたかのように、深く埋もれていた。
翌朝、真尾高校では“噂”が一気に広まった。
また“お杉”が子どもを食ったのだ、と。
第一章:杉の噂
午前のチャイムが鳴り終わると、真尾高校の校舎には一瞬だけ静寂が訪れた。
その静寂の中に、新聞部の部室だけがざわついていた。
「また行方不明だってよ。今度は小学生」
半分眠たそうに言ったのは、二年の桐谷。椅子に座ったままスマホを見せてくる。
画面には地元ニュースの速報。昨日の事件が早くもSNSで拡散されていた。
「真尾の前の通学路……。って、ここじゃん」
その言葉に、部室の奥にいた長谷川蓮は眉を寄せた。
黒髪を無造作に束ねた蓮は、この学校では珍しく落ち着いた空気をまとっている。
「お杉の噂、また出てくるな」
桐谷が苦笑いを浮かべる。
「出たよそれ。杉が子どもを喰うとかいうやつだろ? 都市伝説ってやつ」
「でも、消えたのは男の子ばっかりだ」
蓮は机に置かれた取材ノートを開き、メモを指でなぞった。
——過去一年で五件の失踪。いずれも十歳前後。
——現場はいずれも杉林周辺。
——現場で必ず“名前”を呼ぶ声が聞かれたという証言。
「杉の木の祠、あそこって立入禁止だよな」
「行く気? お前、また怒られるぞ。前も夜に忍び込んで……」
「記事にするだけだよ。根拠のない噂を放っておくほうが危ない」
蓮の言葉は冷静だったが、その奥にどこか焦燥の色があった。
——妹も、あの通学路で消えた。
それが彼の中でまだ終わっていない。
五年前、蓮の妹・美桜が同じ場所で行方不明になり、今も見つかっていない。
そのときも誰かが言った。「お杉が連れてったんだ」と。
放課後、蓮は録音機を持って校庭の奥へ向かった。
部室棟の裏から少し歩くと、視界の先に一本の巨木が立っている。
天を突くような幹。表皮は黒くひび割れ、根元には小さな祠。
柵の外から覗き込むと、湿った空気の中に冷気が立ち込めていた。
——この木だ。みんなが“お杉さま”と呼ぶのは。
祠の前には朽ちた木札が立っており、かろうじて「奉納」の文字が読める。
蓮は録音機のスイッチを押した。
「真尾高校裏の杉の木。地元では“お杉”と呼ばれ、行方不明事件との関係が囁かれている……」
録音機が小さく赤いランプを点滅させた。
しかし、その瞬間だった。
風が吹いたわけでもないのに、杉の枝がざわめいた。
葉の間で、誰かが囁いたような声がした。
——すぎの……なは……。
蓮は顔を上げた。誰もいない。
だが、音は確かに入っていた。
録音機の小さなスピーカーから、微かにノイズ混じりの声が漏れた。
> 「……杉の名は、まだ呼んじゃいけない……」
その声は、泣きながら笑う女のようだった。
第二章:記録と声
翌日の放課後。
新聞部の部室で、蓮は録音を再生していた。
桐谷が背後から覗き込む。
「うわ、マジで入ってんじゃん。これ誰の声?」
「分からない。近くに人はいなかった」
ノイズの奥で、何度も同じ言葉が繰り返される。
——杉の名は、まだ呼んじゃいけない。
桐谷が肩をすくめた。
「やめとけよ。これ、なんかやばいって」
「音の解析してみる。人の声なら、波形で分かる」
「……お前、妹さんのこと、まだ気にしてんの?」
蓮の手が止まった。
桐谷の声は優しかったが、その優しさが痛かった。
「俺が忘れたら、完全に終わる気がするんだ」
パソコンの画面には、波形が複雑に重なっていた。
音声の途中に、奇妙な反転した波がある。
それを再生すると、機械音のような低い唸りの中から別の声が浮かんだ。
> 「……はると……返して……」
蓮は顔を上げた。
昨日消えた少年の名前——山岸陽斗。
その瞬間、部室の蛍光灯が一斉に明滅した。
机の上のペンが転がり落ちる。
桐谷が立ち上がろうとしたが、足元が冷たい。
見下ろすと、床に水が滲み出していた。
黒い水。
そして、その中から細い手が伸びた。
桐谷の悲鳴と同時に、蛍光灯が弾けた。
部室は暗闇に沈む。
蓮が録音機を掴んで逃げ出したとき、背後で誰かの声がした。
> 「……返して……名前を……」
第三章 封印の祠
夜の杉林は、まるで別の世界のようだった。
昼間のざわめきが嘘のように消え、ただ枝葉が擦れ合う音と、湿った土のにおいだけが辺りを満たしている。月明かりは届かず、懐中電灯の光が切り裂く闇の先に、白い靄が漂っていた。
笹岡は一歩ずつ、泥に沈む足を確かめながら進んだ。
手には、校内で見つけた古びた地図。文化祭の資料室で偶然見つけたもので、そこには“お杉祠”と記された印が赤く滲んでいる。
――お杉は、あの祠に封じられた。
古い郷土誌にそう書かれていた。
百年前、この地を荒らした「杉の怨霊」を鎮めるため、村人たちは一人の巫女を生贄にした。その女の名が「杉乃」。怨霊は沈静化したが、以来、杉乃は“お杉様”として祀られ、祠を開いた者は祟られる――。
笹岡の耳に、遠くから水音が響いた。沢だ。音のほうへ進むと、朽ちた石段が現れた。
石段の先に、黒ずんだ鳥居。
その奥に、苔むした小さな祠が口を開けていた。
懐中電灯を向けると、祠の前には人影があった。
それは――
「……水野?」
振り返った顔は、血の気が失せたように白かった。
行方不明になったはずの水野悠真。制服のまま、裸足で立っていた。瞳は焦点を結ばず、口元は何かを呟いている。
「……お……すぎ、が……」
笹岡が駆け寄ろうとした瞬間、水野の首が不自然に傾いた。
骨が砕けるような音がして、彼の体が宙に浮く。
次の瞬間、背後の杉の幹に叩きつけられた。
ぬらりと何かが光った。
暗闇の中、杉の枝から垂れた無数の髪――いや、根のようなものが、水野の体を絡め取っていた。
その奥から、湿った呼吸音が聞こえる。
“ずる……ずる……”
祠の中で、何かが這い出てくる。
白布をまとい、髪を引きずる女。顔の半分は朽ち、もう半分は木の皮のように硬化している。
女は口を開き、木屑まじりの声で囁いた。
「……返せ……杉を、切ったのは……おまえか」
笹岡は息を呑んだ。
頭の中で、幼いころ聞かされた昔話が蘇る。――杉の森を荒らした者は、お杉様に喰われる。
背筋を冷たい手が這い上がるような感覚。
水野の体はずるずると引きずられ、祠の闇へと消えた。
笹岡は叫んだ。「やめろ!」
祠に駆け寄り、手を伸ばした瞬間、冷気が噴き出した。
光が弾け、祠の扉に古い札が浮かび上がる。朱の墨で書かれた一文字――「封」。
視界が揺らぎ、笹岡は後ろに倒れ込んだ。
気づいたとき、祠は静まり返り、水野の姿も消えていた。
ただひとつ、祠の前に残っていた。
――制服の名札。
“水野悠真”の文字が、泥にまみれていた。
笹岡は震える指でそれを拾い上げ、呟いた。
「……封印は、まだ生きてる……」
そのとき、森の奥で誰かの笑い声がした。
女でも男でもない、ざらついた声。
「杉の名は……杉の名は……」
木々がざわめき、地面がうねるように動いた。
――封印の祠が、再び目を覚ましたのだ。
第四章 杉の名は
翌朝、杉林の入口に警察の黄色いテープが張られていた。
“行方不明者の捜索”という名目だが、地元の人間は誰も近寄ろうとしなかった。昨夜の嵐のせいで、木々の幹には無数の爪痕のような傷が刻まれ、鳥居は倒壊していた。
笹岡は、校舎の屋上からその光景を見下ろしていた。
目の下には深い隈があり、手は細かく震えている。
あの夜の出来事が、幻覚でも夢でもなかったことはわかっていた。
ポケットには、泥まみれの名札――「水野悠真」。
それだけが確かな証拠だった。
そのとき、風が吹いた。
校庭の隅に立つ一本の杉の木が、ざわざわと鳴いた。
笹岡は思わず視線を向けた。
木の根元に、誰かが立っていた。長い髪を垂らし、白い制服を着ている。
――水野。
だがその姿は、どこかおかしかった。肌は灰色に乾き、口元からは細い根のようなものが覗いている。
「……笹岡、逃げろ……杉の名は……呼ぶな……」
低く、湿った声が風に溶けた。
笹岡は思わず校舎を飛び出した。足が勝手に林の方へと向かう。
――確かめなければ。封印は、本当に解けたのか。
学校裏の坂道を駆け下りる。空は鉛色に曇り、森全体が息を潜めていた。
祠の前にたどり着いたとき、彼は息をのんだ。
祠は完全に崩れていた。
中には、黒ずんだ穴――地中へと続く裂け目が口を開けている。
風が吹き抜けるたび、低いうなり声のような音が響く。
「……封印、解けた……」
その瞬間、地面が脈打った。
杉の根が隆起し、泥を裂いて伸びる。
祠の奥から、白い腕が現れた。
木の皮のような肌、節の浮いた指先。その腕が地上を掴み、ゆっくりと体を引き上げてくる。
それは“女”の形をしていた。
顔は朽ちた杉の木と化し、髪は根のように地中へ続いている。
空洞の瞳の奥で、青白い光が明滅した。
「……杉の名は……“杉乃”……わたしは、食われた……この森と、ひとつにされた……」
笹岡は後ずさった。
足元に水が溜まり、腐葉土の匂いが鼻を刺す。
女――いや、怪物はゆっくりと立ち上がった。身の丈は二メートルを超え、身体の半分が木の根に覆われている。
腕が伸びた。枝のように裂けた指が、笹岡の首元に迫る。
笹岡は叫び、手にしていた懐中電灯を投げつけた。
光が怪物の顔を照らす。その瞬間、木の皮の下から、人間の顔が一瞬だけ覗いた。
――若い女の顔。涙の跡を残したまま、静かに口を動かす。
「助けて……封じて……もう一度……」
笹岡は理解した。
これは“怨霊”ではない。封印の儀で犠牲になった巫女、杉乃の魂そのもの。
祀られ、忘れられ、森と同化してなお、苦しみ続けている。
だが次の瞬間、女の顔は裂けた。
悲鳴とも笑い声ともつかない咆哮を上げ、怪物の体が膨れ上がる。
枝が飛び出し、杉林全体が蠢いた。
笹岡は転げながら逃げた。木々が道を塞ぎ、根が足を絡め取る。
視界の端で、校舎の明かりが滲んで見えた。
あと少しで外だ――そう思った瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
枝の一本が突き刺さり、血が噴き出した。
倒れた笹岡の上に、影が覆いかぶさる。
怪物の口が開いた。
木の裂け目から、無数の根がうねり出て、笹岡の顔に触れる。
彼の瞳に、最後に映ったのは――祠の跡に立つ一本の杉。
その幹に刻まれた赤い文字。
「封」。
森が再び静まり返った。
翌朝、桜ノ宮高校の裏山で、新たな“行方不明者”の噂が広がった。
今度は教師の笹岡。
彼を最後に見たという生徒はこう証言した。
――「校庭の杉の木の前で、先生が笑ってたんです。まるで、木と話してるみたいに」
風が吹き抜け、杉の葉がざわめいた。
“お杉”の名は、またひとつ、語り継がれていく。
杉の名は 明智吾郎 @yu222222
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