第15話 違和感と真実、困惑する男たち
空気が、凍りついたように動かなかった。
三人とも、ただ立ち尽くしていた。
何をどう受け止めればいいのか分からない。
言葉が、現実の意味を持たなくなっていた。
その時、スタジオの奥から足音が近づいた。
スタッフが一人、穏やかな笑顔を浮かべて声をかける。
「マドモアゼルは撮影に入りましたから、お茶でも」
言葉の響きだけが場違いに明るく、現実に引き戻すようで――
逆に、それが異様だった。
“マドモアゼル”。
誰を指しているのかは分かっていた。
山城が無言でスタッフに頷く。
三人は無意識のうちに案内に従い、スタジオを後にした。
控え室の片隅。
テーブルに並べられた三つの珈琲から、薄い湯気が立ち上っている。
だが誰も手を伸ばさない。
香りだけが静かに広がり、重い沈黙を埋めていた。
沢木は、ふと桐生の方へ目を向けた。
通訳である彼の顔には、疲労と困惑の色が入り混じっていた。
何かを言おうとして、沢木は一度息を飲む。
それから低く、落ち着いた声で言った。
「……聞いてくれないか、皆、あの犬のことを“マドモアゼル”とか“お嬢さん”と呼ぶのか」
声は冷静に聞こえたが、その奥には確かな“引っかかり”
犬に“お嬢さん”? “マドモアゼル”?
ペットに愛称をつけることは珍しくない。
けれど、この現場のそれは、明らかに“ただの愛称”ではなかった。
誰もが当然のように、当たり前の敬意とともにその名を口にしている。
桐生はわずかに唇を噛んだ。
通訳としての彼の目は、文化のズレや言語の温度差に鋭敏だ。
だからこそ、あのスタッフたちの“呼び方”に違和感を覚えていたのだろう。
「……わかった。聞いてみる」
「彼女を雪と呼ぶのは親しい人、家族だけだと思います」
桐生が通訳を終えた瞬間、沢木は息を止めた。
意味は単純だ。
「日本語は短くても難しい、国によって、“雪”って発音しづらい人もいるかもしれませんね」
スタッフは笑いながら言った。
冗談めかした柔らかい声。
場を和ませるような、軽やかな口調。
あまりにも自然で――あまりにも“整いすぎて”いた。
沢木は、その言葉にすぐ反応できなかった。
意味だけが脳の中で沈殿する。
横で桐生もまた、言葉を返すことなく黙っていた。
彼の表情は変わらない。
だが、無言のままスタッフを見つめる目が、わずかに鋭さを帯びていた。
沢木は感じていた。
桐生も、自分と同じものを聞いたのだ。
ただの冗談としては処理できない。
そう思っているのだと。
「母犬は出産で亡くなりました。オーナーは彼女を大切にしているんです」
スタッフの声は穏やかだった。
沢木は、その自然さに逆に息が詰まった。
まるで、感情の温度だけが抜け落ちているようだった。
「フランス語で本名があったはず」
スタッフは軽く笑って肩をすくめた。
「皆、国ごとに自分たちの言葉で呼んでいるんですよ。“お嬢さん”とか、“マドモアゼル”。洒落みたいなものです」
その言葉の軽さが、空気にひどく似合わなかった。
冗談のはずなのに、笑いが生まれない。
「“雪”というのは、オーナーの友人が呼んだのが最初です」
桐生の手がわずかに止まった。
通訳の癖で、反射的に頭の中で意味を整えようとしたが、 “雪”という音が異物のように引っかかった。
この場所、この空気の中で、突然の日本語はあまりにも浮いていた。
「……オーナーの友人が?」
桐生が慎重に聞き返す。
スタッフは頷き、今度は少し笑いながら言った。
「日本人で、フランス語がわからないんです」
理由が、唐突に妙な形で繋がったからだ。
「友人はオーナーと親しいのか?」
桐生が通訳すると、スタッフはあっさりと答えた。
「友人は吹雪の相棒、つまり主人ですよ」
「吹雪は雪の育ての親なんです。雌ですけど強い犬です」
強い――その言葉に、沢木は小さく眉を寄せた。
言葉としては簡単だ。
だが、その“強さ”が何を指すのか、伝わってこない。
筋力か、性格か、知性か、別の何かか?
「頼む、“強い犬”って、それは、どういう意味だ?」
沢木の声には、静かだが確かな圧が乗っていた。
スタッフは深刻さに気づいていないように、あくまで柔らかく笑った。
「女でも、人間の女性は強いでしょう? そんな感じです」
冗談のような口ぶり。
けれど、その笑みに含まれる“軽さ”は、なぜか心に引っかかった。
沢木は頭の中を整理しようとした。
オーナーは外国人だ。
母犬は出産で命を落とした。
その子――雪を、オーナーは大切にしている。
そんな犬を、譲る? 売るか? 手放すか?
日本の子役の家族が、その犬を“ルーク”と名づけて子犬の頃から育てた?
胸の奥がざらついた。
“嫌な予感”という言葉では片づけられない。
そこにはもっと、濁った何かがあった。
撮影所を出ると、夜の空気がひどく重く感じた。
冷たい風が吹いているのに、胸の奥は熱かった。
「――山城、いや、弁護士さん」
背中に向けて声をかけると、山城がゆっくりと振り返った。
その表情は、さっきまでの冷静な弁護士の顔ではなかった。
「俺は、親子の言葉を信じられない」
沢木の声は低く、押し殺したようだった。
「ルーク」と呼び、かわいがっていたと言う母親と子役。
山城の顔がわずかに強張る。
反論するでも、否定するでもなく――何かを飲み込んだような沈黙。
沢木は続けた。
「あんたがこの案件を受けて、犬をあの親子の元に戻そうとしてる……おかしくないか?」
言ってから、自分でも言葉の鋭さに気づいた。
だが、止められなかった。
腹の底で“何かが違う”と叫んでいた。
「俺だって、まだ何もわかっていない」。
それは自分への言い訳かもしれない。
重い沈黙のあと、桐生が静かに口を開いた。
「――親子は、勘違いしているんじゃないですか」
二人の視線が彼に向く。
桐生は言葉を選びながら続けた。
「日本で育ったなんて。そう思い込んでいるだけかもしれません」
はっきりとは言わなかった。
けれど、その声音に確かな違和感があった。
通訳として、言葉の裏を読む人間の感覚――それが警鐘のように響いていた。
自宅に戻った沢木は調べようとした。
映画に出るならメディア露出があって当然だ。
テレビ番組、雑誌の特集、SNSでの拡散。世間は必ず話題にすだが、情報は少なかった”。
出演歴は一度きり。
公式サイトには犬種と雌であるという最低限の情報だけ。 血統や育成環境、トレーナーの名前すら一切触れられていない。
《家庭犬なので、撮影が終われば家族の元へ戻ります。続編・スピンオフの予定はありません》
それだけ。
宣伝に使われる気配もなければ、商品展開もない。
「本当に、売り出す気がないのか……?」
沢木は小さくつぶやいた。
オーナーは彼女を大切にしている。
スタッフはそう言っていた。
手がかりを探すように、沢木は動画サイトを開いた。
TV出演のインタビューのシーンが動画サイトにアップされていた。
槇原という男が気になった。
歳は四十代半ば、落ち着いた物腰。
表情は柔らかいが、犬を見つめる視線は鋭い。
その目が、何かを知っているように思えた。
――この男は気づいている。
沢木は直感した。
すぐにノートパソコンを開き、槇原の所属を調べ始めた。
番組のクレジットから番組制作会社を割り出し、スタッフの 名前を検索。
大学の公式サイトを辿り、ようやく一つのメールアドレスに行き着く。
所属は「行動環境動物学」――やはり専門家だ。
番組内では当たり障りのないコメントしかしていなかったが、あの目はただの傍観者ではなかった。
話を聞く価値はある。
件名に「雪という犬についての件」とだけ書いて、メール本文を打ち始めた。
丁寧すぎず、だが礼儀は崩さない。
曖昧な言葉を避け、こちらが何を知っているかを見せすぎないようにする。
犬の映像を見たこと。関係者として疑問を持ったこと。
一度、話を聞きたいという旨。
全てを記し、深く息を吸って送信ボタンを押した。
画面に「送信完了」の文字が表示される。
その瞬間、胸の中にまたひとつ、新たな重みが落ちた。
「どうぞ、楽になさってください」
落ち着いた声だった。
自宅に招かれるとは思っていなかった沢木は緊張した。
喫茶店での短い打ち合わせ程度を想定していた。
それが、目の前のこの穏やかな家庭のリビングだとは――。
槇原はティーカップをテーブルに置き、柔らかく微笑んだ。
その目だけが、笑っていない。
「外では、少し話しづらいと思いました」
その一言に、沢木の背筋がわずかに強張る。
“話しづらい”――どんな話を、これからするつもりなのか。
胸の奥で、鈍い警鐘が鳴った。
「数日前、ある男性が私に連絡を取ってきたんです」
槇原の声は低く、抑えられていた。
「その人の話では――彼の妻と息子が、昔、あの犬を飼っていたと」
カップの取っ手を持つ指先に、沢木の力が入った。
「それは、本当なんですか?」
「夫である彼は、たいそう驚いていました。
沢木の呼吸が止まった。
胸の奥が冷たくなる。
“実名で、そんな軽率な行為をする理由がわからない。
だが、それ以上に衝撃だったのは、“あの犬を飼っていた”という確信めいた言葉だ。
「子犬の頃に飼っていたというんです。……今になって“昔、自分たちが飼っていた”などと。おかしいでしょう?」
「男性は言いました」
槇原は少し間を置いて続けた。
「子犬の頃に飼っていた、今になって“また一緒に暮らしたい”なんて、おかしいだろうと」
沢木は小さく息を吐いた。
当たり前だと思った。
常識的な判断だ。
思い出があったとしても、成犬になった大型犬を再び“取り戻したい”と主張するなど、普通ではない。
「母親と息子さんが――勘違いしているんでしょうね」
槇原の言葉に、沢木は顔を上げた。
「世話はほとんど他人に任せていたそうです。大型犬ですからね。しつけが大事だということで、訓練所に預けたらしい」
沢木は何も言わなかった。
沈黙が重く落ちた。
「譲渡の理由も後付けに感じられるんですよ」
槇原はゆっくりと首を傾けた。
「子役の仕事が忙しくなって、世話ができなくなった”――そういう説明でした」
言葉が空気の中で重く沈んだ。
「私は、あの犬は、海外で育ったと思っています」
槇原は言い切るような口調だった。
曖昧な濁しも、推測の語尾もなかった。
その確信に満ちた声音に、沢木の指先がぴくりと動いた。
「断定するんですね」
静かに問い返すと、槇原はうなずいた。
「テレビ番組が始まる前、弁護士から連絡があったんです。“犬のプロフィールには一切触れないでくれ”と、そう念押しされました」
沢木は眉をひそめた。
「それは、普通なんですか?」
「オーナーに守られているんでしょうね」
その言葉に、沢木ははっとした。
撮影所のスタッフも同じことを言っていた。
オーナーは彼女をとても大切にしている。
マドモアゼルと呼ばれている。
「あの犬を引き取って飼育、現実が見えてませんよ」
槇原の静かな言葉に、沢木は眉をひそめた。
何を言っているのか、一瞬、意味がわからなかった。
「どういう意味ですか?」
「あのインタビュー、スタジオにはハンドラー――犬を制御する専門の人間がいなかったんです」
「本当ですか?」
沢木の声がわずかに震えた。
信じられなかった。
「私の考えですが」
槇原は言葉を切って、ゆっくりと沢木を見た。
「家族や“主人”と認めた人間の言葉にしか従わない。日本語は通じているけど無視している”という印象すら受けました」
沢木は言葉を失った。
そんな犬が――本当に、いるのか?
「多言語が取り巻く環境で育ったんでしょうね」
槇原の声が、静かに重なる。
「言葉そのものよりも誰が発しているか、基準に動いているんだと思います」
沢木はしばらく黙っていた。
空気の中で、槇原の言葉だけが現実感をもって響いていた。
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