第14話 恵梨香、法律事務所に相談する
応接室の空気は静まり返っていた。
山城は手元のメモ帳に目を落としながら、目の前に座る女性を一瞥した。
恵梨香。年齢は四十代前半。
清楚な服装に身を包み、背筋を正して座っているが、その指先だけがわずかに震えていた。
「……それで、この犬が、“ルーク”だと?」
山城は慎重に言葉を選びながら、スマホの画面を覗き込んだ。
映っているのは白と黒の斑模様をした子犬。
「間違いありません。私が育てた子です」
恵梨香の声には、ためらいはなかった。
ただ、少しだけ過去に縋るような響きがあった。
「大型犬ですし、ちゃんと育てようと思って、しつけ教室に預けたんです」
「……なるほど」
山城は頷いた。
恵梨香の話はどこか不自然な点もあったが、突飛ではなかった。
少なくとも、あり得ない話ではない。
ただ、確たる証拠がないのがネックだ。
「今は“雪”と呼ばれているそうです。ですが、私たち家族にとっては、“ルーク”なんです」
恵梨香の手がテーブルの上でぎゅっと握られる。
「……名前が変わっていても、あの子はあの子です。
取り戻したい。ただ、それだけなんです」
言葉の端々ににじむ感情に、山城は一瞬だけ目を伏せた。
クライアントの心情は理解できる。
だが、この件は「感情」で解決する問題ではない。
「事情はよくわかりました」
山城はメモを閉じ、姿勢を正す。
「ただ、犬の所有権を法的に主張するためには、“現在の所有者”より強い根拠が必要です。譲渡契約書でも、動物病院の記録でも。残念ながら、スマホの写真だけでは少し弱い」
「でも……あの子は、うちの子なんです」
恵梨香はかぶせるように言った。
声がわずかに震えた。
山城は頷きながらも、どこか引っかかるものを覚えた。
だが、依頼者の確信と熱意に押され、理性よりも興味が勝った。
――本当なら、これは大きな案件になるかもしれない。
映画会社を相手取る所有権の確認訴訟。
世間が注目すれば、自分の名前がニュースに出る。
「確認させてください。あなたは、その犬――“雪”が、以前あなたの家で飼われていた“ルーク”だと確信している。
そして、取り戻したいと」
「あの子は、うちの家族です。誰にも渡すつもりはありま
(この依頼、本当に“正しい案件”なのか……)
だが、もう後には引けない。
山城はゆっくりと立ち上がった。
クライアントのために。
そして、自分の名前を売るために。
山城が映画会社への面会を申し込んだのは、昼過ぎのことだった。
社内に戻るなり、彼はフランス語が堪能な同僚・桐生のデスクにまっすぐ向かった。
「悪い、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
突然の切り出しにも、桐生は慣れた顔で頷いた。
山城の突発的な仕事は日常茶飯事だ。
「映画会社への面会を取りたい。フランス語のやり取りが必要なんだ。頼めるか?」
「まあ、やりますけど……」
軽い返事で請け負ったものの、桐生の胸には小さな違和感が残った。
そしてその違和感は、面会があっさり取れた瞬間に、さらに膨らんだ。
相手は業界人――それも、どこか“普通じゃない”雰囲気を持っていた。
翌日、山城に報告した後、桐生は意を決して口を開いた。
「山城さん、ちょっと……不味くないですか、これ」
「なんだい?」
山城はいつもの調子で、気にも留めない様子だ。
桐生は言葉を選ぶように、一拍置いた。
「面会は取れました。でも、ちょっと妙だったんです」
「妙?」
桐生は迷った。
感じたことをそのまま言うべきか迷ったが、結局、核心だけをそっと差し出す。
「理路整然、普通の広報や制作の人とは違う。なんというか……法律に詳しい感じ、っていうか」
山城は肩をすくめただけだった。
「そういう人材もいるだろう。気にしすぎじゃないか」
山城の言葉、予想通りの反応に桐生は不安を感じた。
面会の連絡を終えてから、桐生の胸にはずっと刺のような異物感が残っていた。
言葉にすると壊れそうな、脆い違和感。
相手とのフランス語の会話は整っていた。
滑らかで、論理的で、無駄がない。
だが、その無駄のなさが逆に気味が悪かった。
映画会社の人間ならもっと温度がある。
作品への愛情が滲むような語彙があるはずだ。
しかし、あの声には熱がなかった。
(質問の仕方も、情報の拾い方も、業界じゃない)
言葉にした瞬間、現実になってしまいそうで、先を考えるのが怖かった。
翌日、山城は軽い調子でデスクにやってきた。
「桐生、明日の面会、君も同行してくれないか」
予想外の言葉に、桐生の心臓が一瞬動きを止めた。
「……俺が、ですか?」
「フランス語の細かいニュアンス、やっぱり直接見てほしい。相手も君のことを“信頼できる通訳だ”って言ってたしね」
その言葉に、桐生の背中を汗がゆっくり伝った。
“信頼できる通訳”――
あの相手がそんなことを言う必要があるだろうか。
むしろ、あれは“観察対象に近づけるための甘言”のようにすら思えた。
山城は続ける。
「何か気になることがあるなら言ってほしいんだが」
桐生は口を開きかけて、閉じた。
言えるわけがなかった。
“映画会社の法務より、もっと深い層の人間に見える”
“会話の節々で、山城の情報を探っているように感じた”
“あれは、誰かを調べる職業の人の喋り方だ”
喉まで出かかった言葉を、桐生は飲み込んだ。
そんなことを言えば山城は笑って流す。
そして、桐生の勘だけが馬鹿みたいに信じて震えていることになる。
沈黙のまま、桐生はゆっくり頷いた。
「……分かりました。同行します」
言った瞬間、胸の奥に重りが落ちるような感覚がした。
「助かるよ。じゃあ明日、よろしく頼む」
そう言って離れていく背中が、いつもより無防備に見えた。
その無防備さが、逆に恐怖を際立たせる。
(山城さん、本当に分かってない……)
桐生は誰にも聞こえない声で呟くように、心の中だけで言った。
(あれはただの面会じゃない。
俺が同行するのは、通訳のためじゃない。
――“何が起きるか、見届けるためだ”)
言葉にしなかった不安が、静かに胸を締めつけた。
撮影所に入った瞬間、山城と沢木の足が同時に止まった。
静寂だ、撮影現場には絶対にあり得ない“音の消え方”。
通常なら、どこかでスタッフが走る靴音、照明の調整音、誰かの段取り確認の声が聞こえる。
それなのに――ここは、空気が凍っているようだった。
山城は眉を寄せ、小さく呟いた。
「静かすぎないか? ここ、撮影してるよな」
答えは返らない。だが、違和感だけは胸の奥に重く沈む。
役者の日本語のセリフは聞こえてくる。
その声だけが、暗いスタジオの中に浮かんでいた。
だが、その周囲を囲むスタッフは――ほとんど全員が外国人だった。
肌の色も、言語も、国籍もバラバラ。
しかし皆、口数が極端に少ない。
桐生はその光景を見て、喉の奥がひりついた。
フランス語の会話で感じていた違和感が、冷たい形を持って迫ってきた。
(……この現場、言語の構造が、海外主導だ。
日本の作品なのに、空気が完全に“外側”だ)
彼の心拍が早まり、汗が手のひらに滲む。
沢木もまた別の角度から驚いていた。
普段なら動物扱いのスタッフがいるはずだ。
生体の管理責任者、獣医、動物ハンドラー……
大型犬を使うなら、普通はその姿がチラつく。
だが、誰もいない。
(犬がいるはずの現場で、動物担当の影がゼロ……?
そんな現場、聞いたことがない)
胸の奥で、静かな警鐘が鳴り始めた。
山城は案内役の外国人スタッフに声をかけた。
「監督は……外国人の方なんですか?」
案内人は頷きながら、自分の唇にそっと指を当てた。
“静かに”と。
その仕草の妙な重さに、三人とも同時に息を止めた。
「今日の監督は気難しい人です」
今日の――監督?
山城が眉を寄せる。
「……監督は一人じゃないんですか?」
案内人は軽く首を横に振った。
「今日はドイツ人の監督。とても気難しい。だから……声は、控えて」
その説明はあまりに異例だった。
映画制作に詳しい山城が真っ先に顔をこわばらせる。
(監督が変わる? そんな現場、聞いたことがない……)
桐生は背中を撫でられたような寒気を覚えた。
沢木は声を出さずに唇を噛んだ。
「おかしいですか?」
案内人が首を傾げ、少しだけ微笑んだ。
その笑みは、冗談か本気か分からない淡いものだった。
「昔の映画やインディーズでも、こういう手法はありましたよ」
淡々とした声。
正論のように聞こえるが、どこか、ずれている。
山城は一瞬言葉に詰まった。
返そうとした言葉が喉で止まる。
“手法”という単語が、今の空気には似つかわしくなかった。
案内人は視線を奥へ向け、「あそこです」と静かに指を差した。
スタジオの隅、照明の届かない影の中――大きなマットレスが敷かれ、その上に犬が伏せていた。
黒と白の斑、姿勢は崩れていない。
前脚を揃えたまま、まるで“静止”しているように動かない。
山城と沢木が目を合わせる。
わずかに頷き合い、ゆっくりと歩き出した。
その瞬間、背後で声が上がった。
「すみません、席を外してもいいですか」
振り返ると、同行していた男が案内人に話しかけていた。
案内人は少し迷うように視線を泳がせたが、すぐに頷いた。
「ええ、構いません。すぐ戻ってきてください」
山城は眉をひそめる。
現場に招かれた身とはいえ、スタッフが抜けることに違和感を覚えた。
だが、沢木が小さく首を振る。
「大丈夫です。俺たちだけで見に行きましょう」
その声には、妙な落ち着きがあった。
職業柄なのか、犬を前にした時の沢木はむしろ冷静だ。
山城も小さく息を吐き、頷いた。
それ以外に、音はない。
静けさだけが、異常に膨らんでいく。
クッションの上に、犬は座っていた。
黒と白の斑模様。光を吸い込んだような毛並みが、照明の下で不自然に鈍く光っている。
沢木の表情が険しくなった。
「……これが雌? 雄より大きいぞ」
その声には、動物を見慣れた者だけが持つ微かな警戒がにじんでいた。
骨格、体高、肩の張り。どれも“雌”のサイズじゃない。
山城が何か声をかけようとしたが、沢木が手で制した。
犬の首元には、リードも首輪もない。
自由な状態でこの落ち着き――異様だ。
桐生もそれに気づき、背中に薄い汗を感じた。
沢木の目が動物を“観察”ではなく“警戒”している。
そのとき――
「Ignorina, finiamo presto la cena oggi.」
女の声だ。
“お嬢さん、今日は夕食早めにすませましょう”
山城と沢木が、同時に振り向く。
いつの間にいたのか。
民族衣装をまとった黒人の女性が、静かに彼らのほうへ歩いてきていた。
犬が動いた。
ゆっくりと立ち上がり、音も立てずに女性へ歩み寄る。
桐生の顔が引きつる。
今の言葉――フランス語じゃない。
耳が瞬時にそれを拒絶していた。
(……イタリア語? なぜ?)
理解した瞬間、背中を冷たいものが這い上がった。
そのときだ。
「Fräulein, der Direktor ist da.」
低く、硬い男の声。
ドイツ語。
意味を考えるよりも早く、スタジオの空気が変わった。
犬が、女の足元から離れた。
黒人女性は、ほんのわずかに肩をすくめた。
それだけで犬は方向を変え、声の主――スーツ姿の男のもとへ静かに歩いていった。
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