第13話 妻の暴走、夫の不安
「課長、その、いいですか」
昼休み、営業部の若手の井崎が慎重な声で近づいてきた。
達也が顔を上げると、彼はスマホの画面を差し出してきた。
「これ、奥さん……じゃないですか?」
そこには、実名で立ち上げられた掲示板のスレッド。
『昔、あの犬を飼っていました』というタイトルの下に、
写真と共に書き込まれた投稿。投稿者名「野上恵梨香」。
胃の奥が急に冷たくなる感覚。
指先の感覚が、一瞬で鈍った。
「ありがとう。君はこの件、忘れてくれ」
そう言った時、井崎は気まずそうに目を逸らした。
社内で広まっている、確信できる空気だった。
帰宅後、恵梨香に問いただした。
「投稿、見た。お前、何を考えてるんだ……」
「何、事実を書いただけよ。間違ったこと言ってない」
反省も、戸惑いもない。
むしろどこか誇らしげですらあった。
「実名だぞ、会社にまで話が来てる」
「本気で向き合うって、そういうことでしょ? 匿名でこそこそ、何の意味もないじゃない」
その時だった。階段の影から声がした。
「母さんは悪くないよ」
階段に腰かけ、スマホを手に持ったまま。こっちを見ているのは息子修二だ。
「俺、あの犬覚えてる。白と黒のやつ。昔うちにいたよね? 写真も残ってるじゃん」
「だからって、母さんの投稿が正しいわけじゃない」
「でも、嘘じゃないよ。飼ってたのは事実だろ?」
正しさ、という言葉が空しく響いた。
息子も妻も事実さえあれば倫理はどうでもいいらしい。
まるで“芸能界”に長くいた奴らの論理だ。
何かが、音を立てて割れた気がした。
達也はその夜、風呂場の鏡に映った自分の顔を、しばらく無言で見つめていた。
「奥さん、あの犬飼ってたってほんとですか?」
昨日、営業先で取引相手にそう聞かれたときは、笑ってごまかすしかなかった。
だが、笑った自分の顔が鏡に映るようで、胸の奥がざわついた。
――やばい、これはもう放っておけない。
帰宅後、達也は一人リビングに座り、例のテレビ番組を再生した。
インタビューを見た後、感じた。
「……このままじゃ、まずい」
衝動的にスマホを手に取った。
検索ワードに打ち込んだ名前はひとつ。
槇原 啓介
動物行動学の専門家で、番組のゲスト出演していた男だ。
自分しは素人、だからこそ、専門家の意見を聞きたかった。
数時間後、返信は意外にも早く届いた。
件の件、私も気になっていました。
よろしければ、お話を伺います。
「……会ってくれるのか」
メールを読んだ瞬間、達也の心臓が少しだけ早く打った。
後日、都内のカフェ
扉が開き、静かなカフェに達也が入る。
指定された席には、スーツ姿の男性がすでに座っていた。
専門家という言葉にぴったりはまる印象だった。
「槇原先生……でしょうか?」
「はい、槇原です」
握手の手は温かくも、少し硬さがあった。
達也はその誠実さに、ほんの少しだけ救われる気がした。
「ご連絡、驚きました。
ご家族が“あの犬を飼っていた”とネットに書かれたと」
「……はい。妻が、勝手に」
コーヒーが運ばれ、カップがテーブルに置かれた音だけが一瞬響く。
「正直、自分は信じていません。子犬の頃うちにいた犬とは、あまりにも違いすぎて」
「そうでしょうね」
槇原はうなずいた。
「ゲストとして参加しましたが。あの犬の振る舞いは、家庭で育った犬のそれではありません」
その言葉に、達也の指先がぴくりと動く。
「お聞きしたい、あなた自身は、本当に“その犬”を飼っていたと、思っていますか?」
一瞬、言葉に詰まる。
達也は目を伏せ、絞り出すように答えた。
「思っていません。妻が“そうだった”と、断言してしまって……ネットに、実名で」
槇原は腕を組んで、深くうなずいた。
「では、今から私がお話しすること、本気で聞いていただけますね?」
その言葉に、達也は息を呑んだ。
目の前に座る男は、ただの学者ではなかった。
何かを“知っている”側の人間だと、そう直感した。
そしてこの瞬間、達也は自分の中で、何かが変わり始めているのをはっきり感じていた。
「――あのとき、スタジオに犬の訓練士などはいなかったんです」
槇原が静かに言った、その一言は、まるで水面に落ちた小石のように、達也の心に波紋を広げた。
「……え? それ、本当ですか?」
思わず声が上ずった。聞き間違いかと思った。
だが、槇原は真顔のまま、ゆっくりと頷いた。
「リードもなかったんです。私も最初は驚きましたよ」
まるで映画か何かの話でもしているかのように、淡々と話すその口調が逆に不気味だった。
リードなしの大型犬が、照明と人の熱気が渦巻くスタジオに――?
常識で考えれば、即アウトだ。
「普通なら、いや、絶対に危険ですよね?」
達也は思わず前のめりになっていた。
だが、槇原の反応は、意外なほど落ち着いていた。
達也の脳が警報を鳴らしたが、次の言葉がそれを黙らせた。
「役者の神崎さんが言ってました。インタビューの直前に、犬は、言われたそうです」
そして、槇原はゆっくりと、まるでその場で再現するように言った。
「Analysez l'ambiance de la situation et agissez en conséquence.」
その言葉は、耳に馴染まない響きを持っていた。
フランス語――それだけは達也にもわかった。
「……えっと、それは?」
「“その場の空気を読み、適切に行動しなさい”という意味です」
達也は、数秒間、言葉が出なかった。
……犬に、空気を読めって?
喉の奥が乾いて、思わずコーヒーに手を伸ばす。
けれど、手は震えていた。
「それは誰が言ったんですか?」
「おそらく。“主人”ですね。彼女が従うと決めた存在」
場の空気を読め、と犬にフランス語で指示する主人。
それを理解して、その通りに振る舞う犬。
――現実感がなかった、だが、槇原の語り口は一貫して落ち着いている。
そのギャップが、逆に“これは現実なのだ”と突きつけてくる
「――驚かれるのは当然です。“空気を読んで行動しなさい”なんて犬に対する命令じゃありません」
槇原は、静かに続けた。
「私は……生活環境が関係していると思っています」
「生活環境?」
達也は眉をひそめた。意味が掴めない。
「たとえば、犬や猫でも老人と暮らしていると、動きが自然と穏やかになるんです。足音を立てず、急に動かない。驚かせないように、無意識に振る舞うんですよ」
「……それは、しつけじゃなく?」
「長く一緒に暮らしていれば、学ぶんです。盲導犬もそうです。セラピードッグも吠えない、じゃれない、感情を抑えて“場の空気”に合わせる。彼らは人間の感情の動きを読むようになるんです」
言葉の一つ一つが、重く胸に沈んだ。
槇原の声は冷静だが、その奥には確信があった。
達也の脳裏に、テレビで見た麻薬探知犬や介助犬の姿がよみがえる。
どの犬も静かだ、荒々しい動きも、無駄な鳴き声もない。
「飼い主や一緒に暮らす人間の性格は犬に強く影響します、でも、それだけではないでしょう」
槇原はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を達也の前に差し出す。
「これを見てください。公式に公開されている写真です」
光沢のある画面に堂々とした体格の秋田、紀州だろうか。
そばに――白と黒の斑模様を持つ犬が、静かに腰を下ろしていた。
「吹雪という母犬です」
「……これが、母犬なんですか」
槇原は静かに頷く。
「産みの母親ではないのは明らかです。他の犬の血も混じっているのかもしれません。彼女のそばで育った子犬が、同じように“人を観察し、場の空気を読む”ようになっても、不思議ではありません」
「……母犬を見て、覚えた……?」
「役者の神崎さんも言っていました。誰かに教えられたんじゃない、母犬を見て学んだのではと」
達也は息を飲んだ。
「……なるほど」
自分でも気づかぬうちに、声が掠れていた。
理解しようとすればするほど、現実味が増してくる。
そしてそれが、逆に恐ろしかった。
“空気を読んで行動する犬”。
笑い話のように聞こえるが、実際にはそれだけの背景がある。
彼女――恵梨香が言う“子犬”とは、まるで別の世界にいる生き物なのだ。
「あの犬は、海外で育った可能性があります」
その一言が放たれた瞬間、達也の中で何かが静かに崩れ落ちた。
「それは……」
口にした言葉は頼りなく空気に溶けていく。
だが、槇原は達也の反応を待たず、淡々と続けた。
「雪を産んだ母犬が亡くなっているとしたら、どうです、あの犬の血統は――もう、途絶えている」
槇原の目は真っ直ぐだった。
誇張や憶測はない、ただ事実だけを静かに並べていた。
「血統が特別なら残された一頭がどれだけ大切に育てられているか」
達也は息を呑んだ。
槇原は言葉を選ばず、核心を突いた。
「雪のような犬は今後、生まれることはないかもしれません。育てる環境も遺伝の奇跡も――全てが揃わなければ、あの“性質”は再現できない」
達也の中に諦めにも似た感情が広がっていく。
「譲渡や販売すると思いますか? 日本の、一般家庭に」
答えるまでもなかった。
そんなことは、あり得ない。
川口は、あの日以来、無意識に映画の公式サイトを開いてしまうようになっていた。
最初はただの癖のようなものだった。けれど、気づけば――犬の写真を探している自分がいた。
「……なんでだろうな」
独り言のように呟く。
撮影の時の光景が、どうにも忘れられない。
あの“雪”という犬の静けさ。
人間よりも堂々としていて、誰よりも冷静だった。
ある夜、何気なくSNSを開いたとき――一つの投稿が目に飛び込んできた。
『あの犬、昔、我が家で飼っていました』
一瞬、スクロールする指が止まった。
「……は?」
馬鹿な。何を言ってるんだ。
あの犬が“家庭のペット”なわけがない。
半信半疑で投稿主のアカウントを開いた。
そして、息を呑む。
有名子役の母親――恵梨香。
芸能ニュースでも何度か見たことがある名前だった。
「……マジかよ」
思わず呟いた声が、控室に響いた。
冗談じゃない、これはただのファンの勘違いとは違う。
でも、もしかして――世間はどう思ってる?
気になって検索欄に入力した。
「犬 映画 雪 飼ってた」
出てくるのは、憶測とネタの境目が曖昧な投稿ばかり。
「もし本当なら、返してもらえばいいのに」
「すごーい!子役の子が犬の元飼い主とか奇跡じゃん!」
冗談半分、炎上寸前。
川口は画面をスクロールする手を止めた。
――おかしい。
胸の奥に小さな警鐘を感じていた。
調べると、恵梨香の息子――修二がSNSで過去にアップした写真が出てくる。
川口の眉間に皺が深く刻まれていく。
フェレット、プレーリードッグ、カメレオン。
昔のバラエティ番組の切り抜き、SNSの投稿、ペット雑誌の記事。
子役の少年が動物を抱いて笑っている写真がいくつも見つかった。
「なんだ、これ、全部、流行りのペット?」
理解が追いつかなかった。
驚いたのは、そのどれもが、今は“もういない”――
全て、手放されていた。
「譲渡した……?」
理由も記録されていた。
「撮影で忙しくなって、世話ができなくなった」
「かわいそうだから、責任を持って育ててくれる人に譲ることにしました」
「知人にどうしても譲ってほしいと言われて……」
「……は?」
川口は思わず声を漏らした。
忙しくなったから?
かわいそうだから。
どうしても欲しいって言われたから譲る?
「ふざけんな、おかしいだろ」
頭が熱くなる。胸の奥がざらつく。
芸能界に長くいた川口にとって、それは見慣れた言い訳のテンプレだった。
「自分たちは悪くない」
「相手が望んだから」
「仕方なかった」
――後付けの免罪符、都合のいいストーリー。
生き物だろ、家族だなんて言っておいて、扱いは流行りのアクセサリーか。
川口は自分でも苛立ちが滲んでいるのがわかった。
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