第16話 親子の愚行と達也の不安

 午後のマクドナルド。

 授業を終えたばかりの制服姿の男女が、席を寄せ合って話していた。

 何気ない会話しているつもりだったのだろう。

 雑誌記者の遠藤が気になったのは映画、犬というワードが手で来たせいだ。


  「おかしいよ、あいつの言動」

 男子生徒の声が沈んだ。

 周囲の騒がしさとは対照的に、その輪の中だけ空気が重くなった。

 「あいつの母親さ」

 男子生徒が、ストローを指でくるくる回しながら言った。

 「ネットに書き込んだんだって。“昔、子犬の頃に飼ってました”って。実名で」

 「え、実名で? それやばくない?」

 女子の一人が顔をしかめる。

 「それって、返してほしいって、いや、冗談だろ」

 もう一人の男子が首をかしげた。

 「たぶんな。そういうことだろ。でもさ――」

 男子は言葉を切り、呆れたように笑った。

 「おかしいだろ。子犬の頃に飼っていたから“返せ”って」

 「大型犬でしょ?グレートデンって」

 女子がストローをくわえたまま言う。

 「でかいんだ、シェパードとかゴールデンの比じゃない。大人でも苦労する、力も桁違い」

 「ペットショップで見たことないよね」

 女子の言葉に、男子が頷いた。

 「そりゃそうだ。ブリーダーが直接見て、ちゃんと世話できる家にしか売らないんだよ。金だけあってもダメ。ちゃんと責任持てる人じゃなきゃ」

 その言葉に、全員が少し黙った。

 一人の男子が、冷めたポテトをつまみながらぽつりと続けた。

 「修司のやつ、本気で言ってたんだよ。“ルークが戻ってきたら映画に一緒に出る”ってさ」

 「映画って、あの“雪”のやつ?」

 女子が目を丸くする。

 「そう。それ。出てるの、舞台出身のガチな役者ばっかりだぞ。あいつが入れるわけないじゃん。中学生だぞ」

 「実力者って、そんなにすごいの?」

 女子の一人が興味ありげに身を乗り出した。

 「ああ、野々原も光石も、日本じゃ脇役扱いだけどさ、海外で舞台やってんだ。光石なんか、一人で三時間の舞台だぞ」

 「三時間? 一人で?」

 女子が目を見開いた。

 「そんな人たちの中に“飼い主だから俺も出られる”とか言ってる時点で、もうズレてるんだよ」

 男子がため息混じりに言う。

 「あの犬、海外育ちじゃないかって噂があるんだよ」

 男子生徒が、フライドポテトをつまみながら言った。

 ふざけた色はない。

 「インタビューの後、宝石店が公式サイトにメッセージ出してたんだぞ」

 「え? マジで?」

 女子が思わず身を乗り出す。

 「本店のアカウント。“マドモアゼルのことは存じております”って書いてあった。しかも、“宝石を寄贈した”って。犬にだぞ? 信じられるか?」

 「犬を“マドモアゼル”って呼ぶの? なんか……」 

 女子が言葉を探すように口ごもった。

 「宝石を贈るとか、普通じゃない。しかも本店って、海外の本店。つまり、そっちの関係者が知ってるってことだ」

 女子が息をのむ。

 「多分、持ち主がすごい人なんだよ。富豪とか、そういうレベルの。だって、日本で、そんな話、聞いたことないし」

 「あり得るね……」

 別の男子が頷いた。

 学生たちの会話に、遠藤は、ふと手を止めた。

 耳に入ってきたのは、ただの放課後の雑談――そう思っていた。

 だが、その内容は違った。

 驚くほど鋭く、現実を見据えていると思った。



 達也は、妻・恵梨香の行動に呆れていた。

 弁護士に相談したというのだ。

 「ルークを取り戻したい」と。

 正気の沙汰ではない。

 だが、弁護士――山城という男は、その依頼を断ったという。

 「現地で犬を見て、親子の勘違いだと感じました」

 淡々とそう伝えられたとき、達也は思わず安堵した。

 他人の目絡みても妻の行動はおかしいと映るのだ。

 それだけで救われた気がした。

 

 槇原――動物の専門家。

 彼と話をしてから、達也はさらに自分で調べ始めた。

 槇原の言葉が、何度も頭をよぎる。

 「私の想像ですが、亡くなった母犬だけでなく、父犬も同じ“ハルクイン”だったのではないかと」

 ハルクイン、白地に黒の斑模様。

 ルークも、確かにその柄だった。

 だが調べるうちに、達也は驚くべき事実を知る。

 ——同じ模様の犬が生まれる確率は、非常に低い。

 片親がハルクインであっても、必ずしも同じ模様の子犬が生まれるとは限らない。

 両親が揃っていても、その確率は限定的だ。

 ルークと雪の模様が似ていたとしても、それは“同じ犬だから”ではなく、“たまたま似た別の個体”だからこそ成立する現象。

 さらに衝撃だったのは、その寿命についてだ。

 「大型犬は10年も生きれば長い方だと言われていますが、

 純血のグレートデンとなると、それより短いケースもあります」

 気になったのは寿命の短さではない。

 「先天性の疾患も多く、腸捻転や胃拡張など、特に食事中に突然死することもあります」

 「映画に出ているあの犬、には専門の食事係がついていると、役者の神崎さんが話していました」

 その一言が胸に深く刺さった。

 あの落ち着き、あの風格、

 そして、人の意図を汲み取るような視線。

 大切に育てられているのだ。



 「修司、冷静に考えろ」

 達也は、低く抑えた声で言った。

 「専門家の槇原先生も、あの犬がルークである可能性はないと断言していた」

 その声には怒りも苛立ちもなかった。

 ただ、決断の重さだけが滲んでいた。

 子供扱いはしないと達也は決心した、いや遅すぎたとさえ思っていた。

 だが、修司の顔はすぐに険しくなった。

 「専門家の言うことが絶対なの? 間違ってることだってあるじゃないか!」

 その言葉は、感情ではなく反射のようだった。

 聞く耳を持たず、否定のための言葉だけを並べる。

 「父さんは、僕が芸能活動するのが気に入らないだけだ。母さんは理解してくれたのに!」

 達也は、そこで初めて目を閉じた。

 息を吸い、吐き、言葉を選ぶ。

 だがその沈黙さえ、修司には責めのように聞こえたらしい。

 「修司」

 達也は静かに言った。

 「これ以上、母さんのやり方に付き合うつもりはない。父さんは、そう決めた」

 修司が顔を上げた。

 何かを言い返そうとするが、うまく言葉が出てこない。

 その代わりに、戸惑ったような笑いを浮かべた。

 「……何それ。大げさだよ。母さんは、ただ間違ってる人たちにちゃんと説明しようとしてるだけじゃないか」

 その声は、どこか他人事だった。

 テレビ局のスタッフに囲まれて褒められる時の、あの軽い調子、本気の言葉が、彼には届かない。

 達也は息子の言葉に、何も言えなくなった。

 彼の中で何かが静かに切れたのが、自分でもわかった。

 「お前も、少し考えた方がいい」

 そう言って、達也は椅子を引いた。

 「父さん、何それ……どういう意味?」

 修司が問いかける。

 だが達也は、振り向かずに言った。

 「中学生だろ。もう、自分の頭で考えろ」

 彼にはまだ、父の言葉の意味が理解できなかった。

 その言葉に込められた“別れ”の気配にさえ気づかずに。


 ADの坂口が台本を片手に、監督のもとに近づいた。

 二人はモニターの前に立ち、撮影済みの映像をチェックしている最中だった。

 「このカット、修司くんの台詞、やっぱりちょっと流れ止めてる気がします。テンポが合ってないというか……」

 監督は映像を巻き戻し、修司のアップの部分をじっと見つめた。

 数秒の沈黙のあと、口を開く。

 「ネットでも言われてますよね。“なんであの子がいるのか分からない”ってスレが立ってて」

 監督は顔をしかめた。

 「正直、このキャストの中で彼を起用したのは冒険だった。でも今さら降板させるわけにもいかないし……」

 「編集で、彼のセリフやカット、抑えめにできるかもしれません。演出として、視線とか、リアクションで流す形にして」

 「……そうだな。あくまで“バランス調整”ってことで。本人には絶対に気づかせるなよ」

 坂口は頷き、そっとその場を離れた。

 モニターの隅には、今まさにカメラの準備を待つ修司の姿が映っていた。

 スタッフが話し合っている間も、修司は何も知らず、台本を読んでいる。

 表情は真面目だが、その目に迷いの色はなかった。

 むしろ、自分の役割をしっかり果たしていると思い込んでいるような落ち着きがあった。

 誰もが、今は何も言わない。

 だがその“沈黙”こそが、修司の立場を物語っていた。

 彼の演技が悪いわけではない。

  ただ――他が良すぎたのだ。


 撮影現場の控え室に、午後の光が差し込んでいた。

 助監督がバタバタと走ってきて、監督の耳元で何かを囁いた。


 「子役が急病で来られない?」

 監督は眉間を揉むように押さえた。

 アクシデントは珍しいことではない、だが。

 「修司なら今すぐ来られます」

 声が割って入った。母親の恵梨香だった。

 濃いアイメイクにブランドのスカーフがよく目立つ。

 いつものように、一歩踏み出して“売り込み”の姿勢を崩さない。

 「うちの子、今撮ってるドラマでもセリフばっちり評価されてますし。監督のお眼鏡にかなうと思いますよ」

 彼女の声は明るく、だが微かに焦りが滲んでいた。

 監督は口元に手を当てていたが、視線は彼女に向けないままだった。

 助監督が携帯を見せてくる。

 モニターの光が、監督の顔を淡く照らす。

 「例の子、スタンバイできます、ほら、神崎さんのファンだって話してた子です」

 監督の目が、かすかに動いた。

 その名を聞いた瞬間、手の中のペンが止まる。

 「……神崎のファン?」

 「はい。あの子、舞台も観に行ってるそうです。神崎さんだけじゃなくて、光石さん、野々原さん——海外の舞台も観たことがあるって」

 「海外……?」

 監督の声が低く漏れた。

 周囲のスタッフも、わずかに息をのんだ。

 助監督が続ける。

 「演技の勉強をしてるみたいで、テレビより舞台に興味があるらしいです」

 監督の手が完全に止まった。

 モニター越しに映る照明の光が、彼の瞳に反射する。

 (舞台の芝居を観に行く小学生?今の子役でそんなことする子、何人いる……?)

 その思考が一瞬で答えに変わる。

 「よし」

 短い言葉、だが、現場の空気がはっきり変わった。

 スタッフの誰もが、それが“決定”の響きであると理解した。

 少し離れた場所で聞いていた恵梨香の顔が、硬直する。

 「……今、なんて?」

 その声には、明らかな焦りが混じっていた。

 監督は振り返らない。

 「今のシーン、演技の質で勝負だ。神崎さんを見てるような子なら、間を掴めるだろう」

 「……あの、ちょっと待ってください」

 恵梨香が数歩前へ出た。

 ハイヒールの音が床を打つ。

 その音だけが、不自然に響いた。

 「修司なら、すぐ来られます。今、ドラマにも出てるんですよ? セリフの間もちゃんと取れます。 経験なら、あの子より——」

 「……経験じゃないんです」

 監督の声は穏やかだった。

 だが、冷たいほどに揺るがなかった。

 「“観てきたもの”の深さですよ」

 その一言に、恵梨香の唇がわずかに震えた。

 何かを言おうとして、声にならない。

 (うちの子が……選ばれない?)

 その現実が、まるで時間を遅らせて襲ってくる。

 スタッフの一人が通り過ぎ、台本を抱えて言った。

 「じゃあ、キャスト変更で手配しますね」

 それは、恵梨香に向けられた言葉ではなかった。

 彼女の存在など、そこになかったかのように——。

 恵梨香は立ち尽くした。

 唇を噛み、視線を落とす。

 胸の奥で、かすかに“プライド”という名の硝子が割れる音がした。

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