時空を越えた一杯
神楽堂
時空を越えた一杯
駅裏のロータリーから五十メートルほど外れた場所に、今日もラーメンの屋台を開く。
のれんの染め抜き文字は「中華そば・三日月」。
老舗とはとても言えない、ただの一人営業の屋台だ。
父親から受け継いだこの商売も、今年で十五年になった。
駅前の再開発でビルが次々と建ち替わり、同業の屋台は姿を消していった。
それでも俺は、この場所に留まり続けた。
理由は単純だ。ここが、俺の居場所だからだ。
夜の十時を過ぎると、街の喧騒は次第に静まり返っていく。
オフィス街の明かりはまばらになり、終電を急ぐサラリーマンの足音は遠ざかっていく。
そんな時間帯に俺の屋台を訪れる客は少数だった。
酔っ払いのサラリーマン、深夜勤務の看護師、たまに通りがかりのタクシー運転手。
みな、それぞれの事情を抱えながら、熱い一杯を求めてやって来た。
コンロの炎が青く揺れ、寸胴鍋から立ち上る湯気が夜の冷気に混じって消えていく。
俺は慣れた動作でスープをかき混ぜ、麺の茹で具合を確認する。
父から教わった通りの手順で、毎日同じ味を作り続けてきた。
変わらぬ味、変わらぬ時間。これが俺の日常。
そんな平凡な夜に、あの男性が現れたのは去年の秋のことだった。
スーツ姿の初老の男性。ジャケットはいつも決まってダークグレーだが、ネクタイの色は毎週違う。
今週は深い紺色、先週は落ち着いたエンジ、その前は控えめな緑だった。
身なりはきちんとしているが、どこか疲れたような人だった。
五十代半ばといったところだろうか。髪にはうっすらと白いものが混じり、目尻には深いしわが刻まれている。
彼が注文する品は毎回、まったく変わらない。
「しょうゆ、ねぎ多め、玉子抜きで」
聞かなくても分かっていた。
湯気の向こうに浮かぶ彼の顔も、すでに覚えていたつもりだった。
しかし、毎回見るたびに、どこか違和感を覚えるのだった。
顔の輪郭、眼の色、時には声の調子までもが少しずつ変わっている気がしていた。
最初は気のせいかと思った。暗い屋台の明かりの下では、人の顔も曖昧に見えるものだ。
だが、回を重ねるごとに、その違和感は確信へと変わっていった。
彼は確かに同一人物であるが、まるで少しずつ別人になっていくかのようにも思えた。
髪の生え際が微妙に変化していたり、頬のラインが前回とは違って見えたり、声のトーンが変わっていたり──
細かな変化だが、毎週顔を合わせている俺には分かった。
時の流れというには、あまりにも不自然な変化だった。
この常連客が、初めて俺の屋台に現れたのはちょうど一年前。
その日からずっと、毎週火曜日の夜、十一時半きっかりにやって来る。
時計の針が十一時半を指すと、まるで約束でもしたかのように、彼の姿が暗闇から浮かび上がってくるのだ。
雨の日も、雪の日も、台風の夜でさえ、彼はやって来た。
その律儀さは、もはや異常とも呼べるほどだった。
最初の数回は、普通の客として接していた。
だが、あまりにも規則正しい来店に、俺は次第に興味を抱くようになった。
何度か世間話を振ってみたが、彼の反応はいつも曖昧だった。
仕事のことを聞けば「まあ、いろいろと」と濁し、家族のことを尋ねれば「複雑なんです」と苦笑いを浮かべるだけ。
そんな関係が半年ほど続いたある夜、彼は突然、奇妙なことを口にした。
「実はですね、私は未来から来てるんです」
彼は冗談めかして言ったが、それにしては目が真剣だった。
からかうふうでもなく、酔っているふうでもなかった。
むしろ、長い間胸に秘めていた秘密を、ようやく打ち明けたかのような言い方だった。
俺は麺をすくう手を止め、顔をじっと見つめた。
屋台の薄暗い明かりの下で、彼の瞳は静かに光っていた。
「それって……時間旅行ですか」
「まあ、そんなところですね。ただ、ここに来られるのは週に一度だけなんですよ。時刻も決まっている。軌道がずれてしまうと戻れなくなるので」
彼の話し方は、まるで電車の時刻表について説明するかのように淡々としていた。
俺は半信半疑で話を聞き続けた。
時間旅行なんて、SFの世界の話だ。
だが、彼の毎週の規則正しい来店、微妙に変化する外見、そしてこの真剣な表情を見ていると、嘘を言っているようには思えなかった。
「はあ……なんでまた、そんな苦労をしてまで、俺のラーメン食べに?」
そう聞くと、彼はふっと笑った。
その笑顔には、深い悲しみが混じっていた。
「ここの味が、記憶にある"最後のラーメン"なんですよ」
「最後?」
「わたしはこのあと、三十年後の未来で大事な人を亡くします。それ以来、味覚がおかしくなったんです。医者に通っても治りませんでした。でも、この店の味だけは──なぜか、はっきりと分かるんです」
湯切りの音が夜気に響く。
彼の言葉は、遠く響く鐘のように俺の心に届いた。
三十年後の未来。大事な人の死。味覚の喪失──
現実離れした話だったが、彼の声に宿る痛みは本物のように思えた。
俺は作業を続けながら、こう訊いてみた。
「その"大事な人"って……恋人か何かですか?」
終電の音が遠ざかっていく。
「……まあ、そんなところです」
深夜の静寂の中で、彼の声だけが空気を震わせていた。
俺は丼に麺を盛り、ねぎを山盛りにのせ、チャーシューを丁寧に並べた。
いつもの手順で、いつもの味を作る。
だが、今夜は特別な意味を持っているような気がした。
「へい、おまち」
俺が差し出した丼に、彼はまっすぐ箸を入れた。
「彼女と付き合う前、この店で偶然、隣に座って話をしたことがあったんですよ。時間にすれば、たった五分くらい。そのとき彼女は笑って、そして、まっすぐ私の目を見てこう言ったんです。"また来週、この時間に来たら、あなたに会えますか?" って」
彼は麺をすすりながら、遠い目をして続けた。
「あれは確か、十月の終わりでした。肌寒い夜で、彼女は白いコートを着ていた。最初は何気ない世間話だったんです。仕事のこと、天気のこと、この街の変化について。でも、話しているうちに、不思議と心が軽くなっていくのを感じました」
彼は箸を置き、ゆっくりとスープを味わった。
「彼女の笑顔が忘れられなくて……だから毎週、ここに来るようにしているんですよ。もしかしたら、"来週のこの時間"とは、今日のことかもしれない、と思って」
「……それ、本当ですか?」
「ははは。嘘だったらいいんですけどね」
彼は器用にスープを飲み干した。
「ここのラーメンは、私にとっての思い出の味なんですよ。おかげさまで、あの頃の彼女を思い出すことができました。では、ごちそうさまでした」
そして、いつもどおり彼は言った。
「では、また来週。この時間に来ます」
* * *
ところが、ある週を最後に、彼は来なくなった。
火曜日の夜十一時半。
暖簾を揺らす風だけが、俺の耳をかすめる。
最初は、何かの用事で遅れているのだと思った。
十分、二十分と時間が過ぎても、彼は姿を現さなかった。
これまで欠かさずに来ていた彼が、突然来なくなるなんて考えられなかった。
その一週間後の火曜日も、彼は現れなかった。
二週間、三週間と時が過ぎても、十一時半の屋台に彼の姿はなかった。
俺は毎週火曜日になると、無意識に十一時半を意識するようになった。
時計の針がその時刻を指すたびに、暗い道の向こうから彼が現れるのではないかと期待した。
だが、そんな日は来なかった。
一か月が過ぎた。
彼が二度と来ないということを、俺は受け入れ始めていた。
未来から来ているという彼の話が本当なら、何らかの理由で時間旅行ができなくなったのかもしれない。
あるいは、もっと単純に、引っ越しや転勤で街を離れたのかもしれない。
いや、そもそも、彼自体が……
いろいろと考えてみたが、真相はわかるはずもなかった。
けれど、俺の心の中にはまだ、彼を待っている部分があった。
毎週火曜日の十一時半が近づくと、やはり、そわそわと落ち着かなくなってしまうのだ。
彼のために、ねぎを多めに刻んでしょうゆラーメンの準備をしておく。
そんな日々が三か月続いた、ある夜のこと。
初見の客がやって来た。
背は低く、白いコートを羽織った初老の女性。
年の頃は五十代前半といったところだろうか。
上品な身なりで、化粧も控えめに施されている。
だが、その表情には、深い悲しみと困惑が混じっていた。
彼女は屋台の前で立ち止まると、しばらくあたりを見回していた。
まるで、何かを、あるいは誰かを探しているかのように。
彼女は立ったまま、こちらを見てこう言った。
「あの……すみません、前にここでラーメンを食べてた人……ダークグレーのジャケットを羽織っている男性なんですけど……ご存じないですか?」
俺は言葉を失った。
ダークグレーのジャケット。それは、間違いなく彼のことだ。
毎週火曜日の夜にやって来て、しょうゆラーメンを注文していたあの男性。
心臓が早鐘を打ち始めた。
「わたし、この屋台で少しだけその人と話したことがあるんです。あのとき"また来週"って言ったまま、二度と来られなくなって……それで気になって……」
なんと返せばいいのか、わからなかった。
彼女の話は、彼が語っていた内容と符合していた。
この屋台での出会い。"また来週"という約束。
だが、未来から来た男性と、現在を生きる女性が、同じ記憶を共有するなんて、あり得るのだろうか。
彼女は続けた。
「……彼、たしか、しょうゆラーメンを注文してたと思います。帰り際に私、言ったんです。"また来週、この時間に来たら、あなたに会えますか?"って……そしたら彼は、笑ってうなずいてくれたんです。でも、それきりで……」
未来から来た男性は、過去の恋人のことを思い出したくて、そして、可能ならもう一度逢いたくて、毎週この屋台を訪れていたのだろう。
そして、その恋人が今、ここに現れている。
彼女は椅子にそっと腰を下ろした。
「……あの人と同じの、ください。しょうゆ、ねぎ多め、玉子抜きで」
俺はうなずき、いつものように麺をほぐし、スープをあたため、丼を仕上げた。
手が震えていた。
この一杯が、単なるラーメンではないことを理解していた。
丁寧に、心を込めて、彼がいつも注文していたのと同じラーメンを作り上げた。
「へい、おまち」
彼女は黙ってそれを受け取り、ゆっくりと箸を運んだ。
最初の一口を味わうと、彼女の表情が変わった。
驚きと、そして深い感動が、その顔に浮かんでいるように見えた。
彼女の目から、涙が一筋、溢れていった。
「この味……」
彼女は震え声で呟いた。
「あのときもそう、この味でした」
俺は静かに彼女を見守った。
彼女の涙は、悲しみだけではなく、喜びと安堵も含んでいるように見えた。
長い間失っていた思い出を、ようやく取り戻したかのような表情だった。
彼女はゆっくりと麺をすすり、時々涙を拭いながら食事を続けた。
俺は何も言わずに、そっと見守っていた。
時折、遠くで車の音が聞こえる以外は、静寂に包まれた夜だった。
食べ終わると、彼女は言った。
「おいしかったです。彼のことを思い出すことができました」
そのとき、俺は気づいた。
彼女の姿が、足元から消えかかっていることに──
最初は目の錯覚かと思った。
だが、確かに彼女の下半身が薄くなっている。
まるで朝霧が日の光に触れて消えていくように、ゆっくりと彼女は透明になっていった。
「あの……来週のこの時間、また、ここに来ます。ごちそうさまでした」
彼女の姿が完全に消えると、俺は一人、屋台に立ち尽くした。
風が暖簾を揺らし、ガスコンロの炎は青く燃えていた。
それ以来、俺は二人の姿を見ることはなかった。
だが、毎週火曜日の十一時半になると、俺は必ず二杯のラーメンを用意した。
席は空いたままだ。
それでも俺には見えた。のれんの影に並んで座る二人の輪郭が。
笑い声も、湯気にまぎれて消えていく気配も──
幻だと分かっている。
だが、この味が彼らをつなぎとめているのなら、それでいい。
俺は丼を置き、夜の静けさを聞いていた。
風はのれんを揺らし、湯気は空にほどけていった。
< 了 >
時空を越えた一杯 神楽堂 @haiho_
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