冷徹な制裁と暴露(The Cold Retaliation and The Exposure)
清算人、藤井浩二
発覚は、感情的な修羅場ではなく、一枚の封筒から始まった。それは、渉の会社に内容証明郵便として届いた。
【差出人は、藤井栞の夫、藤井浩二】
浩二は、渉と栞を、渉の模型制作スタジオからわずか一駅離れた、閑静なビジネスホテルのカフェに呼び出した。
彼が選んだのは、高級感がありながらも人目につかない場所だった。
浩二は、事前に予想していた渉の姿とは異なり、物腰は驚くほど穏やかで、上質なスーツを着こなし、まるでM&Aの交渉に臨むかのように、一分の隙もなかった。
「お二人とも、お忙しいところ申し訳ありません」
浩二は、アイスコーヒーを静かに一口飲んでから、話し始めた。
彼の前には、分厚いファイルが置かれている。
「結論から申し上げます。私ども夫婦は離婚手続きに入ります。高城さん、あなたには、妻の不貞行為に対する慰謝料を請求させていただきます」
渉は、椅子に縫い付けられたように動けなかった。隣の栞は、白いテーブルクロスの上で震える指先を、両手で固く握りしめていた。
「驚かれるのも無理はありません。しかし、私は感情で動く人間ではありません」
浩二は淡々と、ファイルを開いた。
そこには、二人がスタジオに出入りする時間と場所、GPS履歴、そして「ハプニングB」の夜、和美のニアミス後の二人のメッセージのやり取りのスクリーンショットまでが含まれていた。渉と栞が最も依存していた「共感」という名のメッセージが、最も冷徹な証拠となっていた。
「私の仕事は法務です。リスクを管理し、清算することです。私にとって、この件は個人的な怒りではなく、夫婦という契約違反の清算に過ぎません」
浩二は次に、渉にだけ向けた一枚の書類を突きつけた。それは慰謝料の請求書とは別の、ただの白紙のメモだった。
「慰謝料は、私の妻への裏切りに対するものです。しかし、あなたへの制裁は、金銭だけでは終わりません」 浩二は、渉の顔をまっすぐ見た。その視線は、感情を完全に排した、深海のような冷たさだった。
「高城さん。あなたは、この業界で非常に繊細な技術と信用で成り立っている。あなたの会社の上司が、あなたへの信頼を失い始めていることはご存知ですね? 私は、あなたの『誠実さ』と『信頼』が、この業界でどれほど脆いものかを知っています。私が動けば、あなたは業界から静かに、しかし決定的に居場所を失うでしょう」
浩二の制裁は、金銭的なものではなく、渉が唯一持っていた社会的な居場所、すなわち「誠実な技術者」としての地位を奪うことだった。
「これは、警告ではありません。既に始まっている清算です。私の気が変わる前に、迅速に対応されることを望みます」
渉は、その場で嘔吐しそうになった。
浩二は、渉の最も恐れる「社会的な否定」を、感情抜きで実行に移していた。
修羅場と心身症
自宅に戻った渉は、すべてを和美に告白した。
和美の反応は、渉の予想を超えていた。彼女の怒りは、渉の裏切りに対する「悲しみ」ではなく、「屈辱」と「自己優位性の崩壊」に集中した。
「嘘でしょう!? あの栞と!? 私の親友と、私の夫が?!」
和美は顔を歪め、リビングのものを手当たり次第に投げつけた。
「よりにもよって、あの地味で、私に媚びていた女と!? ふざけないでよ!」
彼女は、自分より劣っていると思っていた友人と、自分が支配下に置いたはずの夫が裏で繋がっていたという事実に、耐えられなかった。
「私の友人を奪う資格なんて、あなたにあるわけがない。あなたにできるのは、埃っぽいプラスチックを組み立てることだけでしょう! その薄汚いスタジオで、何をやってたのよ!」
渉は、和美の激しい非難に、何の反論もできなかった。確かに、彼は裏切った。しかし、彼は、和美が自分の領収書を問い詰めたときと同じ、自己中心的な怒りしか見て取れず、改めて和美への愛が死に絶えたことを悟った。
その日から、
浩二の制裁は猛威を振るい始めた。渉の職場での評判は急速に悪化し、彼が手がけていたプロジェクトは次々と他者に引き継がれていった。
「私は逃避なんてしていない」と主張していた模型制作も、手をつけられなくなった。
接着剤の匂いが、スタジオの窓の鍵を閉める時のスリルではなく、浩二の冷たい眼差しを思い出させたからだ。
渉は、重度の不眠症と食欲不振に陥った。彼の繊細な精神は、社会的信用失墜という見えない暴力に耐えられず、最終的に会社を休職し、実家の親元に身を寄せることになった。
調停室での予期せぬ暴露
そして、離婚調停の日が来た。
家庭裁判所の静かで冷たい調停室。調停委員を挟んで、渉と和美は対峙した。
和美は、弁護士を伴い、被害者然とした姿勢を崩さなかった。
渉は、自身の不貞を認め、慰謝料を支払う意思を静かに伝えた。しかし、和美の非難は止まらなかった。
「調停委員様、私はこの男の心身症も、すべてが彼のエゴと逃避から来ていると思います。彼は人生の責任から逃げて、私を裏切り、挙げ句の果てに社会からドロップアウトした。彼には一切の反省がありません!」
和美は、過去の彼の模型趣味を嘲笑したことや、自分の過去の曖昧な不貞については一切触れず、ひたすら渉だけを悪魔化した。
調停委員が和解点を探ろうとしたその時、渉の心の防御壁が、再び音を立てて崩壊した。
この数ヶ月間の、和美の嘲笑、栞との背徳的な共依存、そして浩二の冷徹な制裁。すべての重圧が、渉の理性を吹き飛ばした。
「僕だけを責めるな!」
渉は、今までの内向的な彼からは想像もできないほどの大きな声で叫んだ。
「僕だけが悪いと言うのか! 君だって、あの時…あの時、僕が領収書を見つけた、あの男と何をしていた! 君は、僕が君の友人とホテルに行ったことを責める前に、君自身が僕を孤独に突き落とし、その罪悪感をアクセサリーで誤魔化そうとしたことを認めろ!」
渉の衝動的な言葉は、和美の過去の「曖昧な不貞」(取引先の男性との高価なブレスレット)を、不倫の事実として公の場で暴露した。
調停室は静寂に包まれた。
和美の顔は、怒りから一転して、恐怖に染まった。
彼女は、まさか渉がその過去の小さな出来事を根に持ち、調停という公の場で持ち出すとは夢にも思っていなかった。彼女の弁護士さえも狼狽した。
和美は逆上し、
「嘘よ! 彼の妄想よ!」と声を荒げたが、その醜態は調停委員の目に、彼女にも相当の原因があったことを示唆するに十分だった。
調停委員は、場の混乱を収拾するため、調停の一時中断を宣言した。
渉の衝動的な告発は、二人の離婚を泥沼化させると同時に、和美の絶対的な「被害者」という立場を揺るがす、予期せぬ一石を投じたのだ。
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