真実の代償(The Price of Truth)
調停室での渉の衝動的な暴露は、離婚を一時的に泥沼化させた。
和美は、渉の不貞の責任を完全に突きつけられなくなることを恐れ、高額な慰謝料という金銭的な勝利をもって、感情的な屈辱を覆い隠そうとした。
結果、離婚は成立した。
渉は多額の慰謝料を支払い、浩二の周到な制裁により、IT業界での再就職の道は完全に閉ざされた。
彼の「社会的な居場所」は、音を立てて崩壊した。
一方、栞もまた、浩二との離婚が成立した。しかし、彼女が手に入れたのは自由ではなかった。
浩二は、慰謝料と引き換えに、彼女の親族が経営する会社の株を要求した。
感情的な報復ではなく、未来永劫にわたる「社会的隷属」という冷徹な制裁だった。
栞は、代償行為の末路として、富裕だが愛のない浩二の支配下で、永久に「完璧な元妻」の仮面を被り続けることを選ばざるを得なかった。愛欲という麻薬は、彼女からすべてを奪った。
和美は、慰謝料という大金を手に入れた。
しかし、彼女の生活からバイタリティが失われていた。
離婚は、彼女にとって「勝負に勝った」ことを意味するはずだった。だが、彼女が求めていたはずの「社会的優位性」は、友人を失い、親族からも白い目で見られるという形で、根底から崩壊した。
「お金がある。時間もある。なのに、どうして」
和美は、広くて冷たいリビングの白い照明の下で、初めて孤独と向き合った。外での華やかな活動は、渉という
「弱く、嘲笑の対象となる存在」
が いることで、初めて輝きを増していた。
渉への嘲笑と軽蔑が、彼女の自己肯定感の燃料だったのだ。燃料を失った和美の心には、虚無感が広がるばかりだった。
彼女は、自分自身の醜い独善性を認められなかった。
ただ、「渉の裏切り」という一点に集中することで、自分の内側にある空虚さから目を背け続けていた。
聖域の真実
離婚が成立してから三ヶ月後
ある日の午後、和美は衝動的に、渉がかつて「聖域」と呼んだ、駅前の雑居ビルへと向かった。
彼女は、自分が憎悪し、嘲笑し、破壊したはずの場所に、もう一度触れてみたかった。
そこに行けば、渉と栞の淫靡な残像が残り、自分が被害者であったことを再確認できると思ったのだ。
四階のスタジオのドアは、鍵が開いていた。渉が退去した後、大家が清掃に入っているようだった。
和美は中に足を踏み入れた。予想されたような愛欲の痕跡はなかった。あるのは、殺風景な倉庫の匂いと、塗料の残り香、そして壁にわずかに残った接着剤の染みだけだった。
和美が虚しく立ち尽くしていると、階下の不動産屋を兼ねている大家(初老の男性)が、合鍵を持って上がってきた。
「ああ、奥さん。元旦那さんの奥さんですね」
大家は、静かに言った。
和美は「元」という言葉に痛みを覚えた。
「あの、この部屋、もう貸すんですね」
「ええ。高城さんが綺麗に片付けていかれましたから。ただ、最後に、あれは大変でしたね」
大家は、渉が使っていた作業台のスペースを指差した。
「あの方、本当に繊細な方でね。最後の数ヶ月間、身体を壊しながら、徹夜で模型を完成させていたんです」
「模型…? 何を?」
和美は心臓が軋むのを感じた。
「高城さんはね、奥さん。最後にこの家を出るとき、奥さんとの思い出の家を、この部屋で作りたかったそうですよ」
大家が取り出したのは、一枚の写真だった。
それは、かつて二人が住み、そして破綻した高城家のリビングとキッチンの模型だった。窓の光の角度、ソファの質感、和美がいつも座る位置…すべてが、ミリ単位で、彼らが愛し合っていた頃のままに再現されていた。
「あれはすごかった。奥さんが嫌ったあの趣味で、彼は最後まで奥さんの愛を、そして自分たちの家庭を、完璧に再現して、心の中で持っておきたかったんでしょう」
大家は続けた。
「模型を完成させたとき、高城さんは泣いていました。『これで、ようやく終わりにできる』って。あの模型は、奥さんへの嘲笑ではなく、彼が最後に作った愛の聖域だったんです」
和美の足が震えた。
彼が「無駄で気持ち悪い」と嘲笑し、否定し続けた模型制作
それは、彼にとって彼女の嘲笑から逃げるための逃避であると同時に、愛を失った現実から目を背けてでも、二人の愛を具現化し、守ろうとする最後の試みだったのだ。
和美が彼に突きつけた
「無駄で気持ち悪い」という言葉は、彼が必死で守ろうとした
「愛の聖域」そのものを、彼女自身が自らの手で、最も醜い独善性をもって破壊していたという真実を意味していた。
和美は、その場に崩れ落ちた。
高額な慰謝料、仕事での成功、バイタリティ
すべてが、この冷たい真実の前では、無価値なものだった。
彼女は、愛を破壊した自分の醜いエゴと、初めて直面した。それは、彼女の人生で初めて、
心から流す「喪失の痛み」の涙だった。
渉の再生
その頃、実家で療養していた渉は、心身症を克服しつつあった。
社会的な信用は失ったが、彼は「誠実な技術者」という仮面を捨て、「繊細な職人」としての自分を受け入れた。
彼は、誰の承認も得ず、誰の要求にも応えない、「ただ自分のためだけ」の模型制作を再開した。
その精巧な技術は、瞬く間にニッチな業界で評判を呼んだ。
渉は、高城模型工房として、フリーランスの講師と職人として、静かに再出発を果たした。
彼は、家庭という「聖域」の代償として、社会的な居場所を一度失った。しかし、その喪失の痛みと引き換えに、彼は真の自己を確立し、誰にも奪われない「精神的な聖域」を手に入れたのだった。
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