共感という麻薬(The Narcotic of Sympathy)

渉と栞の関係は、驚くほど静かに始まった。


最初の会合は、純粋な相談だった。


駅前の雑居ビル四階


高城渉の模型制作スタジオ


埃っぽい空気と、塗料の独特な化学的な匂いが充満するその場所で、栞は静かに渉のジオラマを眺めていた。


精密に再現された町の片隅。それは誰も気に留めない、忘れ去られた風景だったが、渉の指先から生まれた光と影によって、深いノスタルジーと美しさを帯びていた。


「すごいわ、高城さん」


栞は言った。彼女の冷静で完璧主義者に見える普段の表情にはない、熱っぽい視線が、ジオラマの小さな窓に注がれていた。


「和美はあなたのこの繊細さを『無駄』って言うけど、私には、誰にも理解されないものを、一人でこんなに大切に守っていることが、すごく尊いことのように思える」




渉の胸の奥で、何かが崩れる音がした。


それは、和美の嘲笑によってできた亀裂を、温かい液体が埋めていくような感覚だった。


和美はいつも、彼の「行動力のない」部分を指摘し、彼女のバイタリティの光で渉の陰の部分を消そうとする


しかし栞は、その陰の部分こそを肯定してくれた。


「僕の居場所は、ここにしかなかったんです」渉は絞り出すように言った。


栞は微笑んだ。


その笑みは、和美の肉食的な自信とは対極にある、諦念と寂しさを帯びていた。


「私にも、居場所はないわ」


栞は、夫・浩二の支配的な完璧主義と、それに耐えるための「良妻賢母」の仮面の下で、女性としての存在価値を見失っていた。


浩二の愛情は「管理」と「所有」であり、栞の心の機微には全く無関心だった。


二人の関係は、お互いの家庭の「不満の吐露」から始まった。


それは、相手の傷を舐め合い、お互いを「唯一の理解者」だと錯覚させる、共感という名の麻薬だった。彼らは、相手の人生の不運を、自分の存在を正当化するための言い訳に変えた。


最初の夜、二人は模型制作の工程について語り合っていた。


渉がピンセットを握るその華奢で精密な指先が、和美には嫌悪されたが、


栞には「何かを創造する力」として魅力的に映った。 栞は、夫に抱かれた記憶が遠い過去の義務感でしかなかった。


渉は、和美の冷たい拒絶に長期間さらされていた。


愛欲は、衝動ではなく、静かな諦めから始まった。


「こんなの、いけないことよね」 「わかっている…でも、もう、止められない」


それは、情熱的な炎ではなく、冷たい水の中で溺れ合うような行為だった。


彼らが求めたのは、性的な解放ではなく、「満たされない自己の代償」であり、相手の体温に触れることで、自分自身がまだ生きていることを確認する作業だった。


この背徳的な秘密の共有が、二人の共依存を深く濃くしていった。


【浩二の冷徹な警告】


不倫関係が始まって一ヶ月半が経った頃、渉の職場に異変が起きた。


渉は都内のIT企業で、地味ながらも堅実なシステム管理の仕事に就いていた。


ある日、渉が担当していた重要なシステム更新プロジェクトの責任者が、突然彼の直属の上司に呼び出された。


数日後


上司は渉を会議室に呼び出し表情は硬く、いつもの親しげな様子はなかった。


「高城。君の最近の勤務態度には疑問符がついている。業界内で、君の仕事へのコミットメントを疑う声が上がっているようだ」


渉は心臓が凍りつき 彼は自分の仕事に何ら落ち度がないと自負していた。


「それは…具体的にどのような?」 「詳細は言えない。だが、君がプロジェクトの機密情報を軽く扱い、プライベートな活動を優先しているという噂だ。我々は君を信頼しているが、クライアント側からの情報だ。もしや、君は何か…副業でもしているのか?」


渉は「模型スタジオ」のことを一瞬思い浮かべたが、それは趣味だと否定した。しかし、上司の冷たい視線が、彼の言葉が嘘をついていると決めつけているのを感じた。


これは、浩二の仕業だった。


浩二は、渉が勤める会社と間接的に取引がある大手企業の法務部門のエリートだ。


彼は、妻の不倫相手を感情的に脅すのではなく、社会的な信用という目に見えない鎖で静かに締め上げ始めたのだ。


浩二は証拠を突きつける前に、渉の足元を崩しにかかった。


渉は、この出来事の恐ろしさを栞に打ち明けた。


「藤井さんの旦那さん、もしかして、気づいているんじゃないだろうか?」


栞は青ざめた顔で首を振った。


「まさか。彼は私に無関心よ。仕事の忙しさを理由に、家にもほとんど帰ってこないんだから」


しかし、彼女の震える指先は、渉の不安を増幅させた。この危険なスリルが、二人の愛欲を加速させる燃料にもなった。


【ハプニング 現場でのニアミス】


その緊張感が最高潮に達した夜。


渉と栞は、いつものようにスタジオで過ごしていた。


模型のディテールを調整する作業台の横で、二人はグラスを傾け、家庭の闇を語り合っていた。


そして、また「代償行為」に身を委ねようとしていた、その時だった。


ビルの一階、古びたエレベーターの駆動音が、異様なほど大きく響いた。


「誰か来たみたい」


渉が身を固くする。


「こんな時間に?」栞の顔から血の気が引く。


その直後、階下から、女性たちの笑い声が微かに聞こえてきた。そのうちの一人が、甲高い声で口を開く。


「ねえ、ここって、わたるのスタジオがあるビルよね? ちょっと見ていかない?」


和美の声だった。


渉と栞は、ほとんど同時に、服を掴んだまま息を殺した。


和美は、友人と階下の居酒屋で飲み、酔った勢いで「夫のバカげた秘密基地」を見物に来たらしい。


「まあ、四階なんて面倒よ」


友人の声


「いいのよ、いいのよ。ちょっと冷やかしに行こう。あいつが隠し持ってる『プラスチックの城』を見てやるわ」


和美は酔っているとはいえ、その「肉食系」の行動力は恐ろしい。彼女のハイヒールのカツカツという足音が、階段を上がってくる。三階、そして四階の踊り場へ。


渉と栞は、窓のない倉庫のような奥のスペースに身を潜めた。


足音が、工作室のドアの前で止まる。和美は乱暴にノブを回したが、鍵がかかっている。


「ちょっとー! 渉ー! いないの? ここで何してんのよ!」


和美は数回ドアを叩いた後、諦めたように笑い声をあげた。


「ほら、やっぱり引きこもってるんだわ。いいわ、帰ったらたっぷり説教してあげる」


エレベーターが再び起動し、足音が遠ざかっていった後も、二人はしばらく動けなかった。


渉の額からは冷や汗が流れ落ち、栞は泣きそうに顔を歪めていた。


「もう…ダメよ。怖すぎる」


栞が囁いた。


「でも…」渉は、激しい恐怖の後に残った、ある種の強烈な陶酔感を感じていた。


「これが、僕たちの…愛欲なんだ」


この危機一髪のニアミスは、二人にとって終わりではなく、背徳的なスリルの快感として刻まれた。


渉は、和美から受ける恐怖と、栞との共犯関係がもたらす快感の境界線を見失い、愛欲の泥沼に深く沈んでいった。


この緊迫したニアミスは、二人の関係をさらに加速させ、破滅への道を決定づけたのだ。

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