聖域の代償
比絽斗
壁が崩れる音(Cracking the Wall)
高城渉は、夜の九時を過ぎると必ずキッチンに立つようになった。 目的は、自分のために入れる濃いめのインスタントコーヒーと、妻・和美のために用意するハーブティーだ。
和美は 1日の社交と仕事の興奮を鎮めるために、必ずペパーミントかカモミールを求めた。
この「定時作業」は、渉にとって家庭内での唯一の接点であり、同時に距離を測る儀式だった。
リビングの照明は、二人が高校時代から共に選んだ温かい色から、いつの間にか和美が選んだモダンで鋭利な白色に変わっていた。
その白い光の中で、渉は自分の存在が、広くて冷たい空間に浮かぶ微細なホコリのようなものだと感じていた。
「ありがとう、わたる」
和美はソファに深く沈み込み、スマホを操作しながら形式的な礼を述べた。彼女は今日も完璧だった。タイトなスカートスーツには微かな高級ブランドの香水が残り、バイタリティに満ちたその瞳は、渉ではなくスクリーンの奥を見つめている。彼女は三十代半ばになっても、
その容姿と体型への自信を武器に変え、社会で戦い続けている「肉食系」の化身だった。
一方、渉はといえば、彼女が「繊細」という言葉で揶揄する内向的な男だった。人見知りが激しく、日常会話は可能でも、本心を晒すのが極度に苦手だ。唯一の聖域が、駅前の雑居ビルの四階に借りた一室、模型制作スタジオだった。
渉の趣味は、現実には手にできない精巧な世界の再現だ。ミリ単位のパーツを組み合わせ、接着剤の匂いに囲まれる時間が、彼にとっての唯一の呼吸だった。和美は以前、その趣味を「かわいらしい」と受け入れていた。しかし、二人の心が決定的に離れ始めた半年前から、彼女の口調は変わった。
「あなた、いつまでそんな子供の遊びに逃げてるの?」 「その模型代、私たちの何かのためにもっと使えないわけ?」
和美が求めるのは、共にアウトドアに出かけ、社会的にアピールできる「行動力のある夫」だ。渉の内にこもる繊細な部分は、彼女の猪突猛進な人生には不要なノイズでしかなかった。
その日の夜、
渉が和美のバッグを片付けようと手を伸ばしたとき、バッグの中から薄い紙片が滑り落ちた。コーヒーを淹れるために手を洗ったばかりの渉は、思わずそれを拾い上げた。
それは、銀座の老舗宝石店の領収書だった。
【決定的な亀裂】
日付は一週間前
金額は、渉の月給の半分に迫るものだった。品目は、小さなダイヤが散りばめられたブレスレット。
渉の心臓が不規則なリズムを刻み始めた。脳裏に、数週間前、高校時代からの共通の友人が、心配そうに囁いた言葉が蘇る。
「和美、最近知らない男と会ってるみたいだぞ。気のせいならいいんだが……」
問い詰めるべきだ。
しかし、
渉の「人見知り」で「一言多い」という欠点が、彼の繊細な感情を複雑に絡ませる。
彼は、和美に「なぜ」と聞くのではなく、「これは誰へのもの?」と尋ねることで、自分の不安を和らげようとした。
和美は顔を上げ、領収書を一瞥すると、すぐにスマホへと視線を戻した。
「ああ、それね。取引先の社長の奥様への手土産。接待よ。渉には関係ないでしょう」
声に、微かな苛立ちが混じっていた。渉は、これが嘘だと直感した。社長の奥様への手土産なら、こんなに高価で個人的なアクセサリーである必要はない。
何よりも、和美の目が揺れていた。
「渉には関係ない、って……」
渉の声が震えた。
「君が最近、やけに外での付き合いを優先していることと、無関係だとは言いきれないだろう?」
渉は、自分自身がこの問いを発していることに驚いていた。
しかし、長年無視され続けた心の叫びが、堰を切ったように溢れ出ていた。
和美はそこで初めてスマホを置き、身体を渉に向ける
彼女の瞳には、愛を失った妻の悲しみではなく、自分のテリトリーに侵入した者への冷たい怒りが宿っていた。
「優先? 私は生活のために仕事をしている。あなたみたいに、休みの日に古びた雑居ビルにこもって、埃まみれのプラスチックを組み立てているのと一緒にしないでくれる?」
彼女の声は、白い照明のように鋭利だった。
「その『子供の遊び』のおかげで、あなたは家庭での私の支配から逃げられたんでしょう。逃避なのよ、わかってる? 私の友人が言ってたわ。あんな趣味を持つ男は、現実から目を背けてるんだって」
渉は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われた。自分の最も大切にしていた空間、和美からの否定に耐えるために作った「聖域」を、彼女は自分の友人と共有し、嘲笑していたのだ。
「無駄で気持ち悪い」
和美が最後に吐き出したその言葉は、渉の心の防御壁に打ち込まれた最後の一撃だった。
渉は、かつて自分が溺愛した和美の顔の中に、愛も共感も、そして彼自身への敬意も一切残っていないことを悟った。
その夜、渉は家を出て彼の足は、無意識のうちに駅前の雑居ビルに向かっていた。
翌日
渉がスタジオの鍵を開けると、机の上には、未完成のまま放置されたジオラマが置かれていた。そこに、見知らぬメッセージアプリの通知が入った。
『高城さん、昨夜は和美さん、ひどかったね。あんな言い方ないよ。もしよかったら、今日、少し話さない? 私は、あなたの模型、本当にすごいと思っているから』
【差出人は、藤井栞】
渉の指は、拒絶すべき理性とは裏腹に、そのメッセージをタップした。彼は今、誰かに自分の存在を肯定してほしかった。それは、愛欲への最初の一歩であり、彼らが築いた愛の城が、内部から崩壊し始める、静かな壁の音だった。
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