第一話 ブースト要らずのスタートダッシュ -3-
ふわりふわりと空中を移動していくのは、なんとも言えず不可思議な心地であった。
飛んでいるといっても、別段、腕を翼のように羽ばたかせている等の努力をしている訳でもなく、あちらへ行きたいと念じれば、すうっと身体が動いている。
移動の際の感覚も、飛行機、ヘリ、スカイダイビング、ジェットコースター、それら諸々いずれとも違っていた。風も感じなければ、内臓が持ち上がる気持ち悪さもない。これが魂なのだと、納得する他はなかった。
あるいはカラスの羽ばたきにも、さしたる意味はないのかもしれない。
「気分はどうだい?」
「悪くない。生身で空を飛ぶというのは、私も初めてな経験で新鮮だ」
「そりゃ初めてじゃなきゃ困るよ」
当たり前の事を再確認しつつ、一人と一羽は更に進む。
やがて眼下に、雑多な建物群が見えてきた。
幾らか斜めに旋回しながら、カラスが西園寺を振り返る。
「もうじき着くよ」
「ふむ、しかしここは、私の記憶によると錦糸町ではないのか?」
「そうだよ。天国がお空の上に、地獄が地底深くにあるんだから、それらを振り分ける冥府はド真ん中の地上にある。何もおかしくはないさね」
「確かに。そして多くの人間は地上で死ぬのだから、回収という点でも理に適っているな」
くいと西園寺が顎を捻っていると、ひとつ大きく羽ばたいて、カラスが宙に停止した。
追って、彼も止まる。
「あれだ」
カラスが左の翼を広げた下には、小汚い4階建ての雑居ビルが、他のビルの隙間にひっそりと建っていた。
全く掃除がされていないのか、外壁は埃で鼠色に薄汚れ、所によっては得体の知れない蔦が這い登り、最悪と断言できる日当たりの悪さも相俟って、十年単位で放置された廃ビルにさえ見える。
2階と3階部分にはテナントらしき看板があるが、それとて本当に入居者がいるのか定かではない有様。そもそも冥府云々の関連施設に、テナントが入っている時点で何かが間違っている。
さしもの西園寺も、眉を顰めた。驚いたというよりは、単に確認したい事ができたという様子であったが。
「魂を統括する施設にしては、小さなビルだな」
「や、ビルじゃないよ。あのビルの4階、そこがうちの事務所だ」
「なるほど。ひとつの疑問は解決したが、それにより私のもうひとつの疑問は更に深まった。4階のみとすると、ますます小さすぎはしないだろうか。そして、うちの、とは?」
「……本当は着いてから説明しようと思ってたけど、話がこじれそうだから先に言っとこうかね」
「それがいい、生じた疑問は、解決できるならその場で解決するのが最適だ」
説明が長くなりそうだと見たのか、カラスの足元に再びあの円盤が出現する。
「まず冥府っていっても、その実態は大小の組織の集合体だ。本部の下に支部があり、支部の下にはまた支部があり……ってな感じでね、子会社孫会社みたいに分かれてる。単純にでっかい建物がひとつドォーンとおっ建ってて、そこで全部執り行ってる訳じゃないのさ。そしてうちは、それらの中でも最底辺の弱小零細事務所になる」
そう聞かされても特に動揺も見せない西園寺をじっと眺めて、カラスは更に先を続ける。
「……なんでそんな所に自分が、って思わないかい? 逆さ、うちぐらいしか引き取り手が無かったんだよ。押し付けられに押し付けられまくった挙句、とうとう他のどこにも押し付けようがない、どん底のうちまで回ってきたってこと」
「ふうむ、厄介事を恐れた、という事かな」
「恐れたって……まあ、嫌がったんだね。どこも忙しいから。我々生まれつきの住民と違って、あんたは冥府に関して何も知りゃしない。ましてや人間だ。そりゃどこだって受け入れたくなんかないさ」
「人の魂を扱う立場の者が、なぜ人を嫌がるのだろうか?」
「あんたらは牛や豚を食べるが、牛や豚が自分の職場に来て一緒に働き出したら困るだろうが」
「残念ながら私の元に牛や豚が雇用を求めて訪れた事はなかったが、意思疎通に問題がなく能力が充分と判断すれば、人と代わらぬ待遇で採用するようにと伝達はしてある」
「……あんたに同意を求めるだけ無駄だったね……」
へにゃ、と首を曲げてカラスが萎れた。
最初から疲れていた声が、会話が進むにつれて輪をかけて疲れてきている。
もっとも西園寺と話した常識人は大概がこれに近い反応を示すので、殊更カラスの適応力が乏しい訳ではない。
すぐにカラスは、気を取り直したように頭を上げた。同時に、足場となっていた円盤も消滅する。
力強い羽ばたきを再開しながら、カラスは言った。
「あんたがうちに来た経緯は、そんなとこ。仕事内容については、中で所長から説明があるから」
「所長殿か、どのような方だね?」
「……あー……会えば分かるよ、嫌でも。昔は中央にいて、なんかやらかして飛ばされたんだって聞くけど、どうだろうね。詳しくは知らないんだ。……さ、説明終了、もう行くよ」
カラスは身を捻り、下のビル目指して降りていった。
西園寺は腕組みをしたまま、エレベーターにでも乗っているかのように直立姿勢で降下していく。
慣れんの早すぎだろ、と、螺旋状に飛びながらカラスは改めて呆れていた。
到着したビル内部は、外観に相応しい様相を呈していた。
つまりはオンボロで、汚かった。上にあがる手段は狭い階段しかなく、その階段も砂と埃とタバコの吸殻と、何故か生米などが散らばって汚れ放題であった。
階段に沿った内壁には、こぼれた油を暫く放置してから拭き取った後のような染みが広範囲に渡って広がり、場所を選んで壊せば死体のひとつやふたつ埋められているのではないかと疑わせる雰囲気がある。
途中の階で郵便物らしき物が目に入った時は、西園寺も足を止めた。
「外に看板があったが、このビルは使われているのか?」
「下は普通に人間が使ってるよ。うちみたいな所が、専用ビルなんて持てる訳ないしね」
両足を揃えてぴょんぴょんと階段を跳ねて上がっていくカラスに、西園寺も続く。
最上階である4階のフロア――というか薄暗くて狭い廊下には、飾り気のない扉がひとつだけ付いていた。
意外にも、扉の窓からは明るい光が漏れている。あるいは生きている人間には見えない光なのかもしれないが、既に死んでしまっている彼には、それを己が目で確かめる手段はない。
翼を嘴に当てて、こほん、と咳払いをし、思い出したようにカラスが西園寺を振り返って睨む。
「いいかい、神妙にしといとくれよ。初顔会わせなんだから」
「私はいついかなる時も、その時取るのに相応しい態度をとる、それだけだ」
自信を持って胸を張る西園寺に、どこがだ、とカラスが小さく言った。
鳥の背中に諦観を漂わせつつ、扉に向き直る。
「……えー、戻りましたー、開けてくだっせーい……」
カラスが翼の先端で、とん、とん、と扉を叩くと、ちょうど本が出現した時のように、扉全体がぼうと淡く光った。
曇った半透明になった扉を、カラスが擦り抜ける。それを見て、西園寺もまた躊躇なく扉に突っ込んでいった。
ふたりが通り抜けてしまうと、扉が一瞬強く輝く。
振り向けば、そこには最初見た時と同じ、何の変哲もない無愛想な灰色の扉があるだけだった。
視線を前に戻す。ちょこちょこ交互に足を出して歩いていくカラスを追いつつ、西園寺は素早く室内に目を巡らせる。
そこは事務所と呼ぶには、あまりにもお粗末であった。
あるものといえば安そうなソファにテーブルに、本棚に電灯、ブラインド付きの窓。ビルの幅に忠実に大して広くもなく、本当にただの個人事務所といった風である。
薄汚い外観に反して、事務所内部は意外なほど整理整頓が行き届いていたものの、少なくとも、魂を扱う場所としての厳粛さを見出すのは困難である。
彼の目が、大きな窓に近い一箇所で止まった。
「どうも所長、連れてきました。この男です」
カラスの言葉に、窓際に置かれた室内唯一の机にいた人影が、椅子ごと振り返った。
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