侘助
何日もかけて清められた数寄屋に花を生ける。ふと手を止め、生けたばかりの白侘助を眺める。
――お客様はどのような方なのだろう。
確か、亭主を務める
ならば屹度、この花のように清楚で、凛とした方がいらっしゃるのだろう。男性だろうか、女性だろうか。お歳の頃は。
いや、詮索など烏滸がましい。お客様の
この館にお仕えして随分と経つ。いよいよ主様からお茶席の支度を任されることになった私は、皆から随分と羨ましがられた。
罪を抱える私達を迎え入れてくださった主様と、主様のお招きになる方に真心を尽くす。
これが喜びでなくて何であろう。
お客様に一瞥もいただけなくとも構わない。いや寧ろ、そうでなければならない。
だが。
胸が高鳴る。
お客様はどのようなお顔で茶を服されるのだろう。茶器を愛でる眼を、室内の設えにも僅かなりと向けてくださるだろうか。
――花に込めた想いは、主様とお客様にご満足いただけるだろうか。
ああ、いけない。ぼんやりとしてしまった。宵闇のまじり始めの庵には、心地よくも張り詰めた気配が満ちつつあった。
数寄屋を退室し、お客様を迎える為に庭の石灯籠の灯芯に順に火を移してゆく。
ぽっ。
ぽっ。
ぽぅっ。
灯りの陽炎の向こうに景色が揺れる。
屋敷に戻り改めて禊を済ませる。清めた衣で身支度を整え、額から
そろそろ主様がお支度を始められる頃合いだろうと、居室へと急ぐ。
精進潔斎を済まされた主様の着付けを手伝い、私は用意しておいた手燭を掲げ、お道具をお持ちになった主様に先立ち、庵へと誘う。
薄紫と橘色の狭間の刻に佇む数寄屋の静けさと反対に、喜びと不安に千切れそうな己を閉じ込めるように、唇を引き結ぶ。面のお陰で、主様に見苦しい顔色を晒さずに済む。尤も、私の浅はかな葛藤など主様は疾うにお見通しかもしれない。
主様が
軽く頷かれた主様に会釈し、庵に足を踏み入れる。
きん、と音がしそうな空気に満ちた庵に行燈の灯をともす。そのまま下座の隅に
りぃん。
お客様の到着を知らせる鈴が響く。それを合図に、ふた呼吸程で雑面越しの空気がゆあんと揺れる。
席入りされたお客様の気配が座敷を満たす。
伏した背中越しに聞こえる、さら、という衣擦れは、私が先程床の間に生けた侘助を主様が手に取った音だろう。
「どうぞ。お気に召すと良いのですが」
主様のお声と畳越しに届いた微かな物音に、心臓が跳ねた。お客様の前に、真白の花を載せた菓子盆が置かれたのだろう。畳の上に揃えた手が震えてしまう。
――静寂。
もうお客様は、花をお手に取ってくださっただろうか。そこに込められた私の罪をご覧になる為に。
世俗から隔絶され、清くあれと育てられた身を敵将に差し出された怒り、恥辱、絶望。その敵将に心を奪われて初めて覚えた高揚。
一族もあの方も裏切れぬという葛藤。
半端な欲望しか抱けなかった後悔と、それを知りながらなお残る己のさだめへの浅ましい憐憫。
花に託した、醜い罪の全て。
どれ程の時が過ぎたのか、
『――善き哉。見事な
空を震わせる尊いお声に、顔を挙げてしまいそうになる。
指先に、先程とは違う震えが走る。自然、安堵の息が零れた。
ああ、良かった。ご満足頂けたのだ。
これで漸く、私という
さりさりと花を食む音に恍惚となる。音に合わせるように、私の身体が少しずつ消えてゆく。つま先から脚、腰、胸も、指先も腕も消え、首だけとなって床に転がる。
雑面越しに畳のにおいを感じる。私の口元には、どれほどの歓喜が浮かんでいるだろう。
さあ。
もう、あと一口で。
『
微かな
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