冬花語り

遠部右喬

枇杷

 紅葉も終わり、冬の山は寂しい季節を迎え始めていた。

 住み慣れた山の、しかし、日頃は滅多に足を踏み入れない獣道で、私とはその樹を見上げていた。


「あっ、やっぱりこの花だ!」


 山道も落葉で風通しが良くなっていたからか、はたまた去年の間に随分と背が伸びて風の流れを多く感じるようになったお陰か、通りすがりざまの花の香りが空風の鼻を擽ったらしい。


「自然薯掘りに行くんだろう? あんまりのんびりしてると日が暮れちゃうぞ」

「いいじゃん、ちょっとくらい。さっきお昼食べたばっかりだし、まだ大丈夫だよ……うわあ、良い匂い」


 桜に少し似たそれを嗅いだ小さな顔が綻ぶ。余程その香りが気に入ったのか、彼女は抱き上げてやった私の腕から伸びあがるようにして枝を引き寄せ、くんくんと匂いを嗅ぐ。


「甘い匂い……こんなに寒いのに咲くのって、凄いね。葉っぱもまだ緑のが沢山付いてる。ねえこれ、なんて花なのか知ってる?」


 うっとりと花を嗅ぐ表情に、ついこちらも頬が緩む。


枇杷びわ。枇杷の花だよ」


 そう教えてやると、空風の大きな眼が更に丸くなった。


「びわ? なんで? びわって、楽器の名前でしょ?」

「よく知ってるなあ」

「……前に、社会科見学で行った博物館で見た」


 記憶を手繰る様に宙に目を向ける空風に、


「葉っぱや実の形が楽器の琵琶びわに似てるからそう呼ぶんだ、って聞いたな」


 そう教えてやると、濃緑の葉に目を凝らした空風が、怪訝そうに首を傾げた。


「えー、そんなに似てなくない? それとも、実ならもっと似てるのかな……私、見たことないや。食べられるの? 美味しいのかな?」

「味は……私も食べたことがないから、なんとも。けど、甘くて爽やかで美味しいって話だから、空風は気に入るんじゃないか?」


 ふぇーっ、と気の抜けた声を上げながらも枝を手放そうとしない様子は、まだあどけなさを残している。それでも、顔立ちも身体つきも随分と娘らしくなってきていて、時折その眩しさに目が眩む。この子の母親も美しかったから、それに似たんだろう。

 好きにさせてやりたくはあるけど、私はあまりこの樹に近付きたくは無いんだ。少しあとじさると、空風が掴んでいた細い枝が折れてしまった。


「あっ、折れちゃった……ごめんね」


 折れた枝を抱え、空風が樹に詫びる。気持ちの優しい子だ。腕の中の少女が不思議そうに私を見下ろす。


「どうしたの?」


 私の上背の半分しかないほっそりとした身体を腕から降ろし、


「私は枇杷が苦手なんだよ。私達は来年には結婚するんだから、ちゃんと覚えておいてくれよ、花嫁さん」

「……今……なんて……?」


 さり気ない求婚の言葉に、枝を抱えた空風が大きな眼を更に見開く。私は照れ隠しに大きな枇杷の樹を見上げ、


「初夏になったら、今度は実を捥ぎにここに来よう。この樹は葉も、花も、実も、人には薬効になるからね。だが私には……鬼の身には、その薬効は猛毒なんだ。匂いくらいならまだ耐えられる。けど、少しでも触れたりしたら身が焼けてしまうんだよ」


 けらけらと愉快そうに空風が笑う。


「そっか、鬼にも苦手なものってあるんだ!」


 次の瞬間。


「じゃ、試してみよう」


 どすん。


 衝撃を感じ、胸元に目を落とすと、枇杷の枝がそこに突き立っていた。声も無く膝を折る私を押し倒すように、ささくれた枝元がずぐりと身に押し込まれる。


「親を喰い殺されて、閉じ込められて、その上あんたの花嫁って? ふざけんな」


 空風が仰向けに倒れた私の腹を踏みつけ、胸を貫く枇杷の枝を両手で引き抜く。目の端で、胸に開いた穴から立ち昇る白煙が映る。

 人を癒し、鬼を殺す枇杷のさがが、私から力を奪う。

 空風の手から零れた真っ赤な雫が枝に伝う。ああ、お前の手が枝で擦れてしまって傷だらけじゃないか。


「何、その顔。私が全部忘れてると思ってた? あははっ、バーカ! 忘れる訳ないじゃない……!」


 そうか。私の罪を全部覚えてたのか。幼かった記憶は、深い所に埋もれたのだとばかり思っていた。



 山道に迷った親子を捉え、子供の目の前で親を喰ってやったのは、九年ほど前の事だ。

 子供を喰わなかったのは、二人の人間を喰って腹が満たされたのと、気まぐれからだった。独り暮らしに飽きが来ていて、人間でも飼ってみようと思ったのだ。不要になったら喰えばいい。その程度の気持ちだった。


 酷く怯えて声も出せなかった子供から名前を聞き出せたのは、一年も経ってからだった。二年目には、私の手の届かない範囲でだが、同じ部屋で丸まって眠るようになった。三年目には、私が言葉を掛ける度に飛び上がることも無くなった。四年目には、暗い目をしながらも微かな笑みを見せるようになった。


 逃げ出す素振りを見せなくなり、頭を撫でられるようになり、共に緑を、せせらぎを、雪を眺め……いつからか、私の中で空風の存在は大きくなっていた。



「ざまあみろ、糞鬼」


 そう言えば、何時だかに教えた筈の私の名を、これ迄一度も呼ばれたことが無かったことに漸く気付く。


 空風が嗤った。目を血走らせ、これまで一度も見たことのない歪みきった顔に、鬼の私が震える程の妖麗が浮かぶ。

 枇杷の枝を握る細い手から煙が上がる。白煙が絡みつく指先から鉤爪が伸びる。白く丸みのある額の左右を、内側から血を纏った突起がみりみりと裂く。

 血塗れの顔の中で唇が三日月に撓むと、赤い筋の絡む白い牙が覗いた。


 額に、折れた枇杷の枝元が押し付けられる。


「くたばれ」


 霞む視界の中で、煙を上げる白い手に力が籠る。

 この顔に見送られるなら本望だ。満面の笑みを浮かべる鬼女は、どこまでも美しかった。


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