神話と災難: 内なる狼

@Realmoulder

序章/プロローグ

— 遠藤 牙:目覚め —


灼けつくような日差しが、むき出しの額に突き刺さった。


気がつけば、男はゴミに埋もれていた。

黒ずんだ袋、破れかけの段ボール、古びた家電の残骸──そこは完全なる廃棄場だった。

真昼の太陽の下、腐臭が熱と混ざり合い、むっとした空気となって肌にまとわりつく。


「……どこだ、ここ。」


声が自分のものだと気づくのに、数秒かかった。


遠くで高速道路が唸りを上げ、車のタイヤがアスファルトを擦る音が絶え間なく響いている。

視線を上げれば、鉄骨のように入り組んだ高架線が影を落とし、その向こうには地下鉄の入り口が見えた。

都心から少し外れた、三軒茶屋にも近い雑多な街並み。

……しかし、ここがどこかなんて、どうでもよかった。


もっと重大な問題があった。


彼は立ち上がると、目の前に転がった古い割れ鏡に気づいた。

表面には砂埃がつき、鏡としての役割をかろうじて果たしている程度だ。

だが──そこに映る“自分”の姿に、牙は息を呑んだ。


白と黒が入り混じった髪。

灰色の瞳は、どこか焦点が合っていない。

探偵風の古典的なジャケット──深緑と黒を基調にした、どこかレトロな服装。

袖は破れ、肩口には乾いた血がこびりついている。


そして頭部には──生々しい血痕。


……なんだよ、これ。

何が起きた?


胸の奥がざわつく。

その瞬間だった。


世界の音が、一気に牙へと押し寄せた。


ビィィィィィィィン……ッ!!


高速道路の車。

踏切の警報。

電車のレールを走る金属音。

遠くの工事音。

人々のざわめき。

都市の鼓動すべてが混ざりあい、牙の頭に直接叩きつけられる。


「っ……あ、ああああっ……!」


鼓膜が破れたのかと思うほど痛い。

視界が揺れ、世界が捻じ曲がる。

胸が締めつけられ、吐き気が込み上げ──


そして、静寂。



ふっ……。



音が、急に消えた。

都市の喧騒が全て消えたのではない。

ただ、牙の耳だけが──何も聞こえなくなった。


次の瞬間、ノイズが頭の中で炸裂した。


ザザザザザッ──!!


白い閃光。

鉄の匂い。

叫び声。


──そして、崩れた記憶の断片が蘇る。

— 牙:悪夢の戦場 —


静寂の中、頭の中のノイズだけが鳴り続ける。

ザザザザザッ……


そして、意識は次第に過去の断片へと引きずり込まれる。

それは──いつのことかも定かではない夜。

たぶん、いや、


埃っぽく、薄暗い倉庫。

コンクリートの床にはひびが入り、古びた鉄骨が天井までうねるように伸びている。

蛍光灯の明かりはちらつき、何百もの影を床に落としていた。


「全員、集中!」

隊長の声が硬く、冷たく響く。


隊員たちは緊張で肩を張り、息を潜める。

彼らの手には銃。背中には装備。

そして、牙──まだ自分の名前も思い出せない少年は、その一員として立っていた。

背筋を走る寒気。

胸の奥で、何かがざわめく。


「この倉庫の奥に標的を確認。全員で突入する。」


歩を進めるたびに、埃とカビの匂いが鼻を突く。

空気は湿って重く、動くたびに微かな粉塵が舞い上がった。


影が走った。

一瞬の黒い影が、壁の隅をすり抜ける。


「……今の、見た?」

隊員の一人が囁く。


しかし答えはない。

目を凝らしても、何も見えない。

ただ、空気だけが歪んだように揺れる。


「……ガアアアアァッ!!」


背後からの叫び。

振り向くと、仲間の一人が消えていた。

その手元には血が飛び散り、影に吸い込まれるように消えた。


そして角を曲がると──


目の前にいるはずの人間を、それは貪り食っていた。

肉が裂け、骨が砕ける音が、まるで低い唸り声のように響く。

牙は目を見開き、喉の奥で声を上げられなかった。


銃を構え、撃つ。

火花が散り、弾丸は生々しい肉を貫いたはずだ。

しかし、それは燃え尽きる砂のように、無に帰すだけだった。


そして……仲間たちの悲鳴が連鎖する。

誰もが、次々に消えていく。

牙は何もできず、床に伏せているだけ。

手が届かない。

動けない。

ただ、見ていることしかできない。


やめろ……止まれ……お願いだ……!

これは、夢だと言ってくれ……!


だが、悪夢は終わらなかった。


高く暗い倉庫の天井の上に──

赤く、深い、人間とは思えぬ眼が光る。


次の瞬間、影が閃き、牙の前に立った。

すべてがスローモーションのように、目の前で動く。

仲間たちは泣き叫び、死体が散乱し、鉄と埃と血が入り混じる。


牙は、床にうずくまる。

胸の奥が引き裂かれるように痛い。

手を伸ばすことすらできない。


……お願い、止まってくれ……何かできるはずだろ……!

俺に……力を……くれ……!


床に伏せたまま、歯を食いしばる。

頭の中の混乱は増すばかり。

血の匂い、焦げた匂い、鉄の匂い。

すべてが牙の意識を押し潰そうとする。


そして、目を閉じた瞬間──


全てが終わった。


瓦礫と血の海。

仲間たちも、モンスターも、すべてが崩壊していた。

牙の体も血に染まり、服もぼろぼろになっている。


……俺は……やったのか?

俺が……こんなことを……?


視界が揺れ、頭が割れそうに痛む。

考えが空回りする。

胸の奥が凍りつく。


しかし、振り返れば──何も答えはない。

ただ、絶望だけが広がっていた。


これは……夢じゃない。

これが……現実なんだ。


— 牙:現世の混乱 —


眼を開けると、そこは……ごみの山だった。

日差しは強く、正午を過ぎていた。

周囲には古びた看板、放置された自動車、そしてどこか遠くに高速道路の高架橋が見える。

地下鉄の線路もかすかに見え、都会の音が遠くで響く。


だが、音は歪んでいた。

頭の中で、あの夜の混乱と惨劇が反響する。


……ここは……どこだ……?

俺は……誰なんだ……?


目の前の鏡に映る自分を見た。

古びた、ひび割れた鏡。誰かが捨てたものだ。

顔は血まみれで、白と黒に染まった髪が乱れている。

灰色の瞳。

クラシカルな探偵風のコートと、緑と黒の差し色が特徴的な装い。

血と埃で汚れた自分を見下ろしながら、心臓が速まった。


周囲の音が、さらに頭を突き刺す。

車のクラクション、電車の音、誰かの叫び。

全てが遠く、でも近く。

耳鳴りが重なり、脳が圧迫される。


……あの夜……何が……?

俺は……何を……した……?


思考は暴走し、頭の中でフラッシュバックが再生される。

あの任務、あの倉庫、仲間たちの叫び、血、焼けた肉の匂い。

赤く光る、あの目。

全てが、体に重くのしかかる。


周囲を見回す。

目の前のごみ、落ちている古紙や缶。

街の匂い、塵、鉄の香り。

すべてが現実なのに、頭はまだ夢の中にいるようだ。


……いや、現実だ。

俺は……ここにいる。生きている。


足元を見ると、靴には血が少しついている。

手を見れば、爪も血で染まっている。

腕を動かすと、筋肉が疲労で軋むように痛む。

しかし、動ける。


……いや……動ける……

俺は……生きてる……生きてるんだ……!


息を整える。

胸の奥の重苦しさが少し和らぐ。

しかし、思考はまだ整理できない。

頭の中で断片が踊る。

仲間の顔、モンスターの目、赤い光……すべてが影となって追いかけてくる。


辺りの匂いを嗅ぎ、周囲の音を注意深く聞く。

車のタイヤの摩擦音、風で揺れるビニール袋の音、遠くで鳴る電車。

現実に戻ろうとする体と、記憶の悪夢が戦っている。


そして、鏡に映る自分を再び見る。

目の奥に、灰色の光がわずかに揺れる。

牙──牙が目覚める予感。


……これが……俺の力か……?

いや、まだ……分からない……でも……感じる……

何かが、俺の中で目覚めようとしている……


体が自然と前傾する。

血の匂い、鉄の匂い、塵の感触。

手のひらを握り、指先に力を込める。

そして、目を細め、周囲を見渡す。


……とにかく、今は生き延びるしかない。

理由も目的も……後で考えればいい……今は……行動だ……


周囲を見渡し、目的の方向を探す。

遠くに見える高速道路。

近くのゴミの山を越え、光が差す方向に足を踏み出す。


……始めるか……俺の、新しい夜を……

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