第十四章:兄弟と、道具

(寛永二年・江戸城 本丸・政務棟)


駿河大納言・徳川忠長が「檻」――表向きは「待機所」と呼ばれる殺風景な部屋に幽閉されてから、丸一日が経過した。


忠長のプライドは、怒りを通り越し、冷たい恐怖に変わっていた。 水と粗末な食事だけが、警護の者によって無言で差し入れられる。 そして、部屋の隅には、あの影――『杭』が、まるで石像のように、一時も微動だにせず、ただ忠長を「監視」していた。


(……父上は、母上は、どうした) (柳生も、酒井も、誰も来ない。江戸城は、兄に……家光に、完全に掌握されたというのか……!)


その、二日目の夜。 ついに、錠が外れる音がした。


忠長は、これが父・秀忠による「救出」であることを願い、襖を睨みつけた。 だが、静かに開いた襖の向こうに立っていたのは、父でも母でもない。 彼が、生涯見下し続けてきた、あの陰鬱な兄―― 将軍・徳川家光、その人だった。


家光は、護衛も連れず、ただ一人で部屋に入ってきた。 そして、忠長の目の前に、まるで「モノ」でも検分するかのように、静かに座った。


「……家光! 貴様ッ!」 忠長の恐怖が、怒りとなって爆発した。 「わしを、このわしを、誰と心得る! ただちにここから出せ! 父上と母上に、この無礼を……!」


「……父上は、来ない」


家光は、忠長の言葉を、冷たく遮った。


「母上も、来ない」


「な……!」 忠長は、言葉に詰まった。 「貴様が……貴様が、何を仕掛けた!?」


「仕掛けた?」 家光は、初めて、フッと、まるで嘲笑するかのように息を漏らした。 「余は、何も。……すべて、お前たちが、自ら動いた結果だ」


家光の目は、弟を見ていなかった。 それは、転生者としての、冷徹な「管理者」の目だった。


「お前は、勘違いをしていた、忠長」 「お前は、父の『愛情』、母の『寵愛』、それこそが力だと信じていた」 「……だがな」


家光は、部屋の隅に控える『杭』に、チラリと視線を送った。


「力とは、『仕組み』だ。 余は、この徳川という『仕組み』を、盤石にする。 その『仕組み』に、瑕疵(かし)を生じさせ、私利私欲で蝕もうとする『欠陥』は、すべて『掃除』する」


「……欠陥? ……そうじ?」 忠長には、その「言葉」の意味が理解できなかった。


「そうだ」 家光は、冷厳に断じた。 「母上は、『感情』という欠陥だった。 酒井は、『保身』という欠陥だった。 そして、忠長。お前は……」


家光は、弟を、初めて真っ直ぐに見た。


「お前は、この『仕組み』を破壊しかねない、最も致命的な『壊れた道具』だった」


「……道具、だと……?」 忠長は、震えた。 「わしが……このわしが、道具だと……!?」


「違うか?」 家光は、淡々と事実を突きつけた。 「お前は、母上の『野心』の道具だった。 お前は、酒井ら幕閣(ばっかく)の『不満』の道具だった。 お前は、自分の『優秀さ』に溺れ、自分が何の『道具』にされているかも見えていなかった」


家光は、静かに立ち上がった。


「余も、道具だ」


「……!」


「余は、この徳川の『天下』という『仕組み』を守るための、最高責任者という『道具』だ。 ……そして、余は、自らの『道具(=影)』を、決して疎かにはしない」


家光は、『牙』を治療した時と同じ、冷徹だが絶対的な「所有者」の目をしていた。 「余は、『道具』を大切にする。 だが、忠長。お前は『壊れて』いる。 ……そして、壊れた道具は、『処分』するしかない」


「……しょ、ぶん……?」 忠長の顔から、血の気が引いた。 「ま……待て! 家光! 兄上!」


忠長は、初めて、兄を「兄上」と呼び、その足元に、みっともなくすがりついた。


「わしが悪かった! 許してくれ! 道具に……! わしを、貴様の道具にしてくれ!」 「わしは、まだ壊れてなどおらぬ! 使える! だ、だから……!」


懇願だった。 駿河の虎と呼ばれた男の、無様な、最後の懇願。


家光は、その手を、汚いものでも払うかのように、無造作に振り払った。


「……遅い」


家光は、もはや弟に背を向けていた。


「余には、もう、『弟』はいない。 そこにあるのは、'処分'を待つ、'素材'だけだ」


襖が、音もなく閉められる。


「待て! 待ってくれ! 家光! 兄上―――!!」


忠長の絶叫が、無機質な部屋に響き渡った。 だが、家光の足は、もう止まらなかった。


部屋の隅では、主君の「処分」の言葉を受けた『杭』が、忠長という「素材」を、静かに見つめていた。

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