第十三章:駿河の虎、檻へ


(寛永二年・駿府城)


駿河五十五万石の城主、徳川忠長は、苛立っていた。 この数日、江戸城との連絡が、まるで分厚い壁に阻まれたかのように途絶えている。


(……どうなっている)


母・江からの、あれほど頻繁にあった「(家光への)愚痴」と「(忠長への)激励」の密書が、ぱったりと止まった。 最大の支援者であり、幕閣の重鎮たる酒井忠世からも、何の音沙汰もない。


忠長は、自らの才気と血筋に絶対の自信を持っていた。 (……あの陰鬱な兄・家光ごときが、将軍の器であるはずがない) (父上も、母上も、本心では、このわしを望んでおられる) (酒井らが整えてくれる「時」が来れば、すべては正しい形に収まるはずだった)


だが、この「沈黙」は、どうだ。 まるで、江戸城という巨大な盤面から、自分の駒が、音もなく取り除かれていくような、不気味な静けさだった。


その時、一人の家臣が、血相を変えて広間に駆け込んできた。


「申し上げます! 江戸より、公儀の使者が!」


「……何!?」 忠長の顔が、一瞬にして高揚する。 (……母上か! ついに父上を説き伏せたか!)


だが、広間に現れた使者の顔を見て、忠長の血の気が引いた。 使者は、酒井の配下ではない。 ましてや、母の手の者でもない。 秀忠の直属であり、家光にも近い、柳生(やぎゅう)但馬守(たじまのかみ)宗矩(むねのり)だった。


「……柳生殿。……いったい、何事でござるか」


柳生宗矩は、その能面のような顔で、忠長に一礼すると、淡々と書状を読み上げた。


「大御所様(=秀忠)より、駿河大納言(=忠長)様へ、御内意(ごないい)」


「……っ」 (父上から……!?)


「―――近頃、幕閣において、卿(=忠長)の名を騙り、不穏なる企みをなす者あり。 よって、将軍様にもご懸念あり。 早急に登城し、父(=秀忠)に対し、直接、弁明いたすべし」


忠長は、その内容に、一瞬、目眩を覚えた。 (……不穏なる企み? 酒井が、しくじったのか?) (……いや、待て)


忠長は、自らの傲慢さと、父への(一方的な)信頼によって、その「罠」を見抜けなかった。


(……『父に対し、直接、弁明いたすべし』……) (……そうだ。兄上が、わしを陥れようと、父上に嘘を吹き込んだに違いない) (……酒井も、母上も、身動きが取れなくなっているのだ)


(……ならば、好都合!) (わしが江戸に行き、父上に直接お目にかかれば、すぐに誤解は解ける!) (父上は、いつだって、わしの味方をしてくださったではないか!)


忠長は、柳生の目を見返した。 「……承知つかまつった。 大御所様の御内意とあらば、明日にも江戸へ立とう。 ……兄上の、つまらぬ讒言(ざんげん)を晴らす、良い機会ゆえ」


柳生の能面が、ほんのわずか、動いたように見えた。 (……愚かな。……もはや『虎』ではござらぬ。……自ら『檻(おり)』に飛び込むとは) 「……御意。お待ち申し上げております」


(三日後・江戸城 大手門)


駿河五十五万石の大名行列は、しかし、どこか切迫した空気を纏い、江戸城に到着した。


忠長は、すぐにでも父・秀忠のいる西ノ丸へ向かおうとした。 だが、大手門で彼を迎えたのは、柳生宗矩と、彼が率いる「将軍直属」の警護部隊だった。


「……柳生殿。父上へのご案内を」


「はっ」 柳生は、無表情に答えた。 「大納言様は、こちらへ」


柳生が先導したのは、西ノ丸(=父・秀忠の居城)ではなかった。 母・江がいるはずの本丸大奥でもなかった。 彼が連れて行かれたのは、本丸の、最も奥まった一角。 将軍・家光が、直轄する「政務棟」の一室だった。


「……ここ、は……?」 忠長が、異変に気づき、足を止めた。 「父上の御所は、こちらではあるまい!」


「大御所様は、ただ今、ご多忙にございます」 柳生は、冷たく言い放った。 「まず、将軍様が、大納言様のお話を伺う、と。 ……こちらで、しばし、お待ちを」


柳生が、忠長を部屋に促す。 そこは、豪華な謁見の間ではなかった。 窓は小さく、調度品もほとんどない、殺風景な「待機所」だった。


忠長が、怒りと不安に震えながら部屋に入った、その瞬間。 背後の襖が、音もなく閉められた。


―――カチリ。 外から、錠が降りる、冷たい金属の音が響いた。


「……!」 忠長は、血の気が引き、襖に駆け寄った。 「柳生! 開けよ! 無礼であろう! わしを誰と心得る!」


だが、返ってきたのは、柳生の声ではなかった。 部屋の隅、最初からそこにあった「影」が、ゆっくりと動いた。 黒装束に身を包んだ、大柄な男――『杭(くい)』だった。


『杭』は、主君の弟に対しても、微塵の敬意も見せず、壁に寄りかかったまま、無感情に告げた。


「……駿河の虎も、檻の中では、ただの猫にございますな」


「……き、貴様は……!」


「上様は、追って、お見えになる。 ……それまで、その『弁明』とやらを、壁にでも聞かせておられるがよろしかろう」


忠長は、その瞬間、すべてを悟った。 父は、来ない。 母も、来ない。 酒井も、来ない。 ここは、父の城ではない。


あの陰鬱な兄――徳川家光の、完璧な「檻」の中なのだと。

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