第3話 影を歩む者

森を抜けると、薄明の空が広がっていた。

 夜の名残が静かに消えていく。

 カイン・レーヴァントはその光景を眺めながら、小さく息を吐いた。


「……またやっちまったな。」


 昨日の出来事を思い出す。

 闇の魔法を使って、獣人の少女を助けた。

 彼女の怯えた瞳と、去り際の小さな声が耳に残っている。


 ――黒い魔法で人を救う。

 その矛盾こそが、この世界では最も厄介なことだった。


 女神に託された「演じる」という使命。

 だが、実際にやってみると、想像以上に繊細だ。

 悪を演じすぎれば恐れられ、善を見せれば疑われる。

 どちらにも偏らず、世界の均衡を保つ“影の存在”でいなければならない。


「……難易度、高すぎだろ。」


 苦笑をこぼしながら、カインは森道を歩き出す。

 空気が少し冷たい。

 木々の隙間から見える朝陽が、彼のローブに淡い光を落とした。


◆ ◆ ◆


 半日ほど歩き、カインは小さな街に辿り着いた。

 《リーベル》。森と湖に囲まれた交易の町だ。

 人々の話し声、荷車の軋む音、焼き立てのパンの香り――

 前世にはなかった、異世界らしい雑多な活気に、思わず懐かしさを覚えた。


「さて、と。情報収集からだな。」


 街を歩く間、周囲のざわめきがやけに耳に入ってくる。

 どうやら昨日の“森の出来事”が、すでに噂になっているらしい。


「なあ、聞いたか? 闇の使いが森に現れたって話。」

「見たやつがいるらしい。全身黒の旅人が盗賊を消し飛ばしたんだと。」

「でも、獣人の娘を助けたっていうんだよな。どういうことだ?」

「もしかして、魔族でも人間でもない“境界の者”なんじゃないかって。」


 ――“境界の者”。


 その言葉に、カインの足が止まった。

 思わず笑みが浮かぶ。まさか自分がそんな伝説じみた存在に祭り上げられるとは。


「いやはや……話が早いな。」


 彼はローブのフードを深くかぶり、人混みを抜けていく。

 視線を避けるつもりが、逆に周囲の好奇心を煽ってしまう。

 結果として、噂の“影の男”はますます現実味を帯びていった。


◆ ◆ ◆


 夕刻、街の酒場蒼の灯には、冒険者たちが集まっていた。

 カインはその片隅で、赤ワインを口にしながら静かに耳を澄ます。


「森で見たやつが言ってたぜ。あの男、影を操ってたらしい。」

「闇魔法か? そんなもん、百年前の戦で絶滅したって聞いたが。」

「違ぇよ。あれは“神の罰”を使う異端だ。悪人を選んで裁くんだとよ。」

「……じゃあ、救世主か?」

「はは、どっちにしろヤバい奴には違いねぇ。」


 人は“知らないもの”に名前をつけたがる。

 それが恐怖であれ、敬意であれ、いずれにせよ力を持つ。


 そして今、街の人々が作り出した“影の男”という存在が、確実に一人歩きを始めていた。


「……まったく、演じるつもりが脚本家不在の劇になってるな。」


 苦笑しつつ、カインはグラスを回す。

 噂が膨らむのは悪くない。むしろ、世界を一つに導く種になるかもしれない。

 人々が共通の「曖昧な恐れ」を抱けば、少なくとも他種族同士の小競り合いは減るだろう。


 だが、その“恐れ”が行きすぎれば、次に狙われるのは――彼自身だ。


 微かな緊張を胸に、彼はワインを飲み干した。


◆ ◆ ◆


 夜。

 街の外れの丘の上で、カインは風に吹かれていた。

 月が丸く、雲ひとつない夜空に浮かんでいる。

 草原を渡る風が、黒衣をゆらりと揺らした。


「……この世界、思った以上に脆い。」


 女神が言っていた通り、種族間の均衡は崩れかけている。

 人間は魔族を恐れ、魔族は人間を軽蔑する。

 その狭間で、獣人や亜人が犠牲になる。


 カインは地面に座り、月を見上げた。

 どこか、あの獣人の少女――ミナの瞳の色を思い出す。


 あの子は、恐れながらも、最後に“ありがとう”と口にした。

 その小さな言葉が、不思議と心に残っている。


「……やっぱり、救うってのは悪役には似合わないな。」


 自嘲のように笑い、掌を見つめる。

 その手は、闇を操り、人を傷つけることもできる。

 けれど、同じ手で傷を癒すこともできる。


 光と闇。

 どちらか一方ではなく、両方を持って歩く。

 それが“二度目の人生”を託された理由なのかもしれない。


◆ ◆ ◆


 翌朝、街はさらに騒がしくなっていた。

 広場の壁には、誰かの手によって奇妙な落書きが描かれている。


 ――“影は我らを見ている”

 ――“月の下に立つ者、罪を映す鏡”


 人々はそれを見て怯えたり、祈ったりしていた。

 信仰と恐怖が混ざったその雰囲気に、カインは苦笑する。


「……やれやれ、宗教の立ち上げ方、間違えてないか?」


 彼の意図しないところで、“月下の影”という新たな異名まで生まれているらしい。

 だが、それも悪くない。

 自分が作り出した“恐れ”が、少しでも争いを止めるなら。


 カインは宿に戻り、地図を広げた。

 街の南には、魔族との国境地帯――“ヴァルハルの渓谷”がある。

 そこでは、すでに人間の討伐隊と魔族の小勢力がにらみ合っているという。


「……次の舞台は、そこか。」


 彼は静かに立ち上がる。

 闇の魔法が淡く灯り、部屋の灯りが一瞬だけ揺らめいた。


「善でも悪でもない。ただの“演者”として――動くさ。」


 月光が窓から差し込み、カインの影を長く伸ばす。

 それはまるで、世界の端まで届こうとするかのように。


 そして、彼の第二の転生劇は、また新たな幕を開けた。

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