第2話 黒衣の人と、闇の魔法
――あの時、死ぬかと思った。
獣人族の少女・ミナは、痛む足首を抱えながら、木陰に座り込んでいた。
森の空気は湿っていて、木々の間から射す光がゆらゆらと揺れている。
あたりには鳥の声も虫の音も戻ってきた。けれど、胸の鼓動だけはまだ落ち着かない。
「……こ、怖かった……」
さっきまで、彼女は人間の男たちに追われていた。
“封印石を盗んだ”なんて、まったく身に覚えがない。
それでも、獣人であるというだけで疑われる。
この世界ではそれが普通のことだった。
獣人族は人間より魔力に敏感で、身体能力も高い。
だが、それが恐れられ、迫害の理由になる。
人間の町に近づくたびに、彼らは警戒され、追い払われる。
ミナもまた、そんな偏見の中で生きてきた。
――だから、助けてくれた彼のことも、最初は怖かった。
◆ ◆ ◆
「そのへんでやめておけ。」
低く落ち着いた声が、空気を震わせた。
黒いローブの男が、森の影から現れた。
月も出ていないのに、彼の背後には淡い闇がまとわりついているように見えた。
そして、男たちを“見下ろす”その眼差し。
あの瞬間、ミナは息を呑んだ。
――この人は、怒ってる。
けれど、私じゃなくて……あの人たちに。
指先が動いたと思った次の瞬間、男たちは動けなくなった。
黒い光が足元を這い、影が絡みつくように縛り上げていた。
闇の魔法。
この世界では、闇魔法は「魔族の力」と呼ばれ、忌み嫌われる。
人間が使えば異端。獣人が使えば迫害。
けれど、その魔法を操る彼の姿は――恐ろしくも、美しかった。
そして、男たちが逃げたあと。
彼は、静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「大丈夫か?」
優しい声だった。
その声音は、闇よりもずっと温かかった。
◆ ◆ ◆
「……黒幕のフリ、って……何なの。」
ミナは小さく呟いた。
助けてくれたあの人――名も名乗らず、「黒幕のフリをしてる」とだけ言い残して去っていった。
まるで冗談のように。けれど、あの力を見れば、笑えない。
闇を操りながら、人を救う。
矛盾しているのに、不思議と違和感がなかった。
ミナはそっと自分の胸元を押さえる。
まだ少し痛むけれど、彼の治癒魔法のおかげで歩けるようになっていた。
……そう、治癒魔法。闇使いなのに、治癒を?
あの時、彼は無造作に光を呼び、手のひらを重ねた。
あたたかくて、やさしくて――。
その瞬間、ミナは確信した。
――この人は、悪い人じゃない。
けれど、それと同時に、胸の奥がざわめいた。
人間でも魔族でもないような気配。
何かを隠している。彼の瞳の奥には、深い影が揺れていた。
「黒幕のフリ」って、いったい……何を意味するのだろう。
◆ ◆ ◆
夜になって、ミナは森の外れにある獣人の集落へ戻った。
集落といっても、わずか十数軒の小屋が点在するだけ。
焚き火の煙が漂い、夜風が尻尾をなでていく。
「ミナ! 戻ったのか!」
迎えに出てきたのは、狼族の青年・リオだった。
彼は心配そうにミナの腕を取る。
「人間の兵に追われたって聞いたぞ。無事か?」
「うん……でも、助けてくれた人がいたの。」
「助けてくれた?」
ミナは頷き、森での出来事を話した。
リオは途中から顔をしかめ、腕を組んだ。
「……闇の魔法を使った?」
「うん。でも、私を守ってくれたの。」
「そんなはずはない。闇使いはみんな魔族の眷属だ。」
「でも、本当に違うの。あの人は……優しかった。」
ミナの声が震える。
リオは黙り込み、しばらく考え込むように目を細めた。
「……その男、名は?」
「名乗らなかった。
でも、“黒幕のフリをしてる”って……」
「黒幕の、フリ?」
リオの眉がひそめられた。
その言葉は、焚き火の火に落とされた油のように、静かに燃え広がっていく。
――そして翌日。
集落の外では、早くも噂が流れ始めていた。
「黒衣の男が人間を闇魔法で追い払った」
「魔族の密使が森に現れた」
「世界を動かす“闇の支配者”が目覚めた」
そのどれもが、事実とは少しずつ違っていた。
けれど、ミナは何も言えなかった。
だって――
あの人がどこかで笑っている気がしたから。
◆ ◆ ◆
翌朝、ミナはもう一度森へ向かった。
理由は自分でもわからない。
ただ、あの人の姿が頭から離れなかった。
夜明けの森は、朝霧が立ちこめている。
陽の光が差し込み、霧の粒がきらめく。
空気がひんやりとして、息を吸うたびに胸が澄んでいくようだった。
「……いない、か。」
昨日、彼が現れた場所に立ってみる。
足跡も残っていない。ただ、風の流れだけが変わったように感じた。
そのとき。
――ぱさ、と上から何かが落ちた。
手に取ると、それは黒い羽根だった。
闇のような色合いなのに、指先で触れると温かい。
ミナは小さく笑った。
「……ありがとう、“黒幕さん”。」
どこかで、誰かが自分を見ている。
そんな気がした。
そして彼女はまだ知らなかった。
この“出会い”が、後に彼女の運命を大きく変えることを。
獣人の少女と、黒幕を演じる転生者。
二人の物語は、まだ始まったばかりだった。
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