第4話 月下の名

 森を渡る風が、少し冷たくなった。

 秋の気配が忍び寄る夜。

 ミナは、リーベルの森の小川で水を汲みながら、ふと手を止めた。


 水面に映る自分の顔が、どこかぼんやりしている。

 ――あの日のことを、思い出していた。


 闇の中で、盗賊たちを一瞬で沈めた黒衣の男。

 光でも闇でもないような存在。

 彼の名も、素性も、何も知らない。


 けれど、不思議と恐ろしくはなかった。

 むしろ胸の奥が温かくなって、息をするたびにその感覚が蘇る。


「……また、会えたりするのかな。」


 つぶやいた声は、風に溶けて消えていった。

 森のざわめきが答えるように鳴り、ミナはほんの少し笑った。


◆ ◆ ◆


 リーベルの森は、森の民と呼ばれる者たちの隠れ里だ。

 人間の国から追われた獣人、エルフ、亜人たちが、互いに支え合って暮らしている。

 森を抜ければ《エルデン》――湖のほとりに建つ交易の町があるが、

 そこへ足を運ぶ者はごく少ない。


 エルデンの商人は、たまに森の恵みを求めてここを訪れる。

 けれど彼らの目はいつも、どこか冷たい。


 だからこそ、あの夜の黒衣の男は異質だった。

 見下すことも、怯えることもせず、ただ静かに助けてくれた。


 ――あんな人が本当にいるなんて。


 ミナは胸の奥に灯った小さな光を、

 誰にも言えず抱えたまま過ごしていた。


◆ ◆ ◆


 そんなある昼下がり。

 エルデンの方角から、金属の音が響いた。


 「……人間の兵士だ!」

 「どうして、こんな森に……?」


 村人たちがざわめき、家の陰に身を潜める。

 ミナも息をひそめて見つめた。


 森の入口に、鎧に身を包んだ数人の兵が立っていた。

 彼らの表情は険しく、声を荒げている。


 「《月下の影》を見なかったか!」

 「黒衣の男だ! 影の魔法を操るらしい!」


 その名を聞いた瞬間、ミナの心臓が跳ねた。

 月下の影――。

 それは最近、エルデンの市で噂されている存在だった。


 “夜の闇に紛れて悪人を葬る影”。

 “王国の秩序を乱す魔導師”。

 “魔族と通じる裏切り者”。


 誰も真実を知らない。

 ただ、その名が広まるほどに、恐れと憎しみが増していく。


 (まさか……あの人のこと?)


 兵士たちは村人から何の情報も得られず、やがて森を離れていった。

 残された静寂の中、ミナの胸に複雑な感情が渦巻く。


 ――影の男。

 ――でも、あの夜の彼は光だった。


◆ ◆ ◆


 その夜。

 ミナは眠れなかった。


 窓の外には満月が浮かび、森を青白く照らしている。

 光が静かに木々を撫で、影が長く伸びていた。


 (……行ってみよう。)


 彼女はそっと立ち上がり、外套を羽織って家を出た。

 夜風は少し冷たく、耳がぴんと立つ。


 足音を忍ばせ、森の小道を歩く。

 小鳥たちは眠り、虫の音だけが遠く響く。


 やがて木々が途切れ、湖が現れた。

 ――あの場所。


 湖面は鏡のように澄み、月を映して揺れていた。

 波ひとつない静けさの中、ミナは小さく息を吐く。


「……もう、いないよね。」


 そう言いかけたとき、風が止んだ。


 背後の闇がわずかに揺れる。

 心臓が跳ね、振り返ると――そこに人影があった。


 「……こんな時間に出歩くなんて、感心しないな。」


 低く静かな声。

 聞き覚えのある響き。


 ミナは息を呑んだ。

 黒衣の裾、月光に銀色を帯びた髪。


 「あ、あなた……!」


 彼は変わらぬ穏やかな笑みで答えた。

 「無事だったみたいだな。あのあと、村に戻れたか。」


 ミナは慌てて頷く。

 けれど胸の奥が痛くなる。


 「人間の兵が……あなたを探していました。」

 「聞いた。あいつらの早耳は昔からだ。」


 彼は湖のほとりに歩み出て、月を仰ぐ。

 月明かりが彼の頬を照らす。

 その横顔は、どこか孤独で、けれど美しかった。


 「どうして、そんなに危ないことを?」

 思わず問いかける。


 男は一瞬黙り、そして小さく笑った。

 「危ない? ……俺にとっては、少しだけ面倒な役割ってだけさ。」


 「役割……?」

 「光が強すぎれば、影は濃くなる。

  誰かがその影を整えてやらないと、世界の形が歪む。」


 ミナには、完全には理解できなかった。

 けれどその声が、胸の奥に静かに染み込んでいく。


 「……あなたは、誰なんですか?」


 その問いに、彼はゆっくりと振り返った。

 月明かりが黒衣を照らし、金の瞳が淡く光る。


 「そういえば、名乗ってなかったな。」

 彼は片手を胸に当て、軽く頭を下げる。


 「カイン・レーヴァント。

  流れ者で……少しだけ“影”の仕事をしている。」


 ――カイン。

 その名が、夜風に溶けて響いた。


 ミナはその音を何度も心の中で繰り返した。

 カイン。

 それだけで、胸の奥が温かくなる。


 「ミナ、だな。」

 「……え?」

 「助けたときに、誰かが呼んでた。名前だけ覚えてたんだ。」


 その言葉に、ミナは目を見開く。

 彼は本当に、覚えていてくれたのだ。


 「ありがとう……」

 かすかに震える声でそう言うと、カインは首を振った。


 「礼はいらない。俺が勝手にやったことだ。」


 夜の静寂が、二人の間を包み込む。

 湖面に映る月が揺れ、影が重なって消える。


◆ ◆ ◆


 「これから、どこへ行くんですか?」

 「南の渓谷へ。戦が始まる前に、止められるものがあるなら止めたい。」


 「危険です……!」

 思わず言った声に、カインは微かに笑った。


 「危険なのは、いつだって誰かだ。

  俺は、その“誰か”の代わりをするだけ。」


 その言葉に、ミナの胸が強く締めつけられる。


 「……また、会えますか?」


 カインは少しだけ目を細めた。

 「光がある限り、影は消えない。

  だから、お前が誰かを照らすなら――俺はきっと、そばにいる。」


 ミナの瞳に、光が宿る。

 「……気をつけてください。」


 カインは静かに微笑み、夜の闇に溶けるように姿を消した。


 残された風が、ミナの髪をそっと撫でる。

 湖面の月が揺れ、森の奥が金色に染まった。


 「カイン・レーヴァント……。」


 その名を、確かめるように口にした。

 胸の奥に灯る光が、夜を少しだけ明るくした。


 彼は影の中を歩いている。

 けれど、影があるということは――そこに光もあるということ。


 ミナは空を見上げ、そっと微笑んだ。


 「……また、きっと。」


 月の下で、金の瞳が静かに輝いた。

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