第2話 灰の街の少女
扉を押し開けると、光があった。
それは太陽ではなく、空の彼方に漂う、灰色の霞が反射する鈍い光。
世界は、灰の海に沈んでいた。
崩れた塔。瓦礫に埋もれた街。
地平線の向こうまで、すべてが静止している。
音はなく、風さえも鈍い。
アレンは息を呑み、リィナの手を強く握った。
少女は不安げに彼の腕にしがみつき、足元の灰を踏んだ。
灰は深く、柔らかく、歩くたびに微かな音を立てた。
――これが、かつて“都市”と呼ばれていた場所なのか。
アレンの記憶には、この光景と重なる断片があった。
人の声、祭りの音、燃える光、そして、沈黙。
それらが一瞬、脳裏を掠めたが、すぐに霧に消えた。
『この街は、アーカイブ記録第七層“灰街群”です。
言葉の疫病が最初に発生した地域。
初期症状は、“意味の喪失”。』
管理者の声が頭の奥で響く。
アレンは眉を寄せた。
「意味の喪失……?」
『人々は自分の名前を思い出せなくなり、やがて言葉そのものを失いました。
言葉の形だけが街に残り、実体を持たぬ幻となったのです。』
リィナが足元の灰を掬い上げる。
指の間から、灰がさらさらとこぼれる。
その粒の中に、小さな光が瞬いた。
まるで何かが、語りかけようとしているように。
『検知――“言葉の欠片”を発見しました。』
「これが……?」
『はい。かつて“愛”と呼ばれていた概念の断片。
ただし、意味は完全に消失しています。』
アレンは灰の中からその光を取り上げた。
指先に触れた瞬間、冷たい感覚が脳に流れ込む。
――映像。
それは、かつての街の記憶だった。
人々が笑い合い、互いの名を呼ぶ。
その口が紡ぐ音は、もはやアレンには理解できなかった。
音はあるのに、意味がない。
言葉が壊れるというのは、こういうことなのか。
映像が消えると、リィナがアレンの袖を引いた。
彼女の瞳は、まるで何かを訴えていた。
“わかる”という感情だけが、言葉を超えて伝わる。
彼女は口を動かした。
音にはならなかったが、アレンには読めた。
――「きれい」と。
その瞬間、欠片がかすかに震え、微弱な光を放った。
アレンははっとしてリィナを見た。
「リィナ、今……」
彼女はただ首を傾げ、無邪気に笑った。
灰の中の一瞬の笑みが、まるで世界そのものを照らすようだった。
『感応現象を確認。彼女は“欠片”と共鳴しています。』
「共鳴?」
『無言者の一部には、失われた概念の残響を感知できる者がいます。
彼女は、おそらく“記憶の触媒”です。』
アレンはリィナを見つめた。
彼女の手の中で、灰の粒がまだ微かに光っている。
失われた世界の中で、彼女だけが言葉の“意味”を覚えているのかもしれない。
だとすれば――この旅は、彼女なしには始まらない。
「リィナ、行こう。」
彼女はうなずいた。
灰の街の奥へと、二人は歩き出す。
崩れた街角には、かつての図書館が半ば埋もれていた。
その壁面に刻まれた文字が、光を受けて淡く輝く。
“記録は滅びず。言葉は死なず。”
アレンは、その言葉を口の中で繰り返した。
不思議なことに、その文だけは意味を理解できた。
それが、世界の“根”にある何かのように感じられた。
灰を踏む音。
遠くで、何かが動いた。
金属の軋むような音。
アレンが身構えると、瓦礫の向こうから、複数の影がゆっくりと姿を現した。
それは、人の形を模した“機械”たちだった。
朽ちた外装、割れた仮面。
それでもなお、彼らは何かを口ずさもうとしていた。
壊れた声で――かつての言葉を、模倣するように。
『警告。言語模倣機、“リプロカ”。残存個体、三体。』
リィナが息を呑み、アレンの袖を掴んだ。
アレンは光の欠片を胸に握り、低く息を吐いた。
――滅びた世界で、言葉が再び“喋り出す”。
リプロカ――
それは、人間の形をした“声の残骸”だった。
近づくほどに、その異様さが際立つ。
彼らの肌は灰に覆われ、瞳の奥には文字がちらついていた。
それは、崩壊した辞典の頁を無理やり貼り合わせたような、不完全な存在。
それでも、彼らの口は絶えず動き、音を吐き出している。
「……オ……ハ……ヨ……」
「……コ……トバ……」
「……ダイ……ジョ……ブ……」
歪んだ声が空気を震わせる。
意味を求めて彷徨う残響。
かつて人間が話していた言葉の、化石のような響きだった。
リィナが怯えたようにアレンの背に隠れた。
その小さな手が震えているのを、アレンは感じた。
彼はポケットから司書証を取り出し、声を低くした。
「アーカイブ。彼らは敵か?」
『敵意はありません。ただ、概念を“模倣”しているだけです。
しかし、長期の自己崩壊により、暴走の可能性あり。』
アレンはゆっくりと前に出た。
足元の灰が音もなく沈む。
リプロカたちは彼の動きに反応し、ぎこちなく顔を上げた。
そのうちの一体が、まるで懇願するように、
胸に手を当て、ゆっくりと口を動かした。
「……タ……ス……ケ……テ……」
音は、途切れながらも確かに届いた。
リィナが小さく息を呑む。
アレンは思わず一歩踏み出した。
「助けて、だと……?」
『彼らの中には、人間の断片――“記録の影”が混ざっています。
言葉の疫病の際、人々の意識を保存しようとした試みの名残。』
「つまり、彼らの中には……生きた“記憶”がある?」
『はい。しかし崩壊が進行中。回収可能なのは、わずか。』
アレンは決断した。
胸元の司書証を起動し、記録の読み取りモードに切り替える。
淡い光がリプロカの胸を照らす。
すると、壊れた機械の中から映像が溢れ出した。
――かつての街。
光と音に満ちた世界。
人々が互いに名を呼び合い、笑っている。
その中央で、一人の青年が本を掲げていた。
「言葉は、永遠に――」と、そう言いかけた瞬間、映像が断ち切られた。
アレンの喉が詰まった。
その声。
その姿。
どこかで、確かに自分は知っている。
記憶の奥で何かが軋んだ。
リィナが彼の袖を掴み、心配そうに覗き込む。
その瞳の中に、わずかにアレンの顔が映っていた。
リプロカたちは映像が終わると同時に、動きを止めた。
胸の中心にある光が、ひとつ、またひとつと消えていく。
最後に残った一体が、アレンに手を伸ばした。
「……オ……マ……エ……ハ……」
「……シ……ショ……ウ……?」
その手が触れた瞬間、微かな光が弾け、灰が舞い上がった。
そして――リプロカの体は崩れ落ち、灰となって風に溶けた。
残されたのは、小さな金属の欠片。
それは司書証に似た形をしており、表面に文字が刻まれていた。
“Library Code : 00 – Archive Prime”
アレンは息を呑んだ。
『アーカイブ・プライム』――
それは、かつて自分が仕えていた中央図書機構の最高権限者の名だ。
『その識別コードは、あなたの上位管理者のものです。
彼は、言葉の疫病発生時に失踪しました。』
「つまり……この街は、彼が最後にいた場所……?」
『記録上は不明。ですが、何らかの“意図”があったと推測されます。』
リィナが金属片を見つめる。
指でなぞるように触れた瞬間、彼女の瞳に光が宿った。
まるで欠片と対話しているように。
その光景を見ながら、アレンは確信した。
――この少女こそ、“記憶の井戸”を開く鍵だ。
遠くで、風が動いた。
沈黙していた街の中に、わずかな音が生まれる。
灰が舞い、崩れた塔の影が揺れた。
リィナが顔を上げる。
唇が静かに動いた。
今度は確かに、微かな音がそこから漏れた。
「……あ……れ……ん……」
それは、彼女が初めて発した“言葉”だった。
掠れた声。けれど確かに、名を呼ぶ響き。
アレンは息を止めた。
世界が、一瞬だけ脈を打ったように感じた。
『確認――“言葉の欠片”再生率、1.3%。』
まだ、始まったばかりだ。
滅びの中から、言葉がゆっくりと蘇ろうとしている。
アレンはリィナの手を握り直し、灰の街を後にした。
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