転生したら滅びた文明の“最後の図書館司書”だった

aiko3

第1話 目覚めの書庫

 ――音が、ない。


 深い眠りの底から浮かび上がった瞬間、アレンは耳を澄ませた。

 風の音も、鳥の声も、頁をめくるわずかな擦過音さえない。

 ただ、空気の中に長い年月の静けさが積もっている。


 身体を起こす。

 背中に触れるのは硬い床。石でできた書庫のようだった。

 視界の端には、倒れた書架、崩れた天井、散乱した書物の残骸。

 そこに、かつての世界の呼吸が眠っている。


 ――ここは、どこだ?


 言葉を発したつもりだったが、声はかすれ、乾いた喉が鳴るだけだった。

 ゆっくりと息を吸うと、微かな紙と埃の匂いが胸に染みていく。

 思い出そうとする。だが、思考の表層は霧に覆われていた。

 自分の名、過去、目的――それらが掴めそうで掴めない。


 ただひとつ、確かなものがあった。

 掌の中に握られている、小さな金属片。

 それは古びた司書証のような形をしており、中央に文字が刻まれていた。

 「Library Code : 01 – ARLEN」


 口の中でゆっくりと名を繰り返す。

 ――アレン。

 それが、自分の名なのだろうか。


 ふと、頭の奥で声がした。


 『……起動、確認。識別コード、01。ようこそ、“最後の司書”アレン。』


 その声は冷たく、けれどどこか懐かしかった。

 彼は反射的に周囲を見渡す。

 光源はないのに、どこか淡く光が差している。

 空間そのものが彼に語りかけているようだった。


 「誰だ……?」


 『わたしはアーカイブ管理者。この図書館の、最終保護機構です。』


 管理者。機械の声のようであり、魂の残響のようでもあった。


 『記録によれば、文明滅亡から千三百二十二年が経過しています。

  あなたは最後に残った司書であり、記録の再生権限を有します。』


 アレンはその言葉を反芻した。

 ――滅亡。

 ――最後の司書。


 意味は理解できたが、実感はなかった。

 彼の周囲に広がるのは、崩壊した知の墓場。

 書物は風化し、言葉は形を失っていた。


 「……なぜ、俺はここに?」


 『それは、あなた自身が選んだからです。』


 「選んだ?」


 『“記録を守るために、記憶を棄てる”――あなたはその契約に同意しました。』


 静寂が戻る。

 アレンは胸の奥がざらりとするのを感じた。

 守るために、捨てた――何を? 誰を?

 思考の中で光がちらつく。

 焼け落ちる都市、黒い雨、そして――手から滑り落ちる一冊の本。


 『司書アレン。図書館の中枢機構“記憶の井戸”が停止しています。

  再起動には、散逸した“言葉の欠片”が必要です。』


 「言葉の、欠片?」


 『かつてこの世界は“言葉の疫病”によって滅びました。

  概念が崩壊し、意味が消滅したのです。

  欠片を集め、再び“言葉”を取り戻してください。

  それが、あなたの使命です。』


 使命。

 そう言われても、アレンは自分の胸の奥に小さな痛みを覚えただけだった。

 使命よりも先に、彼が感じたのは――

 この静寂を破るために、誰かの声が必要だという、言いようのない孤独だった。


 ふと、崩れた書架の間に淡い光が見えた。

 破れた布の向こうに、小さな手が伸びている。


 誰かが、そこにいる。

 息を呑んだアレンは、ゆっくりと立ち上がった。

 埃を舞い上げながら、書架を押しのける。


 そこにいたのは――言葉を知らない少女だった。

 灰色の瞳に、かすかな光の欠片を宿して。



 少女は、まだ息をしていた。

 だがその呼吸は浅く、唇は乾いていた。

 アレンは崩れた本の山をかき分け、彼女を抱き起こした。

 冷たい。

 けれど、その小さな体の奥には確かに生命の灯が残っている。


 「……大丈夫か?」


 声をかけても、返事はない。

 少女の瞳は焦点を結ばず、ただ光を追っているようだった。

 髪は灰色に近い銀で、衣服は古びた布切れ。

 文明の終焉から千年以上が経っているというのに――

 どうして、彼女は生きているのだろう。


 アレンは震える指で、少女の頬をなぞった。

 その瞬間、少女がかすかに唇を動かした。

 けれどそこから出たのは、言葉にならない音だった。


 「……声が、ないのか?」


 少女は首を傾げ、わずかに笑った。

 まるで“意味”というものを知らない子供のように。

 その笑みは無垢で、美しかったが、どこか痛々しかった。

 ――言葉を失った人々。

 アーカイブの声が言っていた“言葉の疫病”の末路が、目の前にあった。


 『アレン。彼女は“無言者”です。言葉の喪失者。』


 「生きているのか?」


 『はい。生命活動は維持されています。

  しかし、概念を理解する回路が失われています。

  彼らはかつて、記録を読むことすら許されなくなりました。』


 アレンは、少女の手を握った。

 小さく震えていた。

 この世界の静寂は、誰もが声を奪われたために生まれたものなのだろう。


 「……名は、あるのか?」


 『存在記録なし。識別のための仮称を設定しますか?』


 アレンは短く考え、そして呟いた。

 「リィナ」と。


 『承認。無言者・識別名リィナ。』


 少女――リィナは、彼の唇の動きを見て、同じように口を動かした。

 言葉にならない、けれど確かに“名”を呼ぼうとする仕草。

 それが、アレンの胸の奥を熱くした。


 ――この世界に、もう一度言葉を取り戻す。

 その決意は、静かに芽吹いた。


 アレンは書庫の奥へ視線を向けた。

 そこには崩れた階段と、封印された扉。

 扉の表面には、失われた文字が無数に刻まれていた。

 だが、その一部が微かに輝いている。


 『“記憶の井戸”への通路です。再起動には欠片が必要です。』


 「……欠片って、どこにある?」


 『滅びの各地に。かつての言葉が、形を変えて散っています。

  人、場所、音――あらゆる“残響”の中に。』


 アレンはリィナを見下ろした。

 彼女の瞳には、かすかに光が映っている。

 その光が、唯一の手がかりのように思えた。


 「リィナ、一緒に行こう。君と――“言葉”を探しに。」


 少女は理解したようには見えなかった。

 それでも、彼の手を握り返した。

 その指の温もりが、静寂の世界に小さな波紋を生んだ。


 書庫の天井から、一筋の光が落ちてきた。

 それは、長い夜の終わりを告げるような淡い輝きだった。

 塵が舞い、空気がわずかに震える。


 千年以上続いた沈黙の世界で、

 “声なき者”と“記憶なき司書”の旅が始まる。

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