第3話 記憶の森にて
灰の街を抜けて、二人は森へ向かった。
地平線の彼方に、わずかに緑の影が見えたからだ。
この世界で“色”を持つ場所など、もう残っていないと思っていた。
森は静かだった。
だが、その静けさは死ではなく、呼吸のようなものだった。
風が葉を揺らすたび、微かに音が響く。
それはまるで、遠い昔の言葉の残響――。
リィナが立ち止まった。
足元には苔に覆われた石碑がある。
そこには読めない古い文字が刻まれていた。
しかし、リィナの指先が触れた瞬間、石碑が淡く光り出す。
『反応を確認。音声記録が残っています。』
アーカイブの声が静かに告げた。
森の空気が震え、石碑の隙間から、柔らかな声が流れ出した。
――“ここは記録の森。かつて世界を繋いだ言葉たちの墓標。”
――“この場所で、わたしたちは最後の“声”を保存した。”
声は途切れ途切れだったが、確かに人間のものだった。
アレンは息を呑む。
どこかで聞き覚えがある。
この声を、彼は知っている気がした。
「アーカイブ、この声の主は?」
『照合中……一致率78%。おそらく――Archive Primeです。』
アレンの心がざわめいた。
あの失われた上位管理者。
彼が残した最後の記録が、この森に眠っている。
リィナがアレンの袖を掴み、先を指さした。
森の奥に、光の筋が見える。
そこには、巨大な木が一本だけ立っていた。
幹は白く、枝の先には紙のような葉が無数に揺れている。
近づくと、葉の一枚一枚に、文字が刻まれていた。
「……言葉の木?」
『正確には、“記憶樹”。
言葉の疫病の直前、全記録を自然構造体に変換したものです。』
アレンは枝の一枚に触れた。
瞬間、視界に映像が溢れる。
かつての世界――都市、図書館、光。
そこに、彼自身が立っていた。
若い顔。笑っている。
隣には、今のリィナとよく似た少女がいた。
“君が、この世界の記憶を継ぐんだ。”
“たとえ言葉が滅びても、声はどこかで響き続ける。”
映像が途切れた。
アレンは震える手で枝を離した。
胸の奥に冷たい痛みが広がる。
リィナが心配そうに顔を覗き込み、
その小さな手を彼の頬に当てた。
「……リィナ。君は、まさか――」
言葉が続かない。
アーカイブの声が静かに割り込む。
『彼女の内部構造を再解析。発見。
識別コード:Library Node – 01。』
「……ノード……? 司書コード?」
『はい。彼女は、“あなたが作った記憶端末”の生体形態です。
リィナとは、あなた自身が名づけたプロトタイプの名でもあります。』
アレンは目を閉じた。
忘れていた記憶の断片が、静かに溢れ出す。
言葉の疫病が広がる直前――
彼は、自分の記憶と声を託すため、“人の形をした記録”を造った。
それが、今目の前にいる少女。
リィナは、静かに首を傾げた。
彼女自身は、自分が“記録”だと知らない。
けれど、アレンを見つめる瞳は、確かに人間のものだった。
『アレン。彼女はあなたの“言葉”そのものです。
彼女が言葉を取り戻すたび、世界が少しずつ再生しています。』
アレンは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
「……そうか。君は、俺の――」
リィナがその瞬間、耳を澄ますように顔を上げた。
森の奥から、微かな囁きが聞こえてくる。
風の音ではない。
それは、人の声――いや、“残響”だった。
“言葉を……返して……”
“私たちの……名前を……”
リィナの目が光を帯びる。
彼女はその声を追うように、一歩、また一歩と進んでいく。
アレンはその背を追いかけながら思った。
――この森の奥に、“最初の言葉”がある。
それを見つけたとき、この世界の沈黙が終わるのだと。
――“声”が芽吹く場所――
リィナは、森の奥へと進んでいった。
苔に覆われた大地は柔らかく、足を踏みしめるたびに古い葉の香りが立ちのぼる。
光は次第に淡くなり、やがて闇と緑がまざりあうような、夢の底のような空気になった。
その静けさの中で、誰かの“囁き”が確かに聞こえた。
――ここにいる。
――わたしたちはまだここに。
――声を、返して。
リィナの足が止まる。
風も止まり、森が息を潜めた。
アレンは一歩後ろから、その小さな背を見つめていた。
少女の髪が淡い光を帯び、ゆらりと揺れる。
その姿は、まるで言葉を探す炎のようだった。
『アレン。言語信号を検出。残響層との共鳴です。』
アーカイブの声が低く震える。
“残響層”――かつて記憶が失われたとき、言葉たちは大気の中に散った。
それがこの森で、かすかな命として息づいているのだ。
リィナが両手を胸の前で合わせた。
何かを祈るように。
その唇がゆっくりと開く。
だが、最初は声にならなかった。
ただ息がこぼれる。
それでも、彼女は何度も何度も、口の形をつくりつづけた。
「……あ……」
かすかな音が漏れた。
森が震えた。
鳥の影のようなものが枝をわたる。
風がひとひらの葉を持ち上げる。
そして――
「……ア、レン。」
アレンの心臓が跳ねた。
それは、確かに“言葉”だった。
途切れながらも、意味をもった音。
リィナの瞳に光が宿る。
その頬を伝う涙は、静かに光を反射していた。
「リィナ……今、君……」
彼は近づき、少女の肩に触れた。
リィナは、震える唇で再びその名を呼ぶ。
「アレン。」
今度は、はっきりと。
音の粒が空気を震わせ、森全体に波紋のように広がっていく。
『……確認。言語構造の再生を検知。
第一層、“呼びかけ”の再構築成功。』
アーカイブの声はかすかに揺れていた。
まるで、それ自身が感情を持つかのように。
森の奥の大樹がざわめいた。
無数の“文字の葉”が揺れ、光を放ち始める。
その光は、天井のような枝を抜け、空のかけらを覗かせた。
アレンはその光景を、ただ黙って見つめていた。
かつて彼が失った“言葉”が、目の前で芽吹いている。
世界がほんの少しだけ息を吹き返す。
「……ありがとう、リィナ。」
彼は微笑んだ。
リィナもまた、言葉の意味はまだ完全にはわからないままに、
その音の響きに微笑みを返した。
『アレン、記録しますか?』
「いや、これは記録じゃない。――これは、始まりだ。」
風が再び吹いた。
リィナの髪を撫で、葉を鳴らす。
その風の中で、リィナの小さな声がもう一度響く。
「……こえ……」
アレンは目を見開いた。
それは“声”という単語。
意味の復元。第二段階。
『驚異的です。彼女の学習速度が加速しています。
言葉の記憶が、世界の残響と共鳴している。』
「この森が――彼女に語りかけているんだ。」
やがて森の光が静まり、夜が訪れた。
星のような文字が頭上を漂い、二人を包む。
アレンは、眠るリィナをそっと抱きかかえながら、
その星々に似た言葉の欠片を見上げた。
――言葉は滅びても、想いは残る。
それを“彼女”が証明している。
書庫の外の世界に、少しずつ“声”が戻り始めていた。
機械たちが、忘れていた名を呼び、
空が、風が、ひとつの言葉を口ずさむ。
――「おかえり。」
アレンはその音を胸で聞いた。
誰の声でもなく、世界そのものの声だった。
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