第3話 迷惑
「……まあ、大家さんのゲームの話は、今はちょっとこう、置いておくとして」
くぬぎさん、と呼ばれた男の人が、両手をひょいっと横にスライドさせる仕草をした。
「あのさ、大家さんにこのアパートのモットーみたいなの、聞いた?」
「も……? え……いえ、たぶん話してくださってたと思うんですけど、私いっぱいいっぱいで、いろいろ頭が……なんていうか、たぶん、聞き逃しちゃった……かな、と」
あのときは本当に、雑談を聞く余裕なんてなかった。ただ、目の前のことだけとにかくなんとかこなさなきゃって、そればっかりで。
心配そうにいろいろ言葉をかけていただいたのは覚えているんだけど、どうしても、頭が空気に追いつかなくて、どれもあまり覚えていなかった。
「うーん、そっかぁ」
くぬぎさんは陽だまりの猫みたいに、ふにゃっと顔をゆるめた。
見ているこっちまで、なぜかぽかぽかあたたかくなる、湯たんぽみたいな笑い方だった。
「迷惑かけて生きなさい、っていうの」
声まで、ひどくあたたかかった。
おひさまがひとつぶ心に伝い落ちて、じわっと沁みていくような、そんなあたたかさ。
私はゆっくりと時間をかけてその意味をのみこんで、ゆるゆると目を見開いた。
「めいわく……かけて、いきる」
「そ。人間なんて生まれて生きてるだけで迷惑なんだから、生きていく中で自然と生まれる迷惑を情けないとか、申し訳ないとか、我慢しなきゃとか思わないこと。迷惑をかけることは、甘えられる相手がいること、周りの人と関わっていること。誰にも迷惑かけないで自分にだけ迷惑かけ続けるのが一番よくないんだから、ちゃんと迷惑かけて、お礼と優しさをやりとりしながら生きなさい、ってね」
指折り数えながらくぬぎさんは、ころんころんと陽だまりのしずくを並べていく。
言葉がひとつ増えるたびに、息が止まりそうになった。
「代わりに絶対に故意に迷惑をかけないことと、誰かが自分にあたりまえの迷惑をかけたときは、全力で応えること」
最後にひとつ笑って、くぬぎさんはちょっと身をかがめ、私と目線を合わせた。
「体調悪くなるなんてさ、人生生きてたらそんなの、誰だって経験するじゃん? 誰でもかけて、かけられる迷惑だよ、それは。だから周りにいる人間に甘えればいいの。助けて、とか、誰か傍にいてほしい、とか、何かしらあるでしょ? あーいや、一人にしてほしい、かもしれないけど」
はるまさん、が、腕を組んで壁にもたれかかった。
「けど、それは寂しいだろ。しんどくて身動きとれないときは、誰かしら声かけたり、撫でてくれたり、何もしなくても一緒に居てくれる相手がほしいと思うじゃん。ま、私は実家の家族相手だと気ぃ遣うから、病気になってるときまでそんな思いしたくないし、全力でひきこもるけどな。けどクヌギとか、上の階に住んでる私の友達とかは、容赦なく使い走りさせて家事やってもらうぞ」
はるまさんに指さされて、くぬぎさんはえ、と笑顔のまま固まった。
「使い走りも家事も、俺ら普段からやらされてる気がするんだけど……」
「迷惑かけて生きなさい、ってお前さっき自分で言ったろ」
「言ったけど。言ったけどそろそろ目玉焼き、いやそんな贅沢言わないからカップラーメンくらいは作れるようになろうよ」
「はーっ、さてはお前、人に作ってもらったカップラーメンを深夜に食べる背徳感を知らない人種だな?」
「自分で作るカップラーメンの美味しさを知ってる人種になってください」
笑顔だったくぬぎさんがどんどん真顔になり、はあ……と深いため息をつく。
それをはるまさんは対照的に、面白そうに聞いていた。
くぬぎさんはぐしゃぐしゃ頭をかき回してから、「うん、よし」とひとつ頷いて、私に向き直った。
「まあ、そう、こんな感じで、あなたも遠慮なく容赦なく俺たちに声かけてもらってかまわないから。ごめんね、病み上がりなのになんかいろいろ、長々と……えーっとじゃあ、まあ、俺たち見知らぬ人種に甘えるのはむしろストレスになっちゃうかもしれないから、とりあえず大家さん呼ぼうか」
「あ……はい、えっと……あの、ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃー俺行ってくるけど、晴間、あんまり迷惑かけんなよー」
「爆速で矛盾してんじゃねえか……」
くぬぎさんは身軽に玄関から出ていき、ばたんと閉まったドアを眺めたはるまさんは、思いっきり不機嫌そうにそう呟いて。
私は思わず、小さくふふっと笑ってしまった。
声に出して笑うのは、というよりもこうして笑うことが、ずいぶん久しぶりだな、と思った。
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