第2話 人

「あ、もう大丈夫そう?」

「……はい。すみません、ご迷惑おかけして」

 部屋から戻ってきた二人に付き添われて、女の人の部屋に入った私は、ひとしきりトイレを借りてからリビングに出てきた。

 吐き気と眩暈と頭痛はなんとか収まって、だいぶ視界も聴覚もクリアになっている。

 女の人はずっと私の背中をさすって声をかけてくれていて、二人で一緒に部屋に戻ると、さっき見た時は雑多だった部屋の中がきちんと整頓され、そこに男の人が布団を敷いているところだった。

 にこにこと声をかけられた私が頭を下げると、男の人はひらひら手を振る。

「あー、いいのいいの。こういうときはね、すみませんよりありがとうって言うといいんだよ」

「お前それ、漫画のパクリだろ。自分が考えた名言っぽく言うな」

「パクリじゃないですー、参考にしただけですー」

 男の人は布団を敷き終えると、掛け布団をぽんぽんと叩く。

「どう、まだしんどいならちょっとここで横になってもいいし、何か食べたいならおかゆくらいは作れるけど。あ、アイスとかプリンとか買ってこようか?」

「あ、いえ……えっと……もう、部屋、戻るので、大丈夫です……せっかく布団まで敷いていただいて、申し訳ないんですけど」

「あーそうよね、やっぱ自分の部屋のほうが落ち着くよね。だってさクヌギ」

「あーそう。えーっと、どうしよ……さすがに女の子の部屋にあがりこむのはまずいよね……」

「安心しろ、あがりこんだら私が通報してやる。そうだな、布団敷くくらいなら私でもできるけど、おかゆは作れないな……後でクヌギが作って持ってきてくれ」

「はいよー」

「え、あの、え、えっ?」

 私は驚いて、二人の顔を交互に見回した。

「え、あの……私の部屋、えっ?」

「――あ、そうか、見られたくないものとかあるか」

「いやそういうわけじゃなくて、あの、もう大丈夫なので」

 黒縁の眼鏡の奥で瞳を丸くする女の人に、私は慌てて手を振る。

「こ、これ以上、迷惑かけられないですし……」

「いや、そんな真っ青な顔してる人間放っておけるかよ……もしかしたら夜中にまた吐くかもしれないし、傍に誰かいたほうが安心だろ。そりゃ、会ったばっかの人間だし、信用できないかもしれないけど――」

 女の人の言葉に、男の人は「あー確かに」と声を漏らして腕を組んだ。

「俺と晴間さんがグルの窃盗犯で、なにかと理由つけて部屋にあがりこんで、さっさと盗んでとっとと逃げるってこともありえるよねえ。じゃやっぱ晴間さんを部屋に入れずにここで寝てもらったほうが、一周回って安心かな?」

「いや、知らない人間の知らない部屋で落ち着いて寝られるわけないだろ……自分の部屋に知らない人間あがりこんでんのも落ち着かないだろうけど。あ、ならそうだ、大家呼ぶ? あの人なら優しいし、看病とか手慣れてそうだし安心だろ」

「あー、いいねいいね! いっつも部屋が広い、孫がほしいって嘆いてるもんね。まだまだ若いのに」

「え、あの人今年で六十二とかじゃなかった?」

「若いでしょ六十二は」

「あ、あのっ」

 とんとん進んでいく二人の会話に、私は慌てて割り込んだ。

 大家さんならさすがに知ってる。ふわふわしたグレーの髪の、穏やかで上品で優しそうな女性だ。

 あの人なら別に部屋に入れてもよさそうだなと思うし、大家さんの部屋に私が行くのも構わないんだけれど、問題はそんなことではなく。

「ほんとに……ひとりで、大丈夫なので……大家さんも、こんな時間にいきなり起こされたら迷惑だろうし」

「大丈夫だろ。あの人、たぶんまだ起きてる」

「この時間はいっつもサバゲーやってるよねえ、確か」

「さ、さばげー?」

 声がひっくり返った。あの人、あの外見でそんなことしてるのか。

 ……つくづく、このアパートの人もことも、何も知らないな、と思い知らされる。 この二人だって同じ階なのに、会ったことないし、名前も知らないし……女の人ははるまさん、男の人はくぬぎさん、って呼ばれてたけど、本名かはわからない。

 本当に、私は誰とも、関わろうとしなかったし、何にもふれようとしなかった。

 ただ一人でずっと、埃をかぶった心を殻で閉じて、狭い狭いその中で、震えるように息をしていた。

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