第1話 減点

 何がダメだったんだろう。

 どこからズレ始めたんだろう。

 いつからこうなったんだろう。


 どうして、私だったんだろう――


「は、」

 ぐるぐる回る頭の中が気持ち悪くて、壁に手をついた。

 だめだ、きもちわるい、はきそう。

 あとちょっと、あとほんの数歩で、部屋の前なのに。

 もうこれ以上歩けないし、動けない。

 じわ、と涙が滲んだ。

 口元を抑えて、その場にしゃがみこむ。ふきっ晒しの、アパートの廊下。私の部屋のドアはすぐそこ。

 ……大丈夫、じっとしてれば、たぶん、すぐよくなる。そうしたらゆっくり立って、歩いて――ああそうだ、朝の食器、洗わなきゃ。

 おなかに手を当てて、じっとして、へたくそな深呼吸を繰り返す。

 深呼吸。

 そう、呼吸して、息、吸って、吐いて、吐いて、吸って。

「はー……はー、はっ、う」

 あれ、おかしいな、ちゃんと、息できてる?

 息、息ってどうやって、吸うんだっけ。

 げほっ、とむせかえって、限界になって涙が零れる。

 また吐き気が襲ってくる。

 きもち、わるい。

 ほんとに、気持ち悪い。

(どうしよ、こんな、ところで、ビニール、あれ、かばん――)

 かばんを必死に手繰り寄せようとした手が震えて強張った。

 顎が張るような感覚に、ぐ、と唾液を呑み込んだととき。

「え、あの、大丈夫……ですか?」

 後ろで、声がする。人の声。男の人?

 私、かな、ああそういえば、ここ、通路か。

 塞いじゃって、邪魔しちゃったな。

 立ち上がろうとして、でも全然力が入らなくて、顔をほんの少しだけ動かして、目だけでなんとか、声をかけてくれた人を見ようとした。

 まだ涙の滲む視界で、小さくしか動かせない首のせいで、よくわからない、けど、たぶん会社員、っぽい。黒のような、紺のような、スーツ?

「す、すみ……」

「ああーまって、たぶんね、話さないほうがいい気がする。俺こういうの全然詳しくないけど、すごい声辛そうだし……え、あの、大丈夫? てかここ、ちょっと寒いよね? えっと、どうしよ……あ、そうだごめん、ちょっと待ってて」

 男の人が足早に私の横を通り過ぎて、奥のドアの前に立ったのが見える。どんどん危うくなってくる視界に、インターホンを鳴らす音。

 ピーンポーン……ピンポン、ピンポンピンポンピンピンピン――

「うるっさいわ!」

 がしゃんっと脳に響く音を立てて、勢いよくドアが開く。

 その大音量に頭がずきっと痛んで、思わず顔をしかめた。

 霞む視界にかすかに見えるジャージ姿、女の人。

「なんだよ、こんな時間に――」

「あのっ、いやほんとにこんな時間なのは申し訳ないんだけど、あの子部屋にいれてあげてくんない!? 必要なことは俺やるから、とりあえず、場所借りるだけ!」

「ああ? ……うわっ、え、何やってんのそんなとこで!」

 高い声。耳と頭が揺れて、耳鳴りがする。

「具合悪そうなんだよね、でも喋るの辛そうだし、俺の部屋に連れ込むのは色々問題だし――晴間はるまさんの部屋貸してもらえたら、女の子同士安心かなって思ったんだけど」

「ああ、別にいいけど……え、ほんとに大丈夫? だいぶ辛そ、」

「……うっ」

 女の人の話し声の途中でまた急にせりあがってきて、私はがくん、と膝をついてうずくまった。

 話し声が止まる。

 止まったはずなのに、頭ががんがんする。

「うっ――がふっ」

 咄嗟に口元を覆った手が、べちゃ、と濡れた。

 指の隙間から漏れた液体が落ちて、アパートの廊下を濡らす。

「う、うわ!? え、ほんとにやばいじゃん、大丈夫!? ちょっと待って、うちに今タオル、まだ使ってないやつ……」

「あっ、あとティッシュとビニール袋! たぶんまだ気持ち悪いと思うから――あ、あとあなた、たぶんそういうの、手で口おさえないほうがいいと思うよ、いや俺ほんとに全然詳しくないけど! あ、もう吐きたかったらそのへんに吐いちゃっていいから、ごめん、ちょーっとだけ待ってて!」

 ばたばたと家に走り込む音がして、私はげほ、とまた乱暴に息を吐いた。

 眩暈がする、苦しい。

 はっ、はっ、と呼吸を繰り返す。


 ああ、もう、ほんとにいやだ。

 みじめだ。最悪だ。くるしい。きえたい。


 私の、何がダメだったんだろう。

 どこからズレ始めたんだろう。

 いつからこうなったんだろう。



 どうして、なんで、なんで私だったんだろう――

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