リベンジ編

ACT.27 葛西ウメ


 5月3日・夜7時30分 Speed葛西・ガレージ


 エアツールの乾いた金属音が、油と鉄の匂いを震わせながら整備場に響 く。

 蛍光灯の白に浮かぶ赤いワンエイティは、獲物を待つ獣のように、ただ静かに息を殺していた。


 私は腕を組み、その赤い車体をじっと見つめた。隣ではウメがノートパソコンに指を走らせている。


「さて、このワンエイティ、どう料理しようかしら」


 軽く笑うと、ウメは手を止めずに答えた。


「まずは立て直し。エンジン、ボディ、下回り。全部“新車ライン”まで戻す。それからロールバーとスポット増し……最後に馬力を50、盛る」


 淡々とした説明なのに、言葉の端々に職人の温度があった。


「敵の車なのに、ずいぶん気合い入ってますね」


「作品よ。この車も、うちの子たちと同じ。――だからおもしろいの」


 ウメはちらりと横目を向け、唇を上げる。


「それと、斎藤智がそのバトルで勝ったら、整備費は無料にしてあげる。筋を通すの、大事だからね」


「無料……って、マジですか」


「ええ。本気で作った車を敵に渡す。それで勝つのがいちばん気持ちいいのよ」


 この人は本気だ――その確信が背筋を熱くした。


翌朝・赤城山 ヒルクライムスタート地点前の駐車場


 Z32を降りた瞬間、まだ熱を帯びたボンネットから湯気のような熱気が立ち上る。

 代車とはいえ、智姉さんの走りは容赦がなかった。


「今日の走り……ちょっと殺意高くなかったですか?」


「悪いが、手を抜く余裕はない。私もバトルが決まってる」


「え、引退してるのに!? 相手は?」


「葛西ウメ」


 その名前に空気が震えた気がした。赤城を走る者なら、一度は耳にする伝説。


「……なんで今さら?」


「わからないか。あいつとの勝負は、私の中で唯一“終わっていない”戦いなんだ」


 智姉さんの瞳が、久しぶりに“峠の女帝”のそれになった。


「じゃあ、おれが代わりに――」


「無理だ。お前じゃ勝てない」


 切り返しが鋭くて、思わず肩が跳ねた。


「……でも、負ける智姉さんは見たくない」


 その言葉に、智姉さんの表情が一瞬だけ曇る。


(――もし負けたら。二度とオオサキとは走らない)


 胸の奥で、嫌な予感が小さく震えた。


 午後1時、オープンした和食さいとう・店内


 クレスタ、マークII、チェイサー。三連続でJZXが並ぶと、店の空気が一段変わる。

 巫女服のハツとゴウが姿を見せ、その後ろから“本丸”が現れた。


 銀髪のポニーテール。空気を裂くような存在感。


「ご無沙汰してます……飯富院さん」


 智姉さんが、はっきり“敬語”を使った。

 これだけでも、この人がどれほどの存在かわかる。


「お前がバトルをすると聞いて来たにて候。――話すべきことがある」


 その声には、静かな圧力があった。


 夜10時、Speed葛西・ガレージ


 工具の音だけが響く中、私はRB26の若返り作業を続けていた。

 そこにサクラがひょいと顔を出す。


「サクラ。……少しドライブ、付き合ってくれる?」


 短く頷き、JZA70に乗り込む娘。

 赤城への上りで、ウメはゆっくり語り始めた。


 赤城道路・夜の上り


 県道4号線——赤城道路に入ると、ヘッドライトに照らされた白線が、闇に吸い込まれるように次々と流れていく。JZA70は重厚な直6の鼓動を響かせ、暗い山肌に反射する。

 私はハンドルを握りながら、隣のサクラへ静かに口を開いた。


「……昔話をしてもいい?」


 サクラは横目でこちらを見るだけで、言葉の代わりに小さく頷いた。


「私はね、13歳でプロの世界に入ったの。免許なんて当然なかったから、走る場所はサーキット。なのに短気で腕っぷしばかり強かったせいで、暴走族のレディースに間違われたことも何度もあったわ」


 苦笑しながら、遠い日の匂いを思い出す。


「当時の相棒はMA61型セリカXX。……可愛い子だった」


 そこから声の色が、少しだけ沈む。


「だけど……22の時。監督と口論になってね。売り言葉に買い言葉、最後は拳が飛んだ。私はプロの世界から追放された」


 サクラは黙って聞いている。ただ、夜の景色だけが後ろに千切れて飛んでいく。


「全部を失ったと思った。そんな私を拾ってくれた人がいたのよ」


「……父さん、か」


「そう。あなたの父親、希。あの人がいなかったら、私はとっくに走りをやめていた」


 胸が少し熱くなる。アクセルを踏む足が、ごくわずかに柔らかくなった。


「希に出会って、私はサーキットから赤城へ舞台を移した。……そしたらね、ここが本当に楽しかったの。走り屋たちを片っ端から倒して、赤城の最速と呼ばれるようになった」


 サクラの横顔に、かすかな誇らしさが浮かんだ。


「そして——25歳であなたを身籠もった。希とは、出来ちゃった結婚。走るのはその時にやめたわ。あなたを守る方が、ずっと大事だったもの」


「オレ……この中で生まれたんだよな」


「ええ。3月9日。雪の日だった」


 そこまで言った瞬間、胸を刺すような痛みが走る。


「……でも、幸せは長く続かなかった。ヒマワリとモミジを身籠った時、あの人は胃がんにやられた」


 言葉を絞るように続ける。


「運転席が怖くて……アクセルも踏めなかった。

 あの子たちに、父親の顔を見せてあげたかった……」


 ハンドルを握る手が震える。だが、すぐに呼吸を整えた。


「でもね、ある夜。聞こえたのよ。死んだはずの希の声が。

 “また走れ”って。……背中を押された気がした」


 アクセルを踏むと、JZA70はゆっくりと山の闇を裂いた。


「36の時に峠へ戻った。そして——とんでもない“怪物”が現れたの」


「……斎藤智?」


「そう。あの子を最初は“小娘”だと侮った。20歳も年下よ?

 でも、初めて並んだ瞬間に悟ったわ。勝てるわけがないって」


 サクラが少しだけ苦笑する。


「だって智姉さん……普通じゃない」


「幼少期にフィンランドで鍛えられた運転技術。反則よ、あれは。

 何度挑んでも返り討ち。悔しくて、でも楽しくて……

 あの5年間は、私の人生の中でも特別だった」


 JZA70のタービンが静かに唸り、二人の呼吸を包む。


「斎藤智が引退した時、私も後を追った。……そうして今に至るわけ」


 言い終えた瞬間、サクラがポツリとつぶやく。


「母さん……強いんだな」


 サクラは小さくつぶやいたあと、窓の外を見た。ガラスに映った自分の目を、しばらく黙って見つめていた。


「強くなんてないわ。ただ、守りたいものが増えただけよ」


 その言葉に、サクラは何も返さず。

 ただ、車内に流れる静かな熱だけが残った。


 和食さいとう・夜10時30分 

 JZX90チェイサーが店の前に滑り込み、凛とした影が降り立った。

 飯富院イチ——智の師匠。銀髪と巫女装束が、夜気の中で異様な存在感を放っている。


「遅れてすまん」


「いえ……来てくださり、ありがとうございます」


「行くぞ。赤城へ。お前はR35に乗れ」


 言葉に逆らう隙などない。私はうなずき、R35へ乗り込む。


赤城ヒルクライム


 闇に沈む峠を、二台の化け物が駆け上がる。

 R35の600馬力が吠え、だが——後ろのチェイサーは離れない。


「……あり得ない。あの車重で、このペース……?」


 トランシーバーが鳴る。


『速さだけを追うな、智。お前の弱点だ』


 悔しいほど、その通りだった。


 ゴール手前の駐車場に着くと、イチがゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 月光がその姿をより鋭く描く。


「智。お前は強い。車も強い。だが——“心”が置いてきぼりだ」


「心……」


「速さとは数字ではない。車も山も、敵ではない。

 相棒であり、舞台であり——お前の心を映す鏡だ」


 イチは両手で夜空を指し示す。


「この山の息を感じろ。車の囁きを聞け。そして……お前の魂が何を求めているのかを、黙って確かめろ。速さとは、心が澄んだときにだけ舞い降りる贈り物だ」


 私は息を呑むしかなかった。


 その後、何本も赤城を往復した。

 R35がただのマシンではなく“意思を持った生き物のように”感じられた瞬間があった。


 夜明け前、私はようやく言葉を絞り出す。


「……少しだけ、わかった気がします。ただ速いんじゃ駄目なんだ……」


 イチは満足げにうなずく。


「それでいい。お前の修業は始まったばかりだ。

 葛西ウメと戦うなら——心を鍛えろ」


 初めての“敗北”すら覚悟しながら、私は拳を握った。

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