ACT.28 覚醒とは

 深夜0時の赤城神社の境内。静寂と、かすかな風が、巫女の鈴をわずかに揺らす――深夜の赤城神社。

 山の空気は澄んでいて、赤と金の落葉が敷き詰められた石段を、斎藤智がゆっくりと登っていく。

 彼女の足音に、拝殿の前で佇む巫女装束の女性が振り返る。

 煌く銀髪。

 飯富院イチ――私に覚醒技を渡した者にして、“鬼巫女”と恐れられた伝説のドライバー。


「……飯富院さん、“覚醒”ってなんですか?」


 飯富院さんの表情が微かに動いた。答えを予期していたかのように、ゆっくりと拝殿の階段に腰を下ろす。

 わたしも隣に座る。二人の間を風が抜けて、どこか遠いサーキットの音が耳に幻のように響いた。


「オオサキに言われたのか?」


「いや、自分で考えました。あいつの“走り”は、もうただの才能だけじゃあありません。何かが、変わり始めております。」


「ふふ……そうか。オオサキもあんたも、面白いのう……うむ、“それ”のことか」


 飯富院さんは目を閉じ、微かに口角を上げた。


「理屈を超えて、車と一体になる感覚。意思じゃあない、“直感”とも違う。たとえば……アクセルを踏んだ瞬間、世界が静かになって、道が語りかけてくるような――そんな感覚だ」


「……ゾーンに入る、みたいなものなのですか」


「似てるけど違う。“ゾーン”は集中じゃ。“覚醒”は、もっと危うい。時に自分を壊すほどの、圧倒的な融合。心と車の境界が曖昧になる。速さの先にある、もうひとつの領域」


 私はしばらく黙っていた。

 視線を山の下へと向ける。そこには、いつか自分が“走った”コースが静かに横たわっている。


「……私はもう、その領域には戻りません」


「で、あるか。だが、オオサキはこれからにて候。あの子が“覚醒”したとき、どうなると思う?」


「――私を超えます。」


 飯富院さんは満足そうに笑った。


「その時こそ、本当の意味で“親代わり”になれるものになるのじゃ。止めるだけが守るじゃない。」


「やっぱりあなたは、教えるのが上手いです。」


「当たり前じゃろ。750馬力の神輿背負って走る巫女じゃろ?」


 私たちは顔を見合わせ、笑った。ほんの短い、静かな時間。

 だがその日の会話は、私の中で何かを確かに揺らした。


 日が傾き、境内の影が長く伸びる。

 私はそのまま黙って座っていた。飯富院さんは何も言わず、ただ空を仰ぐ。


「……飯富院さん」


「ん?」


「今回だけとはいえ、私も……本当は、また走りたいって思っております」


 風が止まり、空気が張り詰める。


「走る理由は、もうありません。勝ちたい相手も、倒したい誰かもいません。でも」


 智は拳を握る。掌にじんわりと爪が食い込むほど、静かに、強く。


「オオサキの背中を見てると、ざわつくんです。あいつのステアを見てると……血が騒ぎます」


 飯富院は静かに目を閉じ、神楽鈴の音に似た鈴を鳴らす風の音に耳を澄ませた。


「走りってのは、生き様じゃ。引退しても、忘れようとしても、走り屋の魂はエンストせん」


「……わかっております。けど、私はあいつの親代わりです。私が走ったら、あいつは追いかけてきます。あいつは、私に憧れておりますから」


「だから走らない? それは優しさか?」


 私は言葉を詰まらせる。

 飯富院さんはゆっくりと立ち上がり、奥にある自らの愛機――750馬力の“JZX90チェイサー”へと目をやった。


「オオサキは、あんたの背中を見て覚醒する。それは確かにて候。じゃが、智。止まってる背中から、学ぶものはない」


「……」


「心が騒ぐなら、抑えるな。信じる者に、走りの背中を見せてやれ。」


 私は立ち上がる。その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、私はふっと力を抜いて笑っていた。


「相変わらず、めんどくさい輩じゃな、あんた」


「ほめ言葉だと思って受け取っとておきます」


 二人の視線が交わる。

 その先にあるのは、赤城の峠。走るかどうかは、まだ決めていない。だが、心の中でひとつのギアが入った。

 ――この走りは、あの子への“手紙”になる。

 そう思った。


 それから翌日、5月5日の火曜日。

 赤城のふもと。かつて彼女が走り続けた道――だが、今は一線を退き、料理人としての日々を淡々と過ごす静かな暮らし。

 その夜も、「和食さいとう」の暖簾は揺れていた。

 だが、私の心には、あの日飯富院さんに言われた言葉がずっと渦巻いていた。


「止まってる背中から、学ぶものはない」


 閉店後、片付けを終えた厨房。冷えたままのフロアに、私はひとつのキーを取り出した。

 見慣れたキーホルダー。だが、そこについたエンブレムは――“GT-R”。

 日産 R35 GT-R。600馬力の四輪駆動。

 現役を退いてから、自分の足としてこっそり用意した1台。

 艶やかなガンメタリックのボディが、蛍光灯の下で冷たく光る。


「……行こう」


 エンジンをかける。ドッと地響きのようなアイドリング。滑らかながらも獣のような音。

 私の瞳に、かすかに火が灯った。


 深夜2時。

 赤城のダウンヒル、セクション前半。

 無人の峠道を照らすのは、GT-Rの鋭いLEDと月光のみ。誰にも告げず、誰にも見せず、ただ一人。

 アクセルをじわりと踏む。

 ターボの音が低く唸り、600馬力が蠢く。


「私は、まだ――終わっちゃいない。」


 0→100km/h、わずか2.6秒台の加速。

 カーブへ進入。

 ブレーキング。

 荷重移動。

 インへ寄せるステア。

 わずかなオーバーステアを、四輪駆動が吸収する。

 その瞬間、私の中で何かが解放された。

 思考ではない、意識でもない。

 “ただ在る”感覚。車と一体になって、峠を滑るように進む。

 覚醒――その予兆。


「……あいつが、これを超えてくるなら――」


 走り終えた頃には、赤城の頂に朝日が差し始めていた。

 車を降りる。額に滲む汗。だがその表情は、どこか懐かしい光に包まれていた。


「オオサキ――お前が来るなら、迎えてやる。師として、走り屋として」


 R35のルーフを叩き、背を向ける。まだ幕は開いていない――けれど、風がその気配を運んでいた。

 まだ、本気じゃない。

 けれど、戦いの幕は、静かに上がり始めていた。


 赤城ダウンヒル――第2高速区間、道の脇に、一台のGC8インプレッサが停まっていた。


「……あれ、今のって……R35か?」


 助手席の男が目を細める。オレンジ色の瞳孔に、たった今通り過ぎた銀の閃光が焼き付いていた。


「いや、あのライン……踏み方、次元が違ぇ。あれって、マジで“あの人”なんじゃ……?」


「まさか。斎藤智がまだ走ってるわけ……」


「いや、わかんねぇぞ。5年前、こっちで消えたって話だ。今のGT-R、R35だった。あの挙動、普通じゃねぇ。」


 男たちは言葉を失った。

 峠に生きる者たちにはわかる。“異物”が、道に降りたときの空気の変化が。

 音も、空気も、タイヤの鳴きも――ただ、異常に“静か”だった。

 まるで、車そのものが音速の前に“気配”を殺して通り抜けたかのように。


 さらに翌日、5月6日の水曜日。

 赤城の駐車場には、走り屋たちがぽつぽつと集まりはじめていた。


「なあ、お前聞いたか? 深夜2時、第1高速区間に現れたGT-Rの話。」


「……600馬力のR35。ダウンヒルのすべてのセクションを、誰にも見られず一気抜け。セクションタイム」


「マジかよ。冗談だろ。そんなの、今話題の大崎翔子でもまだ出せてねぇってのに……」


「なぁ、“クイーン”が戻ってきたって噂、あれ……まさか――」


 それ以上、誰も言葉にしなかった。

 “斎藤智”

 その名を口にすること自体が、あまりに現実離れしていて、誰も確信が持てなかった。

 だが――その翌晩、駐車場に銀のR35がふらりと姿を現した。

 助手席には誰もいない。

 運転席のドアが開く。

 パンプスがアスファルトを打つ音。セーターの下には、黒のタイツ。

 風に流れるウグイス色がかかった銀髪。涼やかで、冷徹な瞳。


 舞台は201X年、群馬・赤城山。

 かつて峠を制したレジェンドたちが、引退し、家庭を持ち、日々の生活に戻っていった時代。

 だが、それでも――夜には、どこからともなく現れる若き走り屋たちがいた。

 赤城・前半セクションにある第1高速区間

 その場所で、数日前“誰か”が深夜に走り抜けた、という噂が流れ始めていた。


「聞いたか? R35だ。しかも、速さが尋常じゃなかったって話だ。」


「タイム? ブレたデータしかねーけど、ガチなら化け物クラス。」


「嘘だろ。あそこは今、誰もタイム切れてねぇってのに……」


 その情報が、一部のコアな連中――元・赤城の住人たちの耳にも届き始めていた。

 中でも、地元の車屋「SPEED☆GOD」店主・倉持ユウスケは、かつて斎藤智と僅差の勝負を演じた伝説の一人。

 その日、彼は夜のピットで、スタッフから聞いた話に目を細めた。


「……R35でそんなタイム。へぇ」


 ふっと口元が緩む。


「一人しか知らねぇな。あの“伝説の走り屋”――斎藤智。」


「マジっすか!? でも、引退して何年も……」


「引退ってのは、“走らない”ってだけの話さ。“走れない”わけじゃねぇ。」


 ユウスケは、立ち上がる。


「奴が本気で帰ってきたなら……赤城はまた、血が滾るぞ。」


 一方その頃、本人はそんな噂に一切気づいていなかった。

 智はいつも通り「和食さいとう」の暖簾を出し、仕込みをし、料理を出し、静かな夜を過ごしていた。

 けれど、その目にはわずかな光が宿っている。


「赤城に、火がついたか。」


 あの日の夜以来、一度も走っていない。けれど、もう“走る準備”は始まっていた。


 R35はガレージで静かに眠る。

まるで、来たるべき再戦に向けて息を潜めているかのように。


「……誰が一番速いのか。そろそろハッキリさせておくか。」


 そう呟いた私に、その場にいた誰もが息を飲んだ。

 伝説は、静かに再起動した。


 201X年・赤城山 ダウンヒルゴール地点兼ヒルクライムスタート地点駐車場。夜、5月7日の木曜日。

 コンビニ袋をぶら下げた若い男が、赤城の空気を吸い込む。

 名前は蓮見レン。17歳。県外から噂を聞きつけて来た、まだ峠歴1年にも満たない新顔。

 彼のS15シルビアには、派手なエアロも、チューニングの証もない。けれど、赤城に立つその目には、何かを求める光があった。


「……R35。すさまじいタイムだ」


 レンは峠に咲いた“幻”を探しに来た。

 その夜、彼は誰とも話さず、ただ山を何往復も流した。

 そして、運命のように――下りの途中、彼は見た。

 “月光に照らされた、銀色のGT-R。”

 道路脇のベンチに、運転席から降りたひとりの女が腰かけていた。

 涼やかな横顔。長い銀髪。

 そして、ただ者じゃない“気配”。

 レンはブレーキを踏んで、思わず車を停める。

 智の視線が、わずかにこちらを向いた。


「……お前が、今夜のストーカーか。」


「ち、違っ……いや、いや違くない! アンタ、斎藤智だろ。R35GT-Rの。」


「名乗った覚えはないが……誰に聞いた?」


「誰にも聞いてない。走り見て……なんとなく。背中を見て分かった。」


 智は立ち上がる。

 その背筋は、どこか“正しく在る者”の佇まいを持っていた。


「お前、名前は?」


「蓮見レン。まだ走り出したばっかの……新人です。」


「……レン。じゃあ質問だ。」


 彼女は一歩、近づく。


「走ってて、何を感じた?」


「……最初は、怖かった。でも、気づいたら……走るたびに、“誰か”に近づける気がして。」


「それが“走り屋”って生き物だ。」


 智は微笑まない。けれど、その声には、静かな熱が宿っていた。


「お前に才能があるかは知らない。ただ――今日ここで私を見つけた。その勘は、間違いじゃあない」


 レンは思わず背筋を正した。


「オマエは、誰かに追いつこうとしてる。なら、追いかける“背中”は間違えるな。」


 智は再びR35に乗り込む。


「今夜は帰れ。峠ってのは、気合じゃなく“準備”で走るもんだ。」


「……はい。」


「次に会う時、お前の“目”がまだ死んでなければ――その時は、少しだけ走ってやる。」


 エンジンが静かに始動する。

 600馬力の咆哮ではなく、あくまでスムーズで抑制された、あのGT-R独特の低い唸り。


「智さん……すげぇ。」


 その言葉は、誰にも聞こえなかった。

 だが、またひとつ。

 “伝説”が、静かに広がり始めていた。


 深夜0時。

 赤城・頂上の駐車場には、数えるほどの車と人影。

 情報は“走り屋たち”のネットワークを駆け巡っていた。


「斎藤智が走る。」 「今日、赤城で――一度だけ。」


 その噂に吸い寄せられるように、かつての走り屋、そして若い走り手たちが集まっていた。

 だが、彼らの多くは半信半疑だった。


「いくら伝説でも、引退して5年だろ。今さらさ――」


「いや、あの人は違う。“斎藤智”って名前が走ってるんじゃない。あの人自身が、“走り”そのものなんだ。」


 そして、空気が変わる。

 月明かりの中、静かに坂の向こうから現れる銀のGT-R。

 ゆっくりと、まるで“峠の主”が帰ってきたように。

 私、斎藤智、600馬力のR35を駆って――帰還。

 駐車場にいた誰もが、言葉を失った。

 私は何も言わない。


「……久しいな、この空気」


 その一言だけを残し、R35はスタート地点へ。

 助手席には誰もいない。

 誰もストップウォッチを押さない。だが、空気が“語っていた”

 ただ一人。ただ一度。

 その夜は、自分の魂を試すためだけの走り。

 午前1時00分。スタート。

 1速、2速、瞬時に立ち上がるブースト。

 四輪駆動の挙動を完全に掌握し、コーナーを切り裂くように進む。

 私の走りに、躊躇はなかった。

 ブレーキング。

 ステアリング。

 アクセルの踏み直し。

 すべてが、“生きている”。

 それは技術ではない。鍛錬でもない。

 それは“呼吸”。

 赤城は静かだった。木々の葉擦れすら止まり、ただ、600馬力の詩に耳を澄ませていた。


「速すぎる……!」 「600馬力の重量級が、なんであそこまで軽快なんだ……!?」 「いや、違う。“重さ”を利用してる……完全にコントロール下だ。」


 サクラゾーンへ。

 全開のまま突っ込む、かつての“勝負コーナー”。

 かすかにリアが滑る。

 だが、まるでそれすら計算されていたように、R35はラインを完璧にトレースしていく。

 最後の右ヘアピン――智は一度も減速せず、ギリギリのクリアを見せた。

 誰もストップウォッチを押していない。

 けれど、その夜の空気が語っていた。


「……斎藤智は、まだ“生きてる”。」


 私は車を停め、降りてきた。

 誰も言葉をかけられなかった。

 あまりにも、美しく、静かすぎる走りだったから。

 私は一人の少年――レンにだけ、目を向けた。


「これが“覚醒”だとは、言わない。だが――」


 目を細め、背中を向ける。


「お前が自分で“答え”を見つけるまで……私は走らない。今日が最後だ。」


 そして、R35に乗り、ライトも点けず、山を降りていった。

 まるで夢のように――

 あの“伝説”は、もう一度だけ現れて、そして去っていった。


 赤城の麓。

 一度走り終えた私は、帰り道を選んだ。

 いつもとは違うルート。

 その足は、赤城山を降りきることなく、わずかに脇道にそれた。

 目的地は、赤城神社のそばにある静かな祠。

 そこには、師匠――飯富院さんがひっそりと佇む。

 私が到着した時、飯富院は既に社の前に立ち、月光を浴びながら何かを見つめていた。


「遅かったのう」


 私の姿を見つけた飯富院さんは、少しだけ微笑みながら声をかけた。


「帰る前に寄ろうと思ってました」


 私は、少しだけ息を吐いて神社の石段をゆっくりと昇る。

 飯富院はそのまま言葉少なに、智が近づくのを待っていた。

 しばらく、二人は黙って並んで月を見上げていた。


「帰還したのか。峠を。」


「一度だけです」私は淡々と答える。


「一度だけ、確かめたかったのです」


「……確かめたかった?」


「私の中で、何かが終わってるのか、まだ動いてるのか。走ることが、もう必要ないのか――それを。」


 飯富院さんは微笑みもせず、ただ静かに頷いた。


「そうか。」


 そして少しの間、何も言わずに夜の静けさを二人で分け合った。


「そして?」


 私の問いに、飯富院さんは何も答えず、ただ神社の方向を見つめた。やがて、ゆっくりと視線を戻し、口を開く。


「お前が走ると、何かが変わる。」


「それは、もう昔からわかってることでしょう」


「でもな……」


 智はその言葉をじっと聞いていた。

 飯富院さんの言葉はいつも静かで、鋭い。


「覚醒とはな、必ずしも勝つことじゃない。」


 飯富院さんは淡々とした声で続けた。


「誰かに勝つこと、目標を達成することが覚醒だと思っている者は多い。でも本当の覚醒とは、もっと静かなものだ。」


 私は少し首を傾けた。


「静かなものですか?」


「うん。」飯富院さんは肩をすくめて答える。「自分の中で何かに気づくこと。それが、周りを変えていくものだ」


 私は一瞬、その言葉に困惑したように見えたが、すぐにそれを飲み込んだ。


「勝っても、負けても――変わらないものは、必ずある。」


「そういうものでしょうね」私は小さく呟いた。


 飯富院さんは振り返り、優しく言った。


「だから、走る理由なんて、お前が決めればいいのじゃ。お前はただ、今まで通りに走ればいいにて候。誰のためでもなく、ただお前が自分で決めたことを。」


 私は深く息を吐いた。

 その静かな夜、月がきらりと輝き、二人の間に長い沈黙が流れた。


「……私の走りは、もう終わりました。けれど、もしもまた走りたくなった時――私は、あなたのところに帰ります」


 私は静かにそう言うと、少しだけ肩の力を抜いて笑った。

 飯富院さんは、その言葉に静かに頷いた。


「うん。お前が帰るべき場所は、いつでもここにある。」


 そして、二人はそのまま、静かな夜の中で並んで座り、月の光を見つめ続けた。

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