第3話 才能の影


 柚木陽介は、編集者に罵倒されていた。

「柚木さん、これは何ですか」

 編集者の声が、ファミレスの個室に響く。

「原稿、ですけど」

「原稿? これが?」

 編集者はネームを叩きつけた。

「十年やって、まだこのレベルですか。構図は平凡、キャラは記号的、ストーリーは既視感だらけ。どこに才能があるんですか」

 柚木は俯いた。

「すみません」

「謝るだけなら誰でもできます。才能がないなら、別の仕事を探してください」

 編集者は席を立った。

「次回、持ち込みは受け付けません」

 柚木は一人、残された。


 柚木は三十五歳だった。

 漫画家を目指して十年。デビューはしたが、打ち切りが続いた。今は持ち込みを繰り返す日々。

 アパートの六畳一間。机には原稿用紙が散乱している。壁には過去の打ち切り作品の切り抜きが貼られている。

 柚木は机に向かった。

 ペンを握る。しかし何も描けない。

 才能がない。

 十年間、そう言われ続けてきた。

 柚木はペンを投げた。

 原稿用紙が床に散らばる。


 その夜、柚木は街を歩いていた。

 理由はなかった。ただ、部屋にいたくなかった。

 気づくと、見知らぬ路地にいた。

 石畳の道。提灯が灯り、霧が立ち込めている。

 柚木は立ち止まった。

 一軒の店が見えた。看板に『影喰い横丁』と書かれている。

 柚木は引き戸を開けた。

 店内は薄暗かった。棚に無数の小瓶が並び、中で黒い靄が蠢いている。

 カウンターの奥に、女がいた。

 黒い着物を着た、白い顔の女。

「いらっしゃいませ」

 女が言った。

「……ここは、何の店ですか」

「影を扱っています」

「影?」

「人の才能を、影として売買する店です」

 柚木は笑おうとした。しかし笑えなかった。

「あなたは、才能が欲しいのでしょう」

 柚木の息が止まった。

「……なぜ」

「影が教えてくれます」

 女は棚から一つの瓶を取り出した。中の黒い靄が、銀色に光っている。

「これは、『天才的画力』の影です」

「天才的、画力?」

「これを買えば、あなたは神作を描けます。構図、デッサン、演出。全てが完璧になります」

 柚木は瓶を見つめた。

「……いくらですか」

「八十万円です」

「それだけ、ですか」

「影には、元の持ち主の業が憑いています」

「業?」

「それが何かは、買ってからのお楽しみです」

 女は微笑まなかった。

 柚木は財布を取り出した。クレジットカードを差し出す。

「現金のみです」

「……待ってください」

 柚木は店を出て、コンビニのATMで限度額まで借金した。八十万円。

 店に戻ると、女は動いていなかった。

 柚木は現金を渡した。女は無言で受け取り、瓶を開けた。

 銀色の靄が柚木に飛びかかった。

 熱かった。

 靄は柚木の右手に吸い込まれ、全身に広がった。指先が痺れる。

 柚木は床に膝をついた。

「気分はいかがですか」

 女が尋ねた。

「……わからない」

 柚木は右手を見た。

 手が、震えていた。

「早く、描きたい」

 柚木は店を飛び出した。


 アパートに戻ると、柚木は机に向かった。

 ペンを握る。

 原稿用紙に、線を引いた。

 完璧だった。

 構図が、自然に浮かぶ。キャラクターの表情、背景の遠近法、コマ割り。全てが頭の中で完成している。

 柚木は描き続けた。

 一時間、二時間、三時間。

 気づくと、朝になっていた。

 机の上に、三十二ページのネームが完成していた。

 柚木は原稿を見つめた。

 これは、神作だ。

 柚木は笑った。


 柚木は原稿をスキャンし、SNSに投稿した。

 タイトルは『影の檻』。

 主人公が自分の影に支配され、次第に狂っていく物語。

 投稿して一時間後、通知音が鳴り始めた。

 いいね。リツイート。リプライ。

「すごい」

「この構図、天才的」

「プロですか?」

 通知が止まらなかった。

 柚木は画面を見つめた。

 認められている。

 初めて、認められた。

 柚木は泣いた。


 翌日、出版社から連絡が来た。

「柚木さん、作品を拝見しました。ぜひ、連載を前向きに検討させてください」

 柚木は震えた。

「本当、ですか」

「はい。すぐに打ち合わせをしましょう」

 柚木は電話を切った。

 そして、叫んだ。

 夢が、叶った。


 しかし柚木は、違和感を感じていた。

 描くたび、自分の絵ではない気がする。

 線が、自分のものではない。

 構図が、自分の頭から生まれたものではない。

 まるで、別の誰かが柚木の手を動かしているようだった。

 柚木はペンを置いた。

 右手を見る。

 指先に、黒いインクが滲んでいた。

 いや、インクではない。

 影だった。

 柚木は首を振った。

 気のせいだ。

 これは、俺の才能だ。

 影が引き出してくれた、俺の才能だ。

 柚木は自分に言い聞かせた。


 連載が始まった。

 『影の檻』は大ヒットした。SNSで話題になり、単行本は即重版。アニメ化の話も出た。

 柚木は忙しくなった。打ち合わせ、サイン会、取材。

 しかし柚木は、描くたびに不安になった。

 これは、本当に自分の才能なのか。

 いや、そうだ。

 これは、俺の才能だ。

 偽物でも、何でもない。

 これが、俺の絵だ。

 柚木は自分に言い聞かせ続けた。


 ある日、SNSで奇妙なリプライを見つけた。

「この絵、どこかで見た気がする」

 柚木は無視した。

 しかし翌日、別のリプライが来た。

「構図が既視感ある。誰かのパクリ?」

 柚木は震えた。

 パクリ?

 柚木は自分の原稿を見直した。しかし、どこにもパクリの痕跡はない。全て、柚木が描いた。

 いや、本当に柚木が描いたのか?

 柚木は頭を振った。

 俺が描いた。

 これは、俺の絵だ。


 疑惑は広がった。

 SNSで「柚木陽介 パクリ疑惑」がトレンド入りした。

 検証動画が投稿され、柚木の作品と過去の作品が比較された。

 しかし、一致する作品は見つからなかった。

 それでも、人々は疑い続けた。

「絶対にパクリだ」

「こんな急に上手くなるわけがない」

 柚木は反論しようとした。しかし、何も言えなかった。

 なぜなら、柚木自身も確信が持てなかったから。

 これは、本当に俺の絵なのか?


 柚木は再び影喰い横丁を訪れた。

 お縫は、カウンターの奥にいた。

「いらっしゃいませ」

「これは、誰の才能なんですか」

 柚木は叫んだ。

「俺が買った影の、元の持ち主は誰なんですか」

 お縫は首を傾げた。

「元の持ち主は、漫画家でした」

「名前は」

「言えません」

「なぜ!」

「秘密です」

 柚木は床に手をついた。

「教えてください。この才能が、本物なのか知りたいんです」

 お縫は棚から古い雑誌を取り出した。柚木に見せる。

 表紙に『新人賞受賞作』と書かれている。

 柚木はページを開いた。

 そこには、見覚えのある絵が載っていた。

 構図、キャラクター、線。

 全て、柚木が描いたものと同じだった。

「これは……」

「元の持ち主の作品です」

 柚木は雑誌を落とした。

「じゃあ、俺は……」

「あなたは彼の才能を買いました。そして彼の絵を、描いています」

 柚木は震えた。

「パクリ、じゃないか」

「違います。あなたは影を買った。それだけです」

「でも、俺の絵じゃない!」

「影の絵です」

 お縫は冷たく言った。

「そして、影の元の持ち主は盗作で炎上し、自殺しました」

 柚木は息を呑んだ。

「自殺?」

「彼も、誰かの影を買っていました」

 お縫は微笑んだ。

「実は、その影も偽物でした」

 柚木は顔を上げた。

「偽物?」

「私が実験的に複製した影です。本物の才能は、別の誰かが持っています」

 柚木は立ち上がった。

「じゃあ、俺の才能も……」

「偽物です」

 お縫は淡々と言った。

「あなたが描いている絵は、影の影。本物の才能ではありません」

 柚木は叫んだ。

「ふざけるな! 俺は八十万も払ったんだ!」

「偽物も、商品です」

「返せ! 金を返せ!」

「返品はできません」

 柚木は床に座り込んだ。

 お縫の表情が、わずかに揺らいだ。

「……それでも、描き続けますか」

 柚木は顔を上げた。

「何?」

「偽物でも、あなたは描けます。それを、どう使うかはあなた次第です」

 柚木は黙った。


 柚木は店を出た。

 路地を歩く。

 右手を見る。

 指先に、黒いインクが滲んでいた。

 いや、影だった。

 柚木は右手を握りしめた。

 これは、俺の才能じゃない。

 でも、これしかない。

 偽物でも、いい。

 これが、俺の才能だ。

 柚木は決意した。


 翌日、柚木は原稿を描いた。

 偽物の才能で、描き続けた。

 SNSでは、まだ疑惑が燻っていた。

「柚木陽介、絶対に何か隠してる」

「いつかボロが出る」

 柚木は無視した。

 描き続けるしかなかった。


 半年後、柚木の連載は打ち切られた。

 理由は「マンネリ化」だった。

 編集者は言った。

「柚木さん、最初は新鮮でしたが、最近は同じような絵ばかりですね」

「……そうですか」

「次回作、期待してます」

 編集者は去った。

 柚木は原稿用紙を見つめた。

 偽物の才能は、もう枯れていた。

 いや、枯れてはいない。

 ただ、同じものしか生み出せない。

 柚木は笑った。

 そして、泣いた。


 それでも、柚木は描き続けた。

 持ち込みを繰り返し、編集者に罵倒され、才能がないと言われ続けた。

 しかし柚木は、諦めなかった。

 偽物でも、いい。

 これが、俺の才能だ。

 柚木は自分に言い聞かせた。

 ある夜、柚木は原稿を描きながら思った。

 本物は、どこにあるんだろう。

 俺の影の、元になった才能は。

 そして、その才能を持つ人間は、今どこで何をしているんだろう。

 柚木はペンを置いた。

 右手を見る。

 指先に、黒いインクが滲んでいた。

 柚木は決めた。

 いつか、本物を探す。

 この影の、本当の持ち主を。

 そして、本物の才能を見つける。

 柚木はペンを握った。

 原稿用紙に、線を引く。

 偽物の線が、引かれた。

 しかし、その線には希望が宿っていた。

(終)


次回:Episode 4「後悔を喰う影」

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