第4話 後悔を喰う影
三島浩二は、部下の葬儀に出席していた。
棺の中に、若い男の遺体が横たわっている。鈴木大輔。二十八歳。三島の部下だった。
一週間前、鈴木は会社の屋上から飛び降りた。
遺書はなかった。
三島は焼香を終え、席に座った。
周囲の人々が泣いている。鈴木の両親、妻、同僚。
しかし三島は、泣けなかった。
悲しくない。
罪悪感もない。
ただ、空虚だった。
三島は四十三歳の管理職だった。
大手メーカーの営業部に所属し、十五年間勤めてきた。
半年前、三島は会社の不正を知った。
製品の検査データを改ざんし、不良品を出荷していた。担当者は鈴木だった。
鈴木は三島に相談した。
「三島さん、これ、まずいですよね」
「……わかってる」
「どうすればいいですか」
三島は答えなかった。
不正を告発すれば、会社は傾く。自分の立場も危うくなる。
三島は見逃した。
「とりあえず、黙っていてくれ」
鈴木は従った。
しかし一ヶ月後、不正が発覚した。内部告発があった。
鈴木は責任を問われた。会社は鈴木を切り捨て、全ての罪を押し付けた。
鈴木は追い詰められ、屋上から飛び降りた。
三島は、何も感じなかった。
いや、感じていたはずだった。
罪悪感、後悔、自責の念。
しかし今は、何も感じない。
葬儀が終わり、三島は会社に戻った。
デスクに座り、書類を見る。
仕事は順調だった。鈴木の件は処理され、会社は何事もなかったかのように動いている。
三島は書類にサインをした。
手が、震えなかった。
その夜、三島は街を歩いていた。
理由はなかった。ただ、家に帰りたくなかった。
気づくと、見知らぬ路地にいた。
石畳の道。提灯が灯り、霧が立ち込めている。
三島は立ち止まった。
一軒の店が見えた。看板に『影喰い横丁』と書かれている。
三島は引き戸を開けた。
店内は薄暗かった。棚に無数の小瓶が並び、中で黒い靄が蠢いている。
カウンターの奥に、女がいた。
黒い着物を着た、白い顔の女。
「いらっしゃいませ」
女が言った。
「……ここは、何の店ですか」
「影を扱っています」
「影?」
「人の感情を、影として売買する店です」
三島は笑おうとした。しかし笑えなかった。
「あなたは、後悔を消したいのでしょう」
三島の息が止まった。
「……いや、もう消えてる」
「では、なぜここに?」
三島は答えられなかった。
女は棚から一つの瓶を取り出した。中の黒い靄が、灰色に光っている。
「これは、『後悔を他人に移す影』です」
「他人に、移す?」
「これを買えば、あなたの後悔は他人に移ります。あなたは何も感じなくなります」
三島は瓶を見つめた。
「でも、俺はもう何も感じてない」
「本当に?」
女は微笑んだ。
「あなたの心の奥底に、まだ後悔が残っています。それを、完全に消しませんか」
三島は震えた。
確かに、何かが残っている気がする。
鈴木の顔が、頭に浮かぶ。
三島は財布を取り出した。
「……いくらですか」
「百万円です」
三島は躊躇した。
しかし、もう引き返せなかった。
「払います」
三島は翌日、銀行で百万円を引き出した。
そして夜、再び影喰い横丁を訪れた。
女は動いていなかった。
三島は現金を渡した。女は無言で受け取り、瓶を開けた。
灰色の靄が三島に飛びかかった。
冷たかった。
靄は三島の胸に吸い込まれ、心臓を包み込んだ。
三島は床に膝をついた。
「気分はいかがですか」
女が尋ねた。
「……軽い」
三島は立ち上がった。
心が、軽かった。
後悔が、消えていた。
三島は笑った。
翌日、三島は会社に行った。
仕事は順調だった。鈴木のことも、もう気にならなかった。
三島は書類にサインをし、部下に指示を出し、会議に出席した。
全てが、順調だった。
しかし夜、三島はニュースを見た。
『都内で飛び降り自殺 原因不明』
画面には、マンションの屋上から飛び降りた男の遺体が映っている。
三島は画面を見つめた。
男の顔に、見覚えはなかった。
翌日、また同じニュースが流れた。
『都内で飛び降り自殺 二日連続』
三島は不安になった。
しかし、自分とは関係ない。
三島はテレビを消した。
しかし自殺は続いた。
三日後、四日後、五日後。
毎日、誰かが飛び降りている。
場所はバラバラ。年齢も性別も、バラバラ。
しかし全員、「原因不明」だった。
六日後、三島は街を歩いていた。
通行人が、三島を見ている。
いや、睨んでいる。
三島は立ち止まった。
なぜ、睨まれている?
三島は歩き続けた。
しかし、どこに行っても人々が三島を見る。
無意識に、三島を避ける。
まるで、三島が何か悪いものを纏っているかのように。
七日後、ニュースが流れた。
『都内で連続自殺 七人目の犠牲者』
三島は気づいた。
これは、俺のせいだ。
後悔を他人に移した。
その後悔が、彼らを殺している。
三島は再び影喰い横丁を訪れた。
女は、カウンターの奥にいた。
「いらっしゃいませ」
「返してくれ」
三島は叫んだ。
「後悔を、返してくれ」
女は首を傾げた。
「後悔を、返す?」
「そうだ。俺の後悔を、俺に返してくれ」
「なぜですか」
「人が死んでるんだ! 俺の後悔のせいで!」
女は微笑んだ。
「あなたの後悔は、もう七人の人間に分散しました」
三島は息を呑んだ。
「七人?」
「はい。あなたの後悔は七つに分けられ、七人の人間に憑依しました。そして彼らは、あなたの後悔を背負いきれず、自殺しました」
三島は床に手をついた。
「じゃあ、返してくれ。全員から、回収してくれ」
「できますよ」
女は淡々と言った。
「七人から後悔を回収し、あなたに戻します」
三島は顔を上げた。
「本当か」
「ただし」
女は微笑んだ。
「七人分の後悔が、一度にあなたに戻ります」
三島は震えた。
「七人、分?」
「はい。あなたの後悔は、七倍になっています」
三島は立ち上がった。
「それでも、いい。返してくれ」
「本当に?」
女は首を傾げた。
「七倍の後悔を背負えば、あなたは発狂します。あるいは、自殺します」
三島は黙った。
「それでも、返しますか?」
三島は震えた。
しかし、決意は変わらなかった。
「……返してくれ」
三島は叫んだ。
「俺が、背負う。七人分の後悔を、全部背負う」
女の表情が、初めて変わった。
驚き、だろうか。
「……あなたは、耐えるのですね」
「耐える」
三島は答えた。
「これは、俺の罪だ。逃げちゃいけない」
女は棚から七つの瓶を取り出した。
全て、灰色の靄が詰まっている。
女は瓶を三島の前に並べた。
「これが、あなたの後悔です」
三島は瓶を見つめた。
女は一つずつ、瓶を開けた。
灰色の靄が、三島に向かって飛びかかった。
一つ目。
冷たい。
靄は三島の胸に吸い込まれる。
二つ目。
痛い。
三つ目。
苦しい。
四つ目。
息が、できない。
五つ目。
頭が、割れそうだ。
六つ目。
体が、震える。
七つ目。
三島は床に倒れた。
激痛が、三島を襲った。
後悔が、全身を満たす。
鈴木の顔。
鈴木の妻の顔。
鈴木の両親の顔。
そして、見知らぬ七人の顔。
彼らが、三島を見ている。
責めている。
三島は叫んだ。
声にならない叫びが、喉から漏れる。
体が、引き裂かれそうだった。
死にたい。
楽になりたい。
しかし三島は、歯を食いしばった。
耐える。
これは、俺の罪だ。
俺が、背負う。
三島は立ち上がった。
体が、震えている。
涙が、止まらない。
しかし三島は、立っていた。
女は三島を見つめた。
「……あなたは、耐えました」
「ああ」
三島は答えた。
声が、震えている。
「俺は、後悔と共に生きる」
女は黙った。
三島は店を出た。
翌日、三島は会社に行った。
仕事をした。
しかし、後悔が常に三島を苛んだ。
鈴木の顔が、頭に浮かぶ。
七人の顔が、浮かぶ。
三島は涙を流した。
同僚が声をかけてくる。
「三島さん、大丈夫ですか」
「……大丈夫だ」
三島は答えた。
大丈夫じゃない。
しかし、生きる。
後悔と共に、生きる。
夜、ニュースを見た。
連続自殺は、止まっていた。
三島は涙を流した。
一週間後、三島は鈴木の墓を訪れた。
墓前に座り、手を合わせた。
「鈴木、すまなかった」
三島は泣いた。
「俺が、お前を見捨てた」
涙が、止まらない。
「許してくれとは、言わない。でも、俺はこれから、お前の分も生きる」
三島は立ち上がった。
ポケットから、社員証を取り出した。
汚れている。
しかし、捨てない。
これは、俺の罪の証だ。
三島は社員証をポケットに戻した。
影喰い横丁。
お縫は、瓶を眺めていた。
棚に並ぶ無数の小瓶。
お縫は初めて、思った。
人間は、影より強いのかもしれない。
お縫の表情が、わずかに揺らいだ。
三島は、生き続けた。
毎日、後悔に苛まれた。
鈴木の顔が、浮かぶ。
七人の顔が、浮かぶ。
しかし三島は、耐えた。
これが、俺の罪だ。
これが、俺の人生だ。
三島は後悔を、抱きしめて生きた。
(終)
次回:Episode 5「正義の影」
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