第2話 愛されたい影
朝、鏡を見るたび、咲は自分が醜いと思った。
三十四歳。独身。事務職。
顔は平凡で、体型も平凡。髪は癖があり、肌は荒れている。化粧で誤魔化しても、限界がある。
会社では誰も咲を見ない。挨拶しても、目を合わせない。飲み会に誘われることもない。
咲は透明人間だった。
夜、一人でコンビニ弁当を食べる。テレビをつける。画面には美しい女優が映っている。咲はチャンネルを変えた。
なぜ、私はこんなに醜いのか。
咲は鏡を睨んだ。
鏡の中の自分が、睨み返していた。
その夜、咲は街を歩いていた。
理由はなかった。ただ、家にいたくなかった。
気づくと、見知らぬ路地にいた。
石畳の道。提灯が灯り、霧が立ち込めている。古い木造の建物が並び、どこか懐かしい匂いがした。
咲は立ち止まった。
一軒の店が見えた。看板に『影喰い横丁』と書かれている。
咲は引き戸を開けた。
店内は薄暗かった。棚に無数の小瓶が並び、中で黒い靄が蠢いている。
カウンターの奥に、女がいた。
黒い着物を着た、白い顔の女。表情がなく、人形のようだった。
「いらっしゃいませ」
女が言った。
「……ここは、何の店ですか」
「影を扱っています」
「影?」
「人の欲望を、影として売買する店です」
咲は笑おうとした。しかし笑えなかった。女の目が、真剣だった。
「あなたは、愛されたいのでしょう」
咲の息が止まった。
「……なぜ」
「影が教えてくれます」
女は棚から一つの瓶を取り出した。中の黒い靄が、赤く光っている。
「これは、『誰からも愛される魅力』の影です」
「魅力?」
「これを買えば、あなたは誰からも愛されます。男も、女も、あなたを求めるようになります」
咲は瓶を見つめた。赤い光が、彼女の顔を照らしている。
「……いくらですか」
「五十万円です」
「それだけ、ですか」
「影には、元の持ち主の業が憑いています」
「業?」
「それが何かは、買ってからのお楽しみです」
女は微笑まなかった。
咲は財布を取り出した。貯金を全て下ろしてきた。五十万円。
女は現金を受け取り、瓶を開けた。
赤い靄が咲に飛びかかった。
熱かった。
靄は咲の胸に吸い込まれ、全身に広がった。心臓が激しく鼓動する。
咲は床に膝をついた。
「気分はいかがですか」
女が尋ねた。
「……わからない」
咲は立ち上がった。
「本当に、愛されるの?」
「明日になれば、わかります」
女は店の奥に消えた。
咲は店を出た。
翌朝、咲は会社に向かった。
駅のホームで電車を待っていると、隣の男が話しかけてきた。
「あの、よかったらお茶しませんか」
咲は驚いた。
「え?」
「いえ、その、綺麗だなと思って」
咲は断って電車に乗った。しかし車内でも、男たちが咲を見ていた。視線が突き刺さる。
会社に着くと、同僚の女性が声をかけてきた。
「咲さん、今日なんか違いますね。化粧変えました?」
「いえ、何も」
「綺麗ですよ」
咲は戸惑った。
昼休み、三人の男性社員が咲をランチに誘った。咲は断ったが、彼らはしつこく食い下がった。
「お願いします。一度でいいんです」
「咲さんと話したいんです」
咲は逃げるように席を立った。
夕方、退社すると、会社の前に男が待っていた。
「咲さん」
見覚えがあった。営業部の田中だった。
「……田中さん?」
「あの、これ」
田中は花束を差し出した。赤い薔薇だった。
「受け取ってください。ずっと、咲さんのことが好きでした」
咲は花束を受け取った。
「ありがとう、ございます」
「今度、食事に行きませんか」
「……考えさせてください」
咲は逃げるように駅に向かった。
家に帰ると、ポストに手紙が入っていた。
差出人の名前はない。開けると、便箋に几帳面な文字でこう書かれていた。
『咲さんへ。あなたを見た瞬間、運命を感じました。どうか、僕と会ってください』
咲は手紙を捨てた。
部屋に入ると、テーブルに赤い薔薇を置いた。田中から貰った花束。
咲は薔薇を見つめた。
愛されている。
初めて、愛された。
咲は笑った。
しかし翌日、状況は悪化した。
会社に行くと、デスクに花束が山積みになっていた。赤い薔薇、白い百合、黄色いカーネーション。
同僚たちが咲を見ている。
「咲さん、すごいですね」
「誰からですか?」
咲は花束を片付けようとした。しかしカードを見ると、全て違う人物からだった。田中、営業の佐藤、経理の鈴木。
咲の携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。
「もしもし」
「咲さん? 僕です。昨日の、駅の」
「……誰ですか」
「駅で声をかけた者です。どうか、会ってください」
咲は電話を切った。
しかし電話はすぐに鳴った。別の番号。
「咲さん、僕の気持ちを受け取ってください」
咲は電話を切った。
また鳴った。
また、鳴った。
咲は電話の電源を切った。
夜、家に帰ると、玄関の前に男が立っていた。
田中だった。
「咲さん」
「……田中さん、なぜここに」
「住所を調べました。どうしても、話したくて」
咲は震えた。
「帰ってください」
「咲さん、お願いです。僕と付き合ってください」
「無理です」
咲はドアを開けて部屋に入ろうとした。しかし田中が後ろから腕を掴んだ。
「離して!」
「咲さん!」
咲は振り払った。ドアを閉め、鍵をかけた。
田中はドアを叩き続けた。
「咲さん! 開けてください! 咲さん!」
咲は床に座り込んだ。
翌日、咲は会社を休んだ。
しかし家にいても、電話が鳴り続けた。電源を切っても、インターホンが鳴った。
窓の外を見ると、マンションの前に男たちが集まっていた。五人、十人、それ以上。
咲は窓を閉めた。カーテンを引いた。
部屋に閉じこもった。
夜、咲はテーブルの上の薔薇を見た。
薔薇は、腐り始めていた。
花びらが黒ずみ、茎が萎れている。異臭がした。
咲は薔薇を掴み、ゴミ箱に捨てた。
しかし翌朝、テーブルの上に新しい薔薇が置かれていた。
咲は叫んだ。
誰が、部屋に入ったのか。
咲は鍵を確認した。施錠されている。窓も閉まっている。
しかしテーブルには、赤い薔薇が十本、置かれていた。
咲は薔薇を掴み、全て捨てた。
翌日、また薔薇が置かれていた。
今度は二十本。
咲は泣いた。
翌日、三十本。
翌日、五十本。
部屋中が、薔薇で埋まっていた。
全ての薔薇が、腐っていた。
咲は限界だった。
影を、返さなければならない。
咲は夜、部屋を出た。
マンションの前に男たちが待っていた。しかし咲は走った。男たちが追いかけてくる。
「咲さん!」
「待ってください!」
「愛してます!」
咲は路地に逃げ込んだ。
そして、あの店を見つけた。
影喰い横丁。
咲は引き戸を開けた。
お縫が、カウンターの奥にいた。
「いらっしゃいませ」
「返したい!」
咲は叫んだ。
「影を、返したい! もう、愛されなくていい!」
お縫は首を傾げた。
「影は返品できません」
「なぜ!」
「あなたが買ったからです」
咲は床に手をついた。
「お願いします。もう、耐えられない。愛されるのが、怖い」
「では、誰かに売りますか」
咲は顔を上げた。
「売れるの?」
「影は商品です。売ることはできます」
「売ります。誰でもいい。この影を、誰かに」
お縫は微笑んだ。
初めて、笑った。
「この影、もう三人目ですよ」
咲は息を呑んだ。
「三人、目?」
「最初の持ち主は、ホストでした。誰からも愛され、女性たちに囲まれていました。しかし愛が重すぎて、客の一人に刺され、死にました」
お縫は棚から古い新聞記事を取り出した。
見出しに『人気ホスト刺殺事件』と書かれている。
「二人目の持ち主は、女性でした。彼女も影を買い、愛されました。しかし耐えきれず、影を売りました」
「その人は、今?」
「自殺しました」
咲は震えた。
「三人目は、あなたです」
お縫は咲を見つめた。
「影は循環しています。誰かが売れば、誰かが買う。そして誰もが、同じ末路を辿ります」
咲は床に崩れ落ちた。
「じゃあ、私も……」
「売れば、次の誰かが苦しみます。売らなければ、あなたが苦しみます」
「どうすれば、いい」
「諦めることです」
お縫は冷たく言った。
「愛されることを、諦める。あるいは、愛されることに殺される。選択肢は二つです」
咲は顔を覆った。
「でも、売れば……」
「あなたは、楽になります」
お縫の表情が、わずかに揺らいだ。
「それでも、よろしいですか」
咲は迷った。
売れば、楽になる。
しかし、誰かが苦しむ。
咲は震えた。
「……売ります」
お縫は頷いた。
棚から空の瓶を取り出し、咲の胸に当てた。
赤い靄が、咲の体から抽出される。
痛かった。
靄は瓶の中に吸い込まれ、蓋が閉められた。
咲は床に倒れた。
息が、楽になった。
愛が、消えた。
「これで、終わり?」
「はい」
咲は立ち上がった。
心が、軽かった。
「ありがとう」
咲は店を出た。
翌日、咲は会社に行った。
誰も咲を見なかった。
挨拶しても、目を合わせない。
咲は透明人間に戻っていた。
夜、家に帰ると、テーブルには何もなかった。
薔薇は、消えていた。
咲は鏡を見た。
平凡な顔。荒れた肌。癖のある髪。
醜い自分が、そこにいた。
咲は笑った。
愛されなくて、よかった。
咲は泣いた。
愛されなくて、寂しかった。
三日後、咲は再び鏡を見た。
醜い自分が、映っている。
咲は鏡を殴った。
割れた。
破片が床に散らばる。
咲は破片を拾った。
鋭い。
咲は破片を握りしめた。
手から、血が流れる。
一週間後、咲は屋上に立っていた。
マンションの屋上。
風が、吹いている。
咲は柵を越えた。
下を見る。
遠い。
咲は目を閉じた。
愛されたかった。
愛されなくても、生きたかった。
咲は、飛んだ。
翌朝、咲の遺体が発見された。
部屋には、一輪の赤い薔薇が置かれていた。
腐った、薔薇が。
影喰い横丁。
お縫は棚に新しい瓶を並べた。
赤い靄が、瓶の中で蠢いている。
お縫は瓶を見つめた。
表情が、わずかに歪んだ。
悲しみ、だろうか。
それとも、後悔だろうか。
お縫は首を振った。
感情を、押し殺す。
しかし、完全には消えなかった。
お縫は小さく呟いた。
「次は、誰が買うのでしょうね」
声が、震えていた。
(終)
次回:Episode 3「才能の影」
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