影喰い横丁―欲望を売る、闇の取引―
ソコニ
第1話 復讐の影
焼香の煙が、天井に溜まっていた。
桐生慎也は妹の遺影を見つめながら、何も感じていない自分に気づいた。悲しくない。怒りもない。ただ、空虚だった。
遺影の中の桐生美咲は笑っていた。十七歳。高校二年生。三日前、自宅マンションの屋上から飛び降りた。
「お兄様」
叔母が声をかけてきた。
「少し、休まれた方が」
「大丈夫です」
桐生は答えた。声に感情はなかった。
葬儀が終わり、参列者が帰っていく。桐生は一人、斎場に残された。係員が片付けを始める気配がする。立ち上がろうとして、ふと気づいた。
祭壇の花の中に、一枚の紙片が挟まっている。
桐生はそれを抜き取った。便箋だった。几帳面な文字で、こう書かれていた。
『お兄ちゃんへ。ごめんね。もう耐えられなかった』
桐生の手が震えた。
いじめ。
美咲は三ヶ月前から学校を休みがちになっていた。理由を聞いても答えなかった。部屋に閉じこもり、食事も取らなくなった。桐生は仕事で忙しく、深く追求できなかった。
そして三日前、美咲は死んだ。
桐生は便箋を握りしめた。紙が皺になる。
誰だ。
誰が、妹を殺した。
桐生は翌日から動いた。
美咲の同級生に話を聞いた。最初は誰も口を開かなかった。しかし桐生が何度も食い下がると、一人の女子生徒が小さな声で言った。
「……クラスの、男子たちです」
名前を三つ、聞き出した。
田代健吾。宮下竜也。そして、クラスのリーダー格——園田誠。
桐生は彼らを調べた。SNSのアカウント、住所、家族構成。全てを記録した。そして、復讐の方法を考えた。
しかし、何も思いつかなかった。
桐生はただのサラリーマンだ。暴力も、脅迫も、知識がない。法律に訴えようにも、証拠がない。学校は「いじめの事実は確認できなかった」と発表した。
無力だった。
そして一週間が過ぎた夜、桐生は酒に溺れて街を彷徨っていた。
気づくと、見知らぬ路地にいた。
石畳の細い道。両脇に古い木造の建物が並んでいる。提灯が灯り、橙色の光が霧に滲んでいる。
ここは、どこだ。
桐生は引き返そうとした。しかし道が見つからない。霧が濃く、視界が悪い。
仕方なく前に進んだ。
しばらく歩くと、一軒の店が見えた。古びた看板に、こう書かれていた。
『影喰い横丁』
桐生は立ち止まった。店の引き戸が、わずかに開いている。中から、女の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
桐生は戸を開けた。
店内は薄暗かった。棚に、無数の小瓶が並んでいる。瓶の中には黒い靄のようなものが蠢いていた。
カウンターの奥に、女がいた。
三十代に見えた。黒い着物を着ている。髪を結い上げ、白い顔に紅を引いている。表情がない。人形のようだった。
「お困りのようですね」
女が言った。
「……ここは、何の店ですか」
「影を扱っています」
「影?」
「人の欲望、感情、才能。それらを影として抽出し、売買する店です」
桐生は笑おうとした。しかし笑えなかった。女の目が、笑っていなかった。
「あなたは、復讐をしたいのでしょう」
桐生の背筋が凍った。
「……なぜ、それを」
「影が教えてくれます」
女は棚から一つの瓶を取り出した。中の黒い靄が、激しく蠢いている。
「これは、『完璧な復讐計画』の影です。元の持ち主は、もういません」
「元の、持ち主?」
「影を売った人間のことです。彼はこの影を手放し、別の人生を選びました」
女は瓶を桐生の前に置いた。
「これを買えば、あなたは完璧な復讐を実行できます。相手の弱点、追い詰め方、証拠の残さない方法。全てが、瞬時に頭に浮かびます」
桐生は瓶を見つめた。黒い靄が、彼を見返しているようだった。
「……いくらですか」
「三十万円です」
「金だけ、ですか」
女は首を傾げた。
「影には、元の持ち主の業が憑いています。それも、お支払いの一部です」
「業?」
「それが何かは、買ってからのお楽しみです」
女は笑わなかった。
桐生は財布を取り出した。クレジットカードを差し出す。
「現金のみです」
「……待ってください」
桐生は店を出て、近くのATMを探した。しかし、どこにもなかった。霧の中を彷徨い、ようやく一台見つけた。三十万円を引き出し、店に戻った。
女は動いていなかった。まるで、桐生が戻ってくることを確信していたかのように。
桐生は現金を渡した。女は無言で受け取り、瓶を開けた。
黒い靄が桐生に向かって飛びかかった。
桐生は叫ぼうとした。しかし靄は口から侵入し、喉を、胸を、腹を通って全身に広がった。
熱かった。
頭の中に、無数の映像が流れ込んだ。
田代健吾の顔。宮下竜也の顔。園田誠の顔。
彼らの弱点。家族構成。行動パターン。SNSのパスワード。隠している秘密。
そして、追い詰める方法。
桐生は膝をついた。吐き気がする。しかし同時に、興奮していた。
「気分はいかがですか」
女が尋ねた。
「……最高だ」
桐生は笑った。
翌日、桐生は田代健吾から始めた。
田代は美咲のカバンを隠し、教科書を破り、SNSで誹謗中傷を繰り返していた。しかし田代自身にも秘密があった。
万引きの常習犯だった。
桐生は田代の行動を監視した。そして彼がコンビニで商品を盗む瞬間を、スマートフォンで撮影した。映像を田代に送りつけ、こう書いた。
『警察に通報されたくなければ、美咲に謝罪しろ。墓前で、土下座しろ』
田代は従った。
桐生は墓地で待ち構えていた。田代が現れ、墓前で土下座する。涙を流し、謝罪する。
桐生は撮影した。そして映像をSNSにアップロードした。田代の顔も、名前も、全て晒した。
炎上した。
田代は学校に来なくなった。
桐生は、満足した。
次は宮下竜也だった。
宮下は美咲を「ブス」と呼び、クラス全員の前で笑い者にしていた。しかし宮下の父親は暴力団と繋がりがあった。
桐生はそれを利用した。
宮下の父親が経営する会社の不正を、匿名で税務署に通報した。会社は家宅捜索を受け、父親は逮捕された。
宮下は荒れた。学校で暴れ、停学処分を受けた。
桐生は笑った。
そして最後は、園田誠だった。
園田はいじめの首謀者だった。美咲を孤立させ、クラス全員に無視させた。美咲が助けを求めても、誰も手を差し伸べなかった。
園田の弱点は、母親だった。
母親は地元で教育委員を務めていた。息子のいじめが発覚すれば、立場を失う。
桐生は証拠を集めた。美咲のクラスメートから証言を取り、録音した。そして匿名で教育委員会に送りつけた。
園田の母親は辞任した。
園田は転校した。
桐生は、勝った。
復讐は、完璧だった。
しかし桐生は、やめられなかった。
田代、宮下、園田。三人を追い詰めた後も、桐生の中で何かが蠢いていた。
もっと。
もっと、苦しめたい。
桐生は彼らの家族も調べ始めた。田代の母親、宮下の妹、園田の父親。彼らにも、弱点がある。
桐生は笑った。
楽しかった。
復讐は、こんなにも甘美なのか。
夜、桐生は鏡を見た。
自分の目が、光っている気がした。
黒く、冷たく。
ある夜、桐生は再び影喰い横丁を訪れた。
女——お縫は、カウンターの奥で桐生を待っていた。
「いらっしゃいませ」
「……これを、返したい」
桐生は言った。
「影を、返したい。もう、やめられないんだ」
お縫は首を傾げた。
「影は返品できません」
「なぜだ!」
「あなたが買ったからです。影は、もうあなたの一部です」
桐生は震えた。
「俺は、妹の仇を討ちたかっただけだ。こんな、こんなことまで……」
「影の元の持ち主を、教えましょうか」
お縫は棚から古い新聞記事を取り出した。桐生に見せる。
見出しにこう書かれていた。
『連続殺人犯、死刑執行』
記事には男の写真が載っていた。無表情の、冷たい目をした男。
「彼は十三人を殺しました。理由は、『楽しかったから』」
桐生は新聞を叩き落とした。
「俺は、そんなやつの影を……」
「あなたが選んだのです」
お縫は淡々と言った。
「復讐を望んだのは、あなた。影を買ったのも、あなた。そして影に支配されているのも、あなた」
桐生は床に座り込んだ。
「どうすれば、いい」
「諦めることです」
「諦める?」
「影と共に生きる。あるいは、影に殺される。選択肢は二つです」
桐生は顔を覆った。
翌日、桐生は妹の部屋を片付けていた。
遺品を整理し、段ボールに詰める。制服、教科書、ノート。
そして、引き出しの奥に、もう一通の封筒を見つけた。
桐生は封筒を開けた。中に便箋が入っていた。
『お兄ちゃんへ。
ごめんね。もう耐えられなかった。
でも、いじめられてたわけじゃないの。
ただ、お兄ちゃんに迷惑かけたくなかっただけ。
お兄ちゃんは仕事で忙しいのに、私のことで悩ませたくなかった。
私、お兄ちゃんの足を引っ張ってばかりだから。
成績も悪いし、友達も少ないし、何もできない。
お兄ちゃんがいつも疲れた顔してるのを見ると、私のせいだって思っちゃう。
だから、消えることにした。
そうすれば、お兄ちゃんは楽になれるから。
お兄ちゃん、ありがとう。
大好きだよ。
美咲』
桐生の手から、便箋が落ちた。
いじめ、ではなかった。
美咲は、兄を思って死んだ。
桐生は床に崩れ落ちた。
声にならない叫びが、喉から漏れた。
田代も、宮下も、園田も。
誰も、悪くなかった。
いや、悪かったかもしれない。
しかし、妹を殺したのは彼らではなかった。
桐生は顔を覆った。
復讐の理由が、崩壊した。
桐生は再び影喰い横丁を訪れた。
お縫は、いつものようにカウンターの奥にいた。
「返したい」
桐生は言った。
「影を、返してくれ。俺の復讐は、間違っていた」
「返品はできません」
「頼む! 田代も、宮下も、園田も、妹を殺してなんかいなかったんだ!」
「彼らはいじめをしていました」
「でも、妹は彼らのせいで死んだわけじゃない!」
お縫は無言だった。
桐生は床に手をついた。
「頼む。元に戻してくれ」
「影は、もうあなたの一部です」
お縫は冷たく言った。
「復讐の快楽も、殺意も、全てあなたのものです。影を買う前から、あなたの中にあったものです。影は、それを引き出しただけです」
桐生は顔を上げた。
「違う。俺は、こんなやつじゃ……」
「では、なぜ影を買ったのですか」
桐生は答えられなかった。
お縫は立ち上がり、桐生の前に来た。
「影は、嘘をつきません。あなたが望んだから、影はあなたに力を与えた。それだけです」
桐生は震えた。
お縫は店の奥に消えた。
桐生は一人、店に残された。
桐生は店を出た。
霧が晴れ、街の明かりが見えた。
桐生は歩いた。
田代の家の前を通りかかった。窓から灯りが漏れている。田代は、まだ生きている。
宮下の家も同じだった。
園田の家も。
彼らは生きている。
しかし、壊れている。
桐生が、壊した。
桐生は笑った。
そして、泣いた。
影は、もう彼の一部だった。
(終)
次回:Episode 2「愛されたい影」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます