第2章 白楼黎明編
第15話 繋がれた命の先に
医療テントの中。
薄い布越しに差し込む朝の光が、ぼんやりと揺れていた。
簡易ベッドの上で、海莉は朦朧とした瞳を宙に向けていた。
右腕には焦げ跡のような傷が残り、ところどころが黒ずんでいる。
透子は静かにその腕へ手を翳す。
掌から伸びた細い光の糸が、焼けた神経をゆっくりと縫い合わせていく。
それは癒しではなく、繋ぎ止めるための処置だった。
「……時間がかかりそうね。海莉、意識ある?」
呼びかけに、海莉はわずかに頷く。
医療テントに運ばれるまでの間、何度も気を失いかけた。
蓮に背負われてここへ来たことも、うっすらとした記憶でしかない。
衝裂を酷使した代償。
右腕の感覚は完全に失われ、体力も底を尽きていた。
だが、彼を最も蝕んでいたのは、肉体ではなく心だった。
「……俺が……駿をやった……」
掠れた声が、吐息のように漏れる。
その言葉に、透子は手を止めなかった。
「正しい判断よ。リーダーとして、みんなを守ったの」
言葉は優しく、それでいて鋭かった。
透子の異能、“綴命”で肉体を繋ぐように、彼女の声は海莉の身体と心を繋ごうとしていた。
「……何で黙ってたんだよ」
蓮は、医療棚をカタンと音を立てて閉めた。
その声は、低く震えている。
「蓮」
透子が制するように、名を鋭く呼ぶ。
しかし蓮は首を振り、押し殺すように言葉を続けた。
「違う、海莉を責めてんじゃない。……でも、俺も知ってたら何か出来たかもしれない。駿さんを延命させることは」
「延命させちゃいけないのよ」
冷ややかに、しかし真っ直ぐに割り込んだのは静音だった。
ブーツの音が床を叩き、彼女は一歩前へ出る。
「駿が生きてたら、侵食はもっと進んでた。完全な影喰いになって、もう誰も止められなかったの」
その声は、感情を抑えた分だけ痛みを含んでいた。
「……今回の判断ですら、遅いくらいだった」
静音はそう言いながらも、海莉を一瞥する。
その目は非難ではなく、ただ現実を突きつける冷静さを宿していた。
「リーダーの判断がなければ、ここにいる全員がいなくなってた」
蓮の拳が震える。
何も返せないまま、ただ唇を噛む音だけが小さく響いた。
透子はそんな彼を見つめながら、低く呟く。
「……繋ぐだけじゃ、生きていけないの。時には、切ることも必要になる」
その言葉に、誰も続けなかった。
医療テントの外で、風が布を揺らす音だけが響いていた。
「……それでも、俺は助けたかった」
蓮がぽつりと呟く。
その声は震え、どこか子供のように頼りなかった。
透子は小さく息を吐き、静音が苛立ちを押し殺すように舌打ちをした。
「助けたのよ。海莉がね」
透子の声は静かで、どこか祈るようでもあった。
命を繋ぐ者としての言葉。
生と死の境界を踏み越えてきた者だけが持つ、重たく柔らかな響きだった。
静音は壁にもたれながら、低く呟く。
「助けるっていう定義、そろそろ変えなきゃいけないのかもね」
蓮は顔を上げられず、拳を握ったまま沈黙する。
海莉はそれを横目で見ながら、かすかに唇を動かした。
「……俺がやった。だから、俺が背負う」
その声には迷いがなかった。
透子が目を伏せ、静音が背を向ける。
「一人で戦うなって言ってんでしょ。あたしたちだって、ただ守られるだけの存在じゃない」
「……ああ。じゃあ、頼んでいいか」
掠れた声で海莉は、視線だけを動かす。
「動かなくても聞いてる」
ふんと鼻を鳴らし、静音は腕を組んで振り返った。
「駿の影喰い……あれ、普通じゃねぇ。知恵があるし、強い」
海莉の声には、確信めいた重みがあった。
実際にぶつかった者にしか分からない“違和感”がそこにある。
「反応が速すぎた。……考えて動いてた。あれは、ただの本能じゃない」
透子がわずかに顔を上げる。
「……駿の意識が、残ってたってこと?」
「いや、そういう感じでもねぇ。――意志がある、って言えばいいのか」
海莉は天幕の天井を見上げた。
あの夜、影が自分の呼吸に合わせて動いた光景を思い出す。
「戦ってて、俺の出方を読んでた気がする」
静音の表情が曇る。
透子は唇を噛み、わずかに息を詰めた。
「侵食が、思考にまで及んでる……?」
「多分な……。駿の能力も、記憶も、影が利用してる。あれはもう、影喰いって呼んでいいのかも分からねぇ」
沈黙が落ちた。
「駿みたいな奴が出たら、夜に隠れても見つかる」
外の風がテントを揺らし、布の端が微かに鳴る。
「……だったら、あたしたち全員で当たるしかないわね」
静音が低く呟く。
その声には、恐怖よりも覚悟の色が濃かった。
「……待て。俺が、ちゃんと……!」
海莉は上体を起こそうとした。
だが、焼けた神経が悲鳴を上げ、右腕の奥から電撃のような痛みが走る。
「っ……ぐ……!」
息が詰まり、視界が滲む。
布団の皺を掴む指が白くなるほど力を込めても、身体は言うことを聞かなかった。
「ほら、動かない」
透子の声が、穏やかでありながら鋭い。
彼女は治療の手を止めずに、海莉の肩を押さえた。
「今、立ち上がっても戦えない。……それでも、戦う気なら、せめて生きてから」
静音は黙っていたが、その横顔には確かな怒りと焦りが交じっていた。
彼女は腕を組んだまま、吐き捨てるように言う。
「あんたが倒れたら、白楼は終わりよ」
その一言に、海莉の動きが止まった。
布の上で拳を握りしめ、歯を噛み締める。
(……分かってる。分かってるけど……)
言葉にならない悔しさだけが喉に残る。
「……ま、元気になってもらわないとな」
蓮は椅子を引き寄せると、無造作に自分の指先へメスを当てた。
刃が皮膚を裂き、赤い血が滲む。
「蓮、それは――」
透子が止めようとするより早く、彼は海莉の腕へ手を伸ばす。
流れた血が、海莉の焼けた皮膚に落ち、ゆっくりと吸い込まれていった。
「異能持ってんのは、お前だけじゃない。俺の“循環”だって、多少は役に立つ」
その声は震えていたが、確かな意志があった。
「治せなくても……命の時間稼ぎくらいは出来るんだよ」
血が混ざった箇所から、微かな熱が伝わる。
冷え切っていた海莉の右腕に、じんわりと温もりが戻り始めた。
その様子を見て、透子は目を細める。
「……自己循環異能の直接供給ね。無茶するのは、海莉だけで十分なのに」
「俺の血がまだ流れてんのに、使わねぇのはもったいないだろ。出来ることやらねぇと駿さんに面目立たねぇ」
蓮は冗談めかして笑う。
だが、その顔色はすでに少し青白い。
海莉は声にならない息を吐き、目を開けた。
「……馬鹿かよ。そんな無茶な真似して……」
「お前に言われたくねぇし」
蓮は笑いながら、指先を抑える。
血が止まるよりも早く、彼の循環異能が自己修復を始めた。
透子が、肩を落として軽く息をつく。
「……ほんと、似た者同士ね」
その言葉に、海莉もわずかに口の端を上げた。
***
静音は黙っていた。
医療テントを離れ、外の陽光を見上げる。
風が流れ、朝靄の向こうで崩れたビルの影が歪んでいた。
彼女はポケットから煙草とライターを取り出し、カチリと火をつける。
白い煙が風に流れ、薄い空へ消えていった。
(……侵食型の影喰い。対策は後で考えるとして、今の問題は……海莉ね)
ふぅ、と息を吐く。
(……聞いたことがある。因課本部所属、浅葱海莉。対侵食異能の特別管理対象)
視線を医療テントに向ける。
「衝裂は攻撃じゃない。生理的な拒絶の反射反応。……詳しいことは、本人に聞かないとね」
静音は煙を吐き切り、指先で灰を落とした。
風に流される煙は、まるで白楼の空そのもののように薄く消えていく。
(この街も、あの男も、簡単には終わらせない……)
最後のひと口を吸い、火を指で弾いて消すと、冷えた金属の感触が掌に残る。
「……あんたの中にある《拒絶》が、本当に守るための力なら――」
言葉の続きを、風の音が遮った。
静音はライターをポケットに戻し、背を向ける。
駿が消えた白楼で、新たな戦いが始まる。
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