第9話 灰の朝

 陽が暮れる頃、海莉と駿は倉庫に戻った。

 朝に出発した男たちの姿が、いくつか見当たらない。


「……まだ、陽落ちてないよな」


 海莉の問いに、誰も答えなかった。

 倉庫の中を、重たい沈黙が満たす。

 風の音も、器の音もない。

 ただ、乾いた土の匂いだけが漂っていた。


 駿が周囲を見回し、表情を強張らせた。


「……何があった」


 声は低く、抑えられていた。

 だが、誰も目を合わせようとしない。


 一人の男が、ようやく震える唇を開いた。


「……帰ってこねぇんだ。北側の区画を調べに行った連中が」


「陽が沈む前に引き上げる約束だったんじゃないのか」


「通信も繋がらねぇ。あそこは……影が濃いんだ。昼間でも、光が薄い」


 その言葉に、海莉は奥歯を噛んだ。

 冷たい空気が背筋を撫でる。


(昼間でも光が薄い……?)


 児童館のあの空気が、頭を過る。

 あの場所も、陽が高いはずなのに夕方のように薄暗かった。


「探しに行く」


 海莉の声に、俯いていた男の一人が顔を上げた。


「夜に出るのは自殺行為だ。今は待つしかねぇ」


「わかってる。だから朝だ」


 それ以上、誰も反論しなかった。

 駿は黙って壁にもたれかかり、毛布を肩まで巻き上げる。


「……は?」


 ふと、海莉の視界に違和感が走った。

 毛布を整えていた駿の指先……そこだけが薄く黒ずんでいる。


「おい、駿……」


 海莉が声をかけかけた、その瞬間。


 倉庫の灯りが、ふっと消えた。

 静寂が落ち、空気がわずかに冷たくなる。


 闇の中、駿の寝息がかすかに響いた。

 それは穏やかに聞こえるはずなのに、どこか震えるような掠れた音で不規則だった。


 まるで――寒さを堪えるように。


***


 寝静まっている中で、海莉は目を覚ました。

 倉庫の壁から、わずかな隙間風が吹き込んでいる。


(……夜明けか)


 周囲はまだ薄暗く、誰も起きていない。

 聞こえるのは、風の音だけ。


 海莉は、身体を起こした。

 息が白い。倉庫の中が、妙に冷えている。


(今日、戻って来ない奴ら探さないとな。無事だといいけど……。何人かで行った方がいいか)


 視線を巡らせると、毛布の列。違和感を感じて立ち上がると、いくつも膨らみのない箇所があった。


「……?」


 喉の奥が乾く。

 海莉は足音を殺して、そっと一枚の毛布に手を伸ばした。

 布をめくる。


「……っ!」


 思わず息を呑む。


 毛布の下には、誰もいなかった。

 そこにあったのは、人の形をかすかに残した灰。

 黒ずんだ粉が、静かに散らばってる。


 かすかに風が入り、灰がふわりと舞い上がった。

 それは、夜明けの光に照らされて――まるで煙のように、跡形もなく溶けていった。


「……まさか……!」


 海莉は駆け寄り、次の毛布をめくった。

 そして、さらにもう一枚。


 その下にも、人影はない。

 残っているのは、黒ずんだ灰だけ。

 いくつも、いくつも。次も、その次も。


 海莉の指先が震える。

 呼吸が浅くなり、喉が焼けるように乾く。


「……嘘だ……嘘だろ……!」


 声は掠れ、誰にも届かない。

 夜明けの光だけが、静かに灰を照らしている。


 勢いよく振り返り、海莉は駿の毛布を剥ぎ取った。


「駿っ!!」


 叫ぶ声に、駿が目を擦りながら上体を起こす。

 寝ぼけたような声が返ってきた。


「あ? なんだよ海莉。まだ起きるには早――」


「そんな悠長なこと言ってられねぇ! 大変なことが……!」


 言いかけた海莉の喉が、音を失った。


「駿……?」


 駿の手首に、黒い蔦のようなものが絡みついていた。

 脈をなぞるように浮かび上がったそれは、まるで血管が黒く変色したかのようだった。


 海莉が息を呑んだその瞬間。

 黒い筋は、ゆっくりと肌の下へ沈み込み、跡形もなく消えた。


「……今の、見えたか?」


 海莉の問いに、駿はきょとんとした顔で首を傾げる。


「は? 何が?」


 その無邪気な声が、逆に恐ろしかった。

 見間違いであってほしい。

 だが、海莉の胸の奥には、もう確信に近いざらつきが残っていた。


(……感染してる、のか。けど、まだ……)


 朝の光が、ゆっくりと駿の頬を照らす。

 その肌の下で、ほんの一瞬だけ――影が蠢いた気がした。


「それより、どうしたんだよ。顔、真っ青だ――」


 駿が途中で言葉を止めた。

 毛布が乱れているのに気づき、向こうにあった空間は、どこか不自然に空いている。


「あれ……あいつらは? まだ探索には早いだろ」


 海莉は俯いた。

 握りしめた拳が、震えている。


 言葉にすれば、すべてが現実になってしまう気がして出そうと思う言葉が出ず、口が渇く。

 喉が焼けるように痛むのに、何も言えない。


 駿が眉をひそめ、海莉の肩に手を置く。


「……なあ、どうした」


 その手が、少しだけ冷たい。

 海莉はわずかに顔を上げ、震える声で呟いた。


「……いねぇんだよ。みんな、灰になってて……消えた」


 沈黙。


 駿の瞳が、わずかに揺れた。

 口角を引き攣らせ、それでも笑った。


「……そうか。じゃあ、俺たちが生き残りだな」


 外では、朝の光が白楼の瓦礫を照らしていた。

 陽が昇っているのにもかかわらず、空気は冷たかった。

 まるで街そのものが息をすることを忘れてしまったかのようで、苦しい。


 光は灰を照らし、灰は風に舞う。

 誰かの名残が、粉になって空へ溶けていく。

 それは静かで、美しくさえあった。

 だが海莉の胸の奥では、何かがずっと軋んでいた。


 その冷たさが、皮膚の下まで染みていく。

 掌を見れば、包帯の隙間から覗く指が少し震えていた。

 恐怖しているのか、自分でも分からなかった。


 駿は何も言わずに、瓦礫の上に腰を下ろした。

 朝の光が彼の肩を撫でる。

 その影がゆっくりと伸び、揺れ、また形を変える。

 海莉はその影から目を逸らせなかった。


「……ほんとに、生き残ってんの……俺たちだけか?」


 小さな声だった。

 それは問いというより、祈りに近かった。


 駿は答えず、ただ遠くの空を見上げていた。

 朝の光は何も言わない。

 風が吹くたび、空は少しずつ明るくなっていく。


 しかし、その明るさが少しも暖かく感じられなかった。

 ただ冷たい光が、静かに二人を包んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る