第8話 冷たい光

 児童館の奥に向かうと、そこは保育室だった。


 壁には、子供たちが描いた絵や文字が並んでいる。

 陽の下で働く大人たち。炊き出しをする女性たち。

 誰もが笑っていた。

 絵の中は、昼を描く優しい世界だった。


 床にも何枚か、剥がれ落ちた絵が散らばっている。

 色褪せた紙の端に、小さな手形。

 そのひとつを、海莉は何気なく拾い上げた。


「え……?」


 そこに描かれていたのは、他の絵とは違った。


【くろいひとが せんせいを たべた】


 乱れた文字。

 クレヨンの黒が、紙の上を削るように塗り重ねられている。

 泣いている女の人のそばに、黒い人型の何か。

 輪郭も曖昧なまま、歯だけが強く描かれていた。


「……これ」


 海莉の声が、かすれた。

 空気が急に重くなる。

 保育室の空気が、どんよりと少しだけ暗く見えた。


 駿が隣で、その絵を覗き込む。


「……子供が、見たのか」


 誰も答えられなかった。

 壁の上では、まだ笑っている絵がこちらを見つめている。

 その対比が、かえって残酷だった。


 壁に貼られた絵をもう一度見渡して、海莉は静かに息を吐いた。

 色褪せたクレヨンの線が、どこまでも無邪気で、どこまでも遠かった。


「……なぁ、海莉」


 駿が呟いた。

 腕を擦りながら、少し首をすくめる。


「此処、寒くないか?」


「は? いや、別に……」


 海莉が眉を寄せる。

 まだ午前中だ。

 薄気味悪い空気を纏っても、陽が差し込む窓際では、埃が光の粒になって漂っている。


 恐ろしい光景に冷や汗は掻いたとしても、寒さは感じなかった。


「そっか……俺だけか」


 駿は、小さく笑ってみせた。

 しかし、その笑みはどこか硬い。

 首筋の汗が一滴、床に落ちる。


 静まり返った保育室の中、風もないのにカーテンがわずかに揺れた。

 海莉は無意識にライトを持ち直す。


「外、見てくるわ」


 駿はそう言い残し、保育室の奥へ歩き出した。

 その背を見送りながら、海莉は胸の奥に、言葉にならないざらつきを覚えた。


「おい、一人で行くな!」


 慌てて海莉は駿を追いかける。

 床に散らばった紙を踏み越え、崩れた棚を避けながら進む。


 だが、駿の姿はすぐには見えなかった。

 廊下の先は薄暗く、風の音さえ聞こえない。

 まるで、音そのものが吸い取られたような静寂。


「……駿?」


 返事はない。

 そのかわり、かすかに何かが擦れる音がした。

 遠く、奥の教室の扉が、ほんのわずかに揺れている。


 光の筋が、扉の隙間をなぞった。

 海莉は息を詰め、そっと右腕を構えた。


(……まさか、また?)


 掌の奥で、微かに衝裂の光が滲む。

 けれど引き金を引くには早すぎる。

 駿がそこにいるかもしれない。


「おい、駿。そこにいるのか?」


 扉の向こうから、足音が近づいてくる。

 一定のリズム。重すぎず、軽すぎず。

 いつもの駿の歩き方だ。


「どうした? そんな顔して」


 駿が扉を開け、ひょいと顔を出す。

 表情も声も、普段と変わらない。

 けれど、海莉の胸の奥に残るざらつきは消えなかった。


「……外、どうだった」


「何もいねぇよ。ただ風が吹いただけだ」


 駿はそう言って笑い、埃を払うように肩を叩いた。

 だが、その手の動きがほんの少し遅い。

 まるで動作のテンポが、半拍ずれているようだった。


「お前、汗かいてるぞ。大丈夫か?」


「ん……? ああ。ちょっと寒いだけだ。汗で冷えたのかもな」


 海莉は息を呑んだ。


 寒い。


 さっきも聞いた言葉だった。


 駿は気づかないまま、足元の埃を軽く蹴る。

 それが光を弾き、ふわりと宙に舞った。


 陽はまだ高い。

 なのに、部屋の温度だけが一段階下がった気がした。


「……ほんとに、何もなかったんだよな?」


「何度も言わせんなよ。心配しすぎだって」


 駿は、廊下に飾られた壁際の絵を見遣る。

 クレヨンで描かれた笑っている白楼の住人。

 その前に立つ彼の影が、ほんの一瞬だけ保育室で見た絵の中の黒い存在と重なった気がした。


(落ち着け……。もう此処にはいないはずだろ)


 胸のざらつきを理性で押さえ込み、海莉は呼吸を整える。

 足元の影が自分の動きに遅れてついてくるように見えても、気のせいだと言い聞かせるしかなかった。


 海莉は立ち上がり、出口へ向かう。


「一応、此処危なかったし……医療テント行くぞ。危険ってだけで収穫はあったろ」


 駿は肩をすくめ、笑ってみせる。


「いやいや、大袈裟だろ。どこも怪我なんてしてねぇし」


「いいから」


 海莉は駿の腕を掴もうとした。

 だが、その手はするりと避けられる。


「分かった、分かったって。連行されなくたって行くよ」


 駿が仕方ないとでもいうように苦笑いを浮かべる。

 その笑みはいつも通りに見えた。

 ただ、駿の瞳の奥の焦点が、どこか遠くを見ているように見えた海莉は、言葉を失った。


「……お前、ほんとに大丈夫なんだな?」


「しつこいな。平気だって」


 そう言って駿は歩き出す。

 光の差す入り口を通るとき、彼の影が床に溶けるように薄く伸びた。


 海莉は、その背を追った。

 胸の奥のざらつきだけが、今も微かに残っている。


***


 医療テントに戻ると、透子がカルテを確認していた。

 薄い光が布越しに差し込み、白い帳のように室内を満たしている。


「怪我でもしたの?」


 透子が顔を上げると、海莉と駿が並んで立っていた。

 海莉は腕を組み、駿を顎で示す。


「児童館で影喰いと鉢合わせした。見た目は無傷だが、診てやってくれ」


「おいおい、ちょっと脅かされただけだって。俺は健康が取り柄なんだぞ」


 軽口を叩く駿に、透子は無言で近づく。

 体温を測り、瞳孔を覗き、腕を軽く押して反応を見る。


「……うん。外傷も異常もなし」


「だろ? 海莉がうるせぇんだよな」


 駿が笑い、海莉を見る。

 その笑みはいつも通りのように見えた。


 だが、透子の手がほんの一瞬だけ止まった。

 駿の皮膚に触れた指先が、わずかに冷たい。


「……少し、体温が低いわね」


「朝方だったからだろ。俺、寒がりだし」


「そう。念のため少し休んで」


 透子は記録用紙に軽くメモを書き込む。

 そこには《異常なし》の文字。


「はいはい。まだ動けるってのに」


 駿は軽く手を振りながら、ベッドの縁に腰を下ろした。

 透子は、駿に乱暴に毛布を投げる。


「風邪なんて、しょうもないものにかからないようにね。身体が冷えるのは体調不良の前兆」


 透子は、棚の備品を整理しながら言い放ち、カイロを駿に握らせる。


「え、やりすぎだろ。大丈夫だって」


「念の為って言葉、知ってる?」


「大丈夫だって。なあ、海莉もそう思わないか? 普通に元気なんだぞ」


 海莉は納得しかねたように眉をひそめる。


「……あの児童館の空気、明らかにおかしかった。見えない何かが残ってる気がする」


「考えすぎだ。俺たち、まだ生きてる。それが答えだろ」


 駿は笑い、近くに座っていた海莉の肩を叩く。

 その掌の温度……カイロで温めているはずなのに、少し冷たい。


「……まぁ、しばらく休め。再度探索する時間もないだろうし、張り詰めてると疲れるだろ」


「優しいなぁ、公務員殿は」


 駿が冗談めかすと、海莉は呆れたように溜息を吐いた。


 テントの外、陽が差し込む地面。

 駿が通り過ぎた足跡だけが、うっすらと黒く滲んでいた。

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