第6話 陽の粒子が舞う朝

 送られた補給物資を、海莉や住人たちが仕分けしていた。

 缶詰、乾パン、水袋、医薬品。

 ひとつひとつを手に取るたび、金属の音が明るく響く。


「食料品は……缶詰多いな。まあ、安牌か。……うわ、これ高いやつだろ」


 笑い混じりに言う海莉の声に、作業していた人々の表情が少しだけ和らぐ。

 白楼に漂っていた重苦しさが、ほんの少しだけ薄れた瞬間だった。


 その時、足音が近づく。

 振り返ると、身体の大きな男たちが立っていた。

 彼らはためらいながらも、ゆっくりと頭を下げる。


「……すまなかった。お前のこと、信じてやれなくて」


「子供を助けるために一晩中、戦ってたって聞いてさ。流石に、同情だけで影喰いと戦う奴はいねぇと思って……」


 彼らの視線が、包帯で巻かれた海莉の右腕と、近くの医療テントを往復する。


「因課ってだけで敵視してた。……悪かった」


 海莉は一瞬ぽかんとした顔をして、それから吹き出した。


「何言ってんだよ。放っておけなかっただけだ。それに……因課も、見捨てたくて見捨てたわけじゃない」


 海莉は背後の空を見上げ、朝日に照らされた金属箱を指さす。


「その証拠に、ほら。ちゃんと、補給が来ただろ?」


 男たちは顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。

 その笑いが伝染するように、周囲の空気が少しずつ柔らかくなっていく。


「謝ってる暇があったら、手ぇ動かせよ。仲間って思われただけで、俺は十分だ」


 海莉が口元を緩めると、男たちは互いに頷き合いながら作業へ戻っていった。

 ぎこちなかった足取りが、どこか軽く見える。


「よっ、仲直りできたみたいで良かったな」


 声をかけながら、駿が海莉の隣に腰を下ろす。

 彼の手には、仕分け途中の乾パンの箱。


「缶詰の数、合ってるか確認しとけ。腹が減ったら判断も鈍る」


「やってんだろ」


「お、ほんとだ。へぇ、手際いいな」


 そう言って笑う駿の横顔に、海莉も小さく笑った。


「こういうのは得意分野だ。書類整理と一緒。……俺、公務員だから」


「一晩中、影喰いと戦う公務員なんて聞いたことねぇわ」


 駿の言葉に、海莉が肩をすくめる。


「いいだろ、そんなやつがいたって」


 二人の笑い声が、崩れた街の片隅に静かに広がっていった。


 簡易テントの方から、足音が近づいてきた。

 透子が姿を見せる。

 彼女の顔は、いつもよりわずかに強張っていた。


「二人とも、来て」


 短く、それだけ言って踵を返す。

 海莉と駿は思わず顔を見合わせた。

 冗談を挟む余裕もなく、互いに小さく頷くと、透子の後を追った。


***


 透子が案内したのは、簡易テントの奥にあるひとつのベッドだった。

 その上に横たわっていたのは――先日、海莉が救い出した子供。


 白い包帯の下、黒ずんだ腕の影がゆっくりと広がっている。

 侵食は肩を越え、胸のあたりまで達していた。


「……なん、だよ、これ」


 思わず声が掠れる。

 子供の呼吸は、妙に落ち着いていた。

 それが逆に、不安を煽る。


 静かすぎる。

 まるで、身体の中で何か別のものが息をしているみたいに。


 駿が息を呑む。


「影喰いは……消えたんじゃなかったのか?」


 問いというより、祈りに近かった。


「夜が明けたんだぞ。全部、陽の光で焼けたはずだろ……!」


 声が震える。

 透子は首を横に振り、ベッドの上の子供を見つめた。


「焼けたのは、外の影だけ。……でも、この子の中には、まだ残ってる」


「残ってる?」


「ええ。形を変えて、息をしてる。まるで、影そのものが生き物みたいに」


 海莉は拳を握りしめた。

 包帯の下の右腕が、微かに疼く。


「……俺が、助けるの……遅かったんだな」


 その声は、吐息のように弱かった。


「海莉は悪くない。お前がいなかったら、この子はもういなくなってる」


 慰めとも違う、掠れた駿の声が耳に残る。

 それでも、海莉は顔を上げなかった。


 子供の胸が、かすかに上下を繰り返している。

 その穏やかな呼吸の下で、何かが静かに蠢いているかのように。


 そこで、子供の瞼がゆっくりと開いた。


「あれ……? 身体、動かない」


 掠れた声。

 目だけで海莉たちを追おうとするが、

 半身を蝕まれているせいで、視線もほとんど動かせない。


「ねぇ、僕……もしかして、死んじゃうの?」


 誰も答えなかった。

 下手に慰めれば、ただの嘘になる。

 海莉は歯を食いしばり、拳を膝の上で握りしめる。


「えへへ……でも、すぐ消えなくて良かった。いつまで生きられるかな」


 その笑顔は、痛いほどに穏やかだった。

 まるで、自分の死を他人事みたいに受け入れている。


 それが、白楼の現実なのだと海莉は思い知った。


「悪い。俺がもっと早ければ……」


 海莉の声は掠れていた。


「なんで謝るの? 海莉がいなかったら、こうやってお話できなかったから、嬉しいよ」


 精一杯の笑顔。

 その笑顔が、刃よりも鋭く胸に刺さる。


「……お前、名前は?」


 その言葉に、透子と駿が息を呑む。

 死を目前にした者へ名前を尋ねるなど、正気の沙汰ではない。

 だが、海莉の声には揺らぎがなかった。


陽生ひなりだよ。覚えててくれる?」


「当たり前だろ。……いい名前だな、陽生」


 少年は目を細めて、小さく頷いた。


「じゃあ、約束だね。僕のこと、忘れないでね」


 それだけ言うと、彼の瞼が静かに閉じた。

 眠るような穏やかさだった。

 それが、この街にとって……いちばん残酷なことだった。


***


 夜が明ける。

 けれど、テントの中はまだ薄暗い。

 外の光がわずかに布を透かして、床に淡い橙を落としている。


 海莉は陽生の手を握り続けていた。

 指の間から、細かな灰が零れ落ちていく。

 それでも……その灰は、ほんのりと温度を帯びていた。


「……最後まで、頑張ったな」


 その言葉に応えるように、灰がふっと舞い上がり、光の粒を散らした。


 透子が静かに息を呑み、駿が目を伏せる。

 誰も言葉を続けられなかった。


 海莉は、掌の上で淡く光る灰を見つめながら呟いた。


「……ちゃんと、陽は昇ったんだな」


 テントの隙間から差し込む光が、

 灰を照らしてきらめいた。


 誰も泣かなかった。

 その沈黙の中で、確かに生きるという意思だけが、そこに残っていた。

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