第5話 白楼の空から落ちるもの

 医療班の簡易テント。

 衝裂の反動で神経をやられた海莉は、簡易ベッドに腰を下ろしていた。

 包帯を巻かれた右腕が、脈打つたびに鈍く痛む。


「いってて……もうちょっと優しくしろよ」


 痛みに顔をしかめ、手当てをする透子に訴える。

 透子は小さくため息をつき、包帯の上から軽く叩く。

 痛みで海莉が跳ねた。


「いってえええっ! 怪我人にやることじゃねぇだろ!」


「それだけ元気があれば大丈夫ね。数日もすれば治るわ」


「根拠は!?」


「勘」


 何ということないとでもいうように、あっさりと返される。

 海莉は、肩を落とし項垂れた。

 顔を上げると、隣の簡易ベッドで子供が静かに眠っている。

 呼吸は落ち着いてきたが、その腕には今も黒い痕が残っていた。


「……なあ、あれって治らないのか。あの黒い影の……」


 海莉の問いに、透子は無言のまま包帯を整えながら息を吐いた。

 答えが返ってこない。

 それだけで、理解してしまう。


「……そうか」


 海莉は目を伏せ、唇を強く噛む。

 沈黙の中、かすかな声が耳に届いた。


「う……ん……」


 子供がゆっくりと瞼を開く。

 海莉は、すぐに駆け寄り、顔を覗き込む。

 顔色が悪くないことに、安堵の息を漏らす。


「おい、大丈夫か?」


「……あ、れ? 僕、食べられたんじゃないの?」


「バカ。ここにいるだろ。ちゃんと生きてんだよ」


 影に侵されていない手をそっと握る。

 子供は泣き笑いのような顔をして、呼吸を震わせた。


「……助けてくれたの?」


「ガキ助けるのは、大人の役目なんだよ」


 その一言に、子供の目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「……ありがと、海莉」


「おい、呼び捨てすんなって言ったろうが」


 海莉は苦笑しながら、くしゃりと子供の髪を撫でる。

 指先に感じる温もりが、生きている証のようだった。


「まだ寝てろ。ここには大人がいる。ちゃんと守ってくれるから」


「……うん」


 子供は、安心したように静かに瞼を閉じる。

 小さく続く呼吸が、テントの中に穏やかに響いた。


「なあ。今日、ここに泊まってもいいか」


 視線は眠る子供に向けたまま、海莉が透子に問いかける。

 透子は少しだけ考えてから、頷いて柔らかく答えた。


「……流石に陽も沈んだし、追い出すなんてことなんてできない」


「悪いな」


 海莉は子供の手を離さず、小さく笑みを浮かべる。

 その横顔を見て、透子がふと口を開いた。


「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」


 海莉が目だけを向ける。

 透子は椅子に座り直し、真っ直ぐに彼を見つめた。


「因課なんて安全な場所にいたのに……どうして、わざわざ白楼に来たの? 自殺行為だって分かってるでしょ?」


「ま、そうだな。でも、ここには人がいる。組織として救えねぇなら、個人が動くしかない。……俺が勝手に来ただけ」


「大丈夫なの? そんなことして。処分とか、あるんじゃないの?」


「んなもん、知るかよ。ただ、追手が来ることはねぇよ。因課は、ホワイトだからな」


 皮肉めいた笑みを浮かべる海莉に、透子は小さく息を吐いた。


「あたしたちが、神経質なのかもね」


「いや、仕方ねぇだろ。急に外の……しかも、自分たちを見捨てた連中が来たら、喧嘩売りにきたのかって、俺でも思う」


 海莉は目を細め、テントの外の薄明かりを見つめる。

 光の加減のせいか、海莉の目の奥がどこか沈んで見えた。


「嫌われたって構わねぇよ。……お前らが、ちゃんと生き抜いてくれりゃ、それでいい」


 透子はしばらく黙っていたが、やがて静かに言葉を継ぐ。


「分かってると思うけど、夜の移動は危険よ。あんたが遊んでたアレ以外にも、影喰いの残りが動いてる」


「遊んでねぇ! 命懸けだったんだぞ!」


 透子を睨みかけた海莉は、もぞりと動いた子供に気づき、口を噤む。

 透子が指を立てて制した。


「大声出さないで。起きるから。影喰いたちも嗅ぎつける」


「誰のせいだと思ってんだよ……」


 ぼやきながらも、海莉は肩を落とし、天井を見上げた。

 包帯を巻かれた右腕が、じんと痛んだ。


「夜明けまで、我慢……だな」


***


 風が止む。

 夜が終わるというのに、白楼の空気はまだ冷たく、どこかで影の残り香が漂っているような気がした。

 闇は消えたが、街の傷はそのままだ。

 それでも、人の息がある。


 ――朝日が昇る。


 海莉はテントの外に出て、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 肺の奥に届く空気が、夜明けの匂いを連れてくる。


(……越えられたな、今日も)


 その瞬間、遠くの空で低い音が鳴った。

 最初は風の音かと思ったが、次第に大きくなる。


「……何だ?」


 駿が走ってくる。

 朝の光の向こう、空を横切る白い影。

 パラシュートだった。


「おい、海莉! あれ……!」


 ゆっくりと降りてくる金属の箱。

 側面には、見慣れた因課の識別コードが刻まれていた。


「……補給物資?」


 駿と透子が箱の周囲に集まる。

 封印を切ると、中には整然と並べられた食料と医薬品。

 新品の水袋、乾パンや保存缶、缶詰。更には、抗生剤や包帯まで。

 どれも現場を知る人間が選んだとしか思えない中身だった。


「……こんなに綺麗な物資、何年ぶり」


 透子が小さく息を漏らす。


 海莉は箱を覗き込み、静かに微笑んだ。

 包帯の白が朝日を受けて淡く光る。


「……あんたも諦めてないんだな、水島さん」


 その名を呼ぶ声は、風よりも穏やかだった。


 海莉は空を見上げた。

 雲の切れ間から、柔らかな光が差し込む。

 それは、白楼にとって久しぶりの“本当の朝”だった。


 駿が笑いながら保存缶のビスケットを掲げる。


「朝飯が、配給だってさ。悪くない。今日も生きていける」


 透子も肩の力を抜いて、空を見上げた。

 その目には、わずかな涙の光。


「まだ、見放されてなかったんだ……」


 海莉は静かに腰を下ろし、温かな陽を背に感じる。


 白楼の空に笑い声が溶けていく。

 不思議とそれだけで、まだやっていけそうな気がした。

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