第7話 沈黙の兆し
それぞれの居住区へ向かい、海莉は淡々と配給作業を続けていた。
焦る様子も、無駄な声もない。
効率的で、的確な動き。
その姿に、周囲の者たちは思わず手を止めて見入る。
「おい、そろそろ陽が……」
男のひとりが声をかけた瞬間、海莉は毛布の束をその腕に押し付けた。
「居住区だと女子供や年寄りが多いだろ。そっち多めに置いてやれ」
言葉は短く、しかし迷いがなかった。
その背に、誰かが小さく呟く。
「……あいつ、ほんとに人間かよ。怪我してんのに」
それでも海莉は振り返らなかった。
ただ、沈みかけた陽の光を横目に、次の地区へ向かって歩き出した。
持っていた荷物を、ひょいと半分取りあげられる。
「無茶すんな。ちゃんと頼れよ」
駿が笑いながら、荷物を持ち直す。
駿の声には、柔らかい響きがあり、穏やかだった。
海莉は少しだけ間を置いて、苦笑した。
「無茶なんかじゃねぇよ。明日の朝を迎えるために、必要なことしてるだけだ」
海莉は淡々と答えたが、包帯の下ではまだ微かに疼きが残っていた。
駿は短く息を吐き、それ以上は何も言わなかった。
無理を止める言葉より、信頼の沈黙の方が今の海莉には、ずっと意味があると分かっていた。
***
陽が落ち始め、海莉と駿が戻る頃には、
男たちが器を取り出し、なにかを掬っていた。
「ほら、海莉も飲めよ。飯だ」
差し出された器を受け取ると、
中のスープはもう冷めきっていた。
温めてあるはずのパックご飯でさえ、
冷たくて、固くなっている。
「陽が高いうちに作ってんだよ。作りたてなんて贅沢なこと言えねぇ。飯があるだけで、ありがたいもんだ」
男の言葉に、海莉は小さく笑った。
湯気も出ないスープを口に運びながら、それでも胸の奥に、かすかな温もりを感じていた。
「そういえば、探索中にこんなもん見つけたんだけどさ」
男のひとりが、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
最低限の薄明かりの中、広げてみる。
それはこの土地の地図らしかった。
白楼の輪郭が手描きで記され、何箇所かに赤い印が滲むように書き込まれている。
「……地図?」
駿が覗き込み、眉をひそめた。
海莉もスープの器を置き、身を乗り出す。
地図の紙面から漂う焦げたような匂い。
紙の端が黒く焼けている。
「白楼の区画……でも、こんなマーク、見たことねぇな」
「俺もだ。どうやら最近描かれたらしい」
男の声がわずかに震える。
周囲の空気が、ひとつ息を飲んだように静まった。
「……手分けして調査するか?」
海莉が目配せすると、男たちは一瞬、顔を上げた。
しかし、誰も言葉を継がなかった。
外はもう、闇に沈みはじめている。
「夜はダメだ。光が餌になる」
駿が低く呟く。
その声に、場の空気が凍った。
海莉も地図を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
赤い印が、灯りの下でじわりと滲んでいる。
「……そうだな。無謀は命を縮める」
地図を折りたたみ、海莉は卓上に置いた。
「朝になったら行こう。陽が昇ってる間に確かめりゃいい」
駿が頷く。それに続いて他の男たちも。
その顔には焦りも恐れもなく、生き延びるための理性だけがあった。
外から、風がテントの布を揺らす。
その音だけが、静まり返った空気の中に響いた。
***
陽が上り、すぐに分担した場所へ海莉と駿は向かった。
向かった先は児童館。
かつて避難所として使われた建物。
今は、静かな廃墟だった。
入口のプレートは半分欠け、壁に貼られた子供の絵は色褪せている。
【みんなでがんばろう!】
クレヨンで書かれたその言葉だけが、皮肉のように残っていた。
「子供を守る場所が、こんなことにな……」
「それでも、誰かがここで待ってたかもしれねぇ」
海莉は懐中ライトを掲げた。
陽は高いのに、此処だけ夕暮れのように暗かった。
床の奥が呻くように鳴った。
次の瞬間、黒い影が割れ目から蠢き、噴き出した。
「――っ!」
海莉は反射的に右腕を構えた。
衝裂の光が集まり、空気が弾ける。
ずきりと右腕に痛みが走るが、反射がそれを許さなかった。
爆風が床を吹き飛ばし、影が霧散する。
粉塵が舞い上がり、崩れた天井の隙間から差し込む光が揺れた。
海莉は息を詰め、右腕を下ろす。
耳鳴りと土埃の中で、影は霧のように消えていた。
「……終わったか?」
駿が低く呟き、足で残骸をどける。
黒い粉が靴の先で散った。
「多分な。思ったより脆い……いや、こっちの反応が早かっただけか」
「お前の反射、やっぱバケモンだな」
「ま、向こうでも現場やってたし」
「お前、もしかして意外と優秀か?」
駿が茶化すように笑う。
海莉は、わずかに息を抜いた。
「因課でいくら仕事出来たって、此処じゃお前らと一緒だ。関係ねぇよ」
「……そっか」
二人の間に沈黙が落ちる。
遠くでガラスの破片が転がる音がした。
「……ここが避難所だった頃、どんな声がしてたんだろうな」
「賑やかだったろ。笑い声とか、泣き声とか……そういう普通の音だよ」
海莉は答えながら、足元に散らばった玩具を見下ろした。
砂まみれの積み木、欠けたブロック。
それを避けるように歩きながら、二人は再び奥へ進む。
「今のうちに調べられるだけ見とくか」
「おう。陽が傾く前にな」
そう言って笑う駿の声は、いつもと変わらない。
海莉もその背中を追いながら、わずかに笑みを浮かべた。
児童館の奥へ続く通路は、光を拒むように静まり返っている。
遠く、壁のひび割れに風が吹き込み、小さく……まるで何かの囁きのような音を立てた。
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