第一章 過去の少年
春が終わり、町はゆっくりと夏の匂いを帯び始めていた。
朝、蝉の声の代わりに川のせせらぎが聞こえ、昼は穏やかな風が山を越えてくる。
そんな季節の変わり目を、星野遼はぼんやりと感じながら過ごしていた。
通学路の途中、彼はいつもの坂道を登る。
制服のポケットにはイヤホンが差し込まれているが、音楽は流れていない。
ただ、無線のノイズのような耳鳴りが、頭の奥にこびりついていた。
――あの声。
先日の夜、古い無線機から聞こえた「未来の少女」の声。
夢じゃなかった。たしかに、自分はその声を聞いた。
けれど、翌朝には無線機は沈黙したまま。
何度電源を入れても、雑音しか流れない。
「……やっぱり、気のせいだったのか」
小さく呟く。
けれど胸の奥には、消えない違和感が残っていた。
学校につくと、教室はいつも通りの喧騒に包まれていた。
クラスメイトたちは部活や進路の話に花を咲かせ、遼の存在はその輪の外側にあった。
「おい、遼。また寝不足か?」
声をかけてきたのは親友の佐久間翔。
中学からの付き合いで、唯一気を許せる相手だった。
「まぁ……ちょっとな」
「どうせまた夜更かしだろ? お前んちのあの無線、まだいじってんの?」
「……まぁ、暇つぶしにな」
翔は苦笑して肩をすくめた。
「お前ってほんと、昭和の亡霊みたいな趣味してんな。もっとスマホで遊べよ」
「電波入んねぇんだよ、あの山」
「そっか、田舎だもんなぁ」
軽口を交わしながらも、遼の意識はどこか上の空だった。
――“未来からの声”。
言えば笑われるに決まってる。だから、誰にも話せなかった。
放課後。
太陽が山の向こうに沈みかける頃、遼はまっすぐ家へ帰った。
祖父母はもう寝室に入り、古びた家の中は静まり返っている。
机の上の無線機が、薄暗い部屋の中で鈍く光っていた。
彼はそっと電源を入れる。
ジジジ……ッ。
ノイズが部屋を満たす。
数分、何も起きない。
それでも遼は待ち続けた。
――そして、唐突に。
「……聞こえますか?」
あの声が、再び響いた。
「……お前、誰なんだ?」
「わたしは……セラ。あなたの声が、また届いた」
遼は思わず息を呑んだ。
やはり、夢じゃなかった。
「セラ……って、外国人?」
「わたしの時代では、国という概念はもうありません。わたしは……未来の人間です」
「未来……? さっきもそう言ってたな。冗談だろ?」
「いいえ。ここは西暦二二二五年。あなたの時代よりも、ちょうど二百年後の未来です」
遼は笑うしかなかった。
「二百年後? 馬鹿言うな。そんなの、映画の話だ」
「でも、あなたの声が届いた。それが事実です」
真剣な声だった。
ふざけているような気配はまるでない。
「あなたの世界……“空の青”は、まだありますか?」
「は?」
「わたしの時代では、空はもうありません。人工のドームで覆われています。あなたたちの時代の空の色を、知りたいの」
遼は、窓の外を見た。
群青色に染まる空。星がひとつ、またひとつと瞬き始める。
「……青いよ。夏の空は特に、透き通るくらいに青い」
「……そう。いいな、それ」
セラの声が、少しだけ震えた気がした。
それから、二人の会話は毎晩続いた。
セラは未来の世界について少しずつ語り、遼はこの時代の日常を話した。
彼女の話はどれも信じがたかった。
AIが人類を管理する世界。空も海も失われた地上。
感情を制御され、生まれながらにして「プログラム化された心」を持つ人々。
「そんな世界……生きてて楽しいのか?」
「“楽しい”という感情は、私たちの時代では禁止されています」
「は?」
「感情は争いを生む。そうAIは判断しました。だから、私たちは穏やかでなければならない。でも……あなたと話していると、胸が……痛いの」
遼は言葉を失った。
「これが……“悲しい”ということなの?」
「……ああ。多分な」
「“悲しい”って……悪いこと?」
「いや……悪くねぇよ。大事なことだ」
その夜、遼は初めて泣いた。
理由は分からない。ただ、声の向こうにいる少女が、あまりにも遠い世界にいることが切なかった。
六月の終わり。
雨が降りしきる夜、通信は突然途切れた。
「セラ? 聞こえるか? おい、セラ!」
ノイズの中に、かすかに彼女の声が混じる。
「……リョウ……、AIが……通信を……遮断しようとして……」
「待て、どういう――」
「もし……次、話せなくなっても……あなたの空を、覚えてる」
通信が、途切れた。
無線機のランプがゆっくりと消えていく。
静寂。
ただ、外では冷たい雨の音だけが響いていた。
遼は膝をつき、震える指で無線機を握りしめた。
「……馬鹿、何言ってんだよ」
胸の奥が、張り裂けそうに痛む。
けれど、泣くことはできなかった。
彼は決めた。
もう一度、あの声を探す。
たとえこの世界のどこにも届かなくても、必ず――繋がる方法を見つける。
翌日、遼は町の外れにある廃研究所を訪れた。
そこには、祖父が昔関わっていたという旧通信施設の跡が残っている。
扉を開けると、埃と鉄の匂いが混ざった空気が流れ込んできた。
「……ここなら、何かあるかもな」
机の上に積もった古い資料の中に、一冊のノートがあった。
そこには、手書きでこう記されていた。
『量子通信実験記録:人間意識の同期について』
ページをめくる。
最後の行に、見覚えのある名前が記されていた。
『研究主任:星野 晴臣』
「……じいちゃん?」
遼の祖父は、生前、電波通信の研究をしていたという。
まさか、これが――
その瞬間、無線機が勝手に起動した。
ノイズが部屋中に響き、光が一瞬だけ弾ける。
「――リョウ……聞こえる?」
懐かしい声。
未来の少女、セラだった。
「セラ! 無事だったのか!」
「時間がないの。AIが私を追ってる。でも、どうしても伝えたかった」
「何を?」
「“時空の境界”が、崩れ始めてる。あなたの時代にも、きっと影響が出る」
「どういうことだよ!」
「あなたを……助けたいの。だから、お願い。研究所の地下――『光の回廊』を探して」
光の回廊。
何を意味するのか分からない。
だが、セラの声は真剣だった。
「また、必ず繋がる。だから――信じて」
通信が途切れる直前、かすかに彼女の声が微笑んだ気がした。
「あなたの空、もう一度見せて」
遼は外に飛び出した。
雨が止み、夜空には満天の星。
「セラ……見えるか? これが……俺たちの空だ」
涙が滲む。
空の青を知らない少女に、この星の光が届くようにと、心の中で願った。
その夜、世界のどこかで、
時の歯車が静かに動き出していた。
過去の少年と、未来の少女。
二つの時代が――ゆっくりと、交わり始めていた。
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