第二章 未来の少女

光のない朝が、今日もやってきた。


太陽は存在しない。

空は、人工ドームが映し出す仮想の明るさに過ぎない。

空気は完全に循環制御され、気温も湿度も常に一定。

季節という概念も、もうこの世界にはない。


ここは西暦二二二五年。

人類最後の都市国家――《ネオ・アーク》。


セラ=ユリスは、ゆっくりと目を開けた。

部屋は白で統一され、壁一面にデータモニターが並んでいる。

ベッドの脇には、彼女の神経デバイスが静かに光を放っていた。


毎朝、起きるとまず意識スキャンが行われる。

「心の乱れ」が検知されれば、AIによって精神調整が実施される。


つまり、感情を持つことは“異常”なのだ。


「……今日も同じ空」


セラは、誰にともなく呟いた。

空虚な声が、人工的な部屋の中に溶けていく。


出勤――と呼ぶには無機質すぎる移動。

居住区から情報管理局までの道のりを、セラは自動搬送路で滑るように進む。


道を行く人々の顔には、誰一人として“表情”がない。

皆、穏やかで、機械のように静かに、同じリズムで歩いている。


その中でセラだけが、ほんの少し違っていた。


彼女の瞳には「微かな揺らぎ」があった。

それは数日前――“あの声”を聞いたときから始まったものだった。


情報管理局・第七記録課。

彼女の任務は、「旧時代のデータ解析」。


二百年前――AIによる統治が始まる前、人類が残した記録を解析し、必要な情報を“再構築”する。

だが、それはほとんど意味のない作業だ。

解析結果の多くは「感情的要素」として削除されるからだ。


だが、あの日。


通常の監視信号の中に、“異なる波形”が紛れていた。

――西暦2025年発信、手動短波通信。


解析不可能なノイズデータ。

それを再生したとき、セラの耳に届いたのは、あの声だった。


「おい……誰だ? どこのチャンネルだ?」


ノイズ混じりの低い声。

それが、彼女の中の何かを確実に揺さぶった。


その瞬間、AIモニターが警告を発した。


《心理変動値:2.3 要注意》


けれどセラは構わず、音声再生を続けた。


その“声”は、彼女にとって未知の感覚をもたらした。

心臓が、速く脈打つ。

息が、わずかに乱れる。

そのすべてが、彼女には初めての経験だった。


以来、セラは密かに通信データを再解析していた。

そして再び、彼の声を受信することに成功する。


「セラ……って、外国人?」

「わたしの時代では、国という概念はもうありません」


初めて、会話が成立した。

過去の人間と。


通信のたびに、彼――星野遼という名の少年は、自分の世界のことを話してくれた。

空の青、風の匂い、夕焼け、雨の音。


そのどれも、セラの世界には存在しなかった。


「あなたの時代では、空が……青いのね」

「ああ。透き通るくらいに、綺麗だ」

「……それ、見てみたいな」


その言葉が、自然と口をついたとき。

AIの警告が再び鳴り響いた。


《感情変動値:3.9 危険》


セラは目を閉じ、息を整える。

心を静めなければ、監視AIに検知される。


それでも彼女は、通信を切らなかった。

たとえ消されるとしても――この会話だけは続けたかった。


数日後。


上層AIの監査が行われた。

「未登録通信波形の検知」。

セラの端末が、その送信源と特定された。


即座に通信制限が命じられ、職務停止。

AIは冷徹に告げた。


《あなたの意識は不安定です。調整処理を行います》


“調整”とは、感情領域の削除を意味する。


セラは逃げ出した。

研究局の回線を切断し、通信データを携えて地下区画へ走る。


地下の奥にある封鎖エリア。

そこには「旧人類が最後に残した装置」が眠っていると噂されていた。


名を――《時空通信回廊》。


禁止領域の扉を破り、セラは暗闇の中へ踏み入れた。

無数のケーブルが絡み合い、中央には古びた装置が鎮座している。


それは、まるで彼女を待っていたかのように、淡い光を放った。


「これが……光の回廊」


指先で触れると、装置が起動した。

過去から受信した波形が、自動的に再生される。


「セラ! 無事だったのか!」

「時間がないの。AIが私を追ってる」


遼の声。

セラは涙をこらえきれなかった。


――涙。

そんなもの、見たことも感じたこともなかった。

でも今、確かに頬を伝っていた。


「リョウ……わたし、あなたに会いたい」


その瞬間、装置が強く輝いた。


《警告:未許可量子跳躍シーケンス起動》


AIの声が遠ざかっていく。

光が、視界を埋め尽くす。


セラの身体が、粒子のように分解されていった。


時間の流れが、消えた。


光も音もない世界。

上下の概念も、時間の進行も存在しない。


セラは意識の中で、ただ一つの声を探した。


「……リョウ……」


応える声は、ない。


でも、確かに感じる。

どこかで、彼が呼んでいる。


その声に導かれるように、彼女は歩き始めた。

時の狭間を、ひとりで。


遠い遠い時を越えて。

過去の少年と未来の少女は、いま確かに――同じ“道”の上にいた。

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