3.ヒトのルール、ネコのルール
人間はなんとも傲慢に”当然”という言葉をとらえている。実際には何者もが同じように認識できていることなんてありはしないのに、そういうものがあると錯覚して根拠も無く自分の考えが通用すると信じていたりする。
「ところでさ」
アメが首を傾げてそう言った。
「キミの名前は何ていうの?」
「えっ。」
衝撃を受けた。散々この猫の名前について話してから一日明けてのことである。猫の名前の必要性をうったえておいて、自分は名乗っていなかったのだ。
基本的に人間は猫に名乗らない。恐らく猫にはうまく伝わらないと思っているからだ。そして、名乗らなくても何かしらの方法で自分を認識し、猫なりの言葉で自分を呼んでくれているとどこかで信じている。それがどこか当然のように思っている。少なくとも自分にはそういう考えがあったのだろうと思う。その結果、名前の無いものに名前を求めて、名前のある自分は名乗らないというなんともおかしな状況になってしまった。
しかし、アメは喋るが猫であり、猫だが喋るのだ。喋ることと猫であることのバランスの取り方を間違えるのは、恐らく何かの思い込みによるものなのだろう。
「なんか難しいこと考えてる?自分の名前って難しい?」
アメが不思議そうに顔を覗き込んできた。非常に可愛い。
「いや、ごめん。白井さくらです。」
「シライサクラ」
「あ、いや、名前だけでいうとさくらかな。」
アメは不可解そうな顔になり、首を傾げる。
「名前じゃない部分がある……?」
「うーん……苗字……ってなんて説明したらいいんだろう。ファミリーネーム?」
「ファミリー?」
いや、それは、英語で言ったところで分かるはずないよね。
「んーと、私の名前じゃなくて、どこの家族かというのを表すものが白井で、私のことを表すのがさくら、って感じかなぁ。」
「ふむ……チーム名みたいなこと?」
「合ってるような、合ってないような……。」
というか、なんでチーム名という言葉は知ってるんだろう?
「ああ、でも、アメもうちの子だから白井だよ。」
「えっ!?いつの間に!?」
そう言われるといつの間になんだろう?犬や猫には戸籍が無いけど、動物病院に行くと苗字付きで呼ばれる気がする。動物病院によるのか?
「改めて言われると不思議なシステムかもなぁ。」
「やっぱり人間のルールは難しいなぁ……。」
アメはちょっと嫌になったのか、ベッドに登ると身を投げ出すようにボスッと音を立てて寝転んだ。モヤモヤした気持ちを晴らしたかったのか、身を捩ってゴロンゴロンと転がると、上目遣いにこちらを見てきた。
「えっと、つまり、なんて呼べば良いってこと?」
「それは、さくらでお願いします。」
「りょーかい、さくら。」
アメは尻尾をパタパタさせて返事をすると、また身を転がして反対側を向く。それから、名前の話は解決したから終わりと言わんばかりの様子で目を閉じた。
Φ
「さくらはさぁ、なんとなく猫慣れしてる感じがあるよね。」
アメは寝そべったまま身体を伸ばした後、そう言った。
「あー、ニ年前までは実家に猫がいたからかな。その前は犬もいたけど。」
「ふぅん。」
アメはなんとも興味があるのか無いのか分からないような返事をする。あんまり動くのは面倒くさいのか、同じ格好のままフンフンと音を鳴らして鼻をひくひくさせた。
「確かに、ここは他の猫のニオイはしないなぁ。」
そう言うと、何か納得したのか目を瞑る。
「他の猫がいると、やっぱり嫌だったりする?」
「猫のキモチもフクザツだからね、他の猫がどうしても嫌ってわけではないけど、やっぱり居ないなら居ない方が落ち着くよね。遊び相手が居ないのはつまんないけど。」
「そういうものなのか。」
「人間も一緒じゃない?」
うん?と首を傾げる。人間は猫みたいな揉め方をしないように思うが、アメにはそう見えないのだろうか。
「さくらは突然来た知らない人とずっと一緒にいるの、平気?」
「ぬ。それはあんまり好ましくないかも。」
「コノマシクナイ?」
「……わりと嫌だってことです。」
「なるほど。」
お互いに納得したような気持ちになるが、ふと別のことを不思議に思う。
「でも、アメは私のことは平気なの?」
アメは少し思案する様子を見せた。
「まぁ、でも、ぼくは人間が好きなタイプではあるからな。」
「人間だから好きなの?」
「猫が相手でもそんなにケンカはしないけど、同じものが好きだから取り合いになるんだよね。人間はそうじゃないけど、遊んでくれるし、仲良くしてくれるからね。」
「私がここに連れてくる前、ケガしてたのは?」
アメは、あー、となんとなく気まずそうに呟いた。
「んー、そうだなぁ、なんていうか、野良で生きてるといろいろとあるんだよね、ほんと。その節はありがとうねぇ。」
思ってもない律儀な返事に少し呆気に取られる。存外にこの猫は義理堅いやつなのかもしれない。そういえば、最初に話してきたのもありがとうと言うためだった。
話しにくいというよりは、本当にいろいろなことがあるから話すのが面倒なようで、少し何か考えた様子だったのに、すぐに話すことを諦めてアメは体を伸ばした。小さく尖った牙を見せて、大きな欠伸をする。猫の欠伸を見ると、牙があまりに鋭くて、肉食動物として獲物を追いかける姿を思い浮かべてしまう。
「でも、前歯は可愛いんだよな。」
「うん?何か言った?」
「独り言ー。」
ギャップ萌え、とは猫のための言葉なのかもしれない。モフモフで可愛いと見せかけて、牙が鋭く、牙が鋭いと見せかけて前歯が可愛い。いや、獲物にとっては、その牙の鋭さの一点でたまったものではない。
ああ、アメの口元を好きに触って、その可愛らしい歯並びを見せてほしい、という欲が湧いたが、言葉が理解できる猫が相手だからこそ、そのことは黙っておいた。
Φ
共同生活、同棲、ルームシェア。
人間とのそれにはこれまであまり縁がなく、強いて言うなら、実家で過ごしていた時期くらいのものである。
産まれたときから既に家族と呼ばれる者に、何の疑問も無く連れ帰られ、特に選ぶわけでもなく一緒に過ごすというのは、言葉にしてみるととても幸せなことだなとも思うけれど、無自覚で、時に傍迷惑に感じることすらある。
いざ選んだ人と一緒に暮らし始めても、一人になれる空間が必要だと言う人がいたりだとか、兎にも角にも他人と同じ空間で暮らすというのは大変なことらしい。
それでは、猫はどうなのだろう。
拾われた子猫が連れ帰られる場合は、人間が赤子のときから家族と暮らす感覚に近いのかもしれない。しかし、成猫の場合、なかなか馴染めなかったり、環境の変化をうまく飲み込めなかったりと、苦労する様子をよく耳にする。
人間と猫が一緒に暮らすとき、異種族ということでお互いに折れている部分もあるのかもしれない。人間は人間の考えで猫をマイペースだとか自由奔放だとか言うけれど、猫の意見は聞いたことが無いからそう思えるだけで、本当のところは猫だっていろいろと我慢してくれているんじゃないかと思う。それも、別に聞いたわけではないけれど。
お互いに言葉を伝え合えるわけではないからこそ、寛容に受け入れられるというところもあるのかもしれない。伝え合えるわけではない相手と一緒に暮らそうと考えたからこそ。
では、言葉を伝え合えるならどうなのだろう。
「アメさん、ルールを決めよう。」
「ルール?」
「例えばだけど、ずっとカメラに追われてるとかは嫌?」
「カメラ?え、分かんない。考えたこともない。そうするとどうなるの?」
「私の方からアメがどうしてるか見ることもあるかなーって感じ。」
「んー。それは別に気にならないかな。」
なるほど、ペットカメラは大丈夫らしい。
「机に登らないのと、爪を決まったところで研ぐのとは?」
「それは大丈夫だけど、爪とぎあるの?」
「実は買ってた。週末のうちに。」
「おお、さすが。」
「猫だと思ってたから。」
「今も猫だよ。」
果たしてそうだろうか。
「ティッシュは?」
「善処するけど、無理かも。」
マジか。
「なんで無理なの。」
「こう、心が躍るというか、本能には逆らえないというか。」
アメの背中あたりがピクピクとする。それが何故なのかははっきり分からないけれど、ああ、これは無理そうだなと思った。隠すか、蓋をするか……考えておかないと。
「玩具は?要る?」
「遊んでくれるの?」
「うん?まぁ、それでも良いけど、ひとりで遊べるのもあるよ?」
「うーん……勝手に動くやつとか?」
「そうそう。」
「生きてる感じがしないとバカバカしい気持ちになるというか……あんまり要らないかも。」
「ええっ?ティッシュだって生きてないじゃん。」
「あれはへんな動きだし、奥から出てくるから、面白いんだよ、すごく。」
うーん、難しい。
「イマイチな物もらうくらいなら、鳥とか見てる方が楽しいよ。」
そういうものなのか。
「あとは、なんだろう。ごはんの時間とか?」
「時間かぁ。人間はそういうところあるよね。」
「うん?」
「食べ物は食べたいときに食べるものだよ。」
なるほど、そういう思想がデブ猫たちを生むわけか。
「ダメだよ、そのあたりもちゃんとしないと健康に良くないんだよ。」
「えー!運動とかはちゃんとするよ。」
うーん、運動はあんまりされても困るかもしれない。
「というかさ、」
「うん?」
「お昼、外に出してくれたら良くない?」
外。アメの言葉に凍りついた。というよりも、言葉に詰まった。
外飼い。室内飼い。外猫。家猫。
昔の常識では何でも無かったことであるが、今や犬猫は室内で飼うのが当たり前と思っている人間がいる時代である。自分が実家で飼っていたときはそうでもなかったし、未だにその近所ではそうでもないのだけれど、人間が多くなってしまった街中では、猫まで外に出せば収拾がつかなくなってしまうからか、自分の猫を外に出すだなんて言語道断であるのだ。
実際、外で見かける猫は基本的に野良猫だ。綺麗な猫は、外飼いというよりは脱走猫の可能性の方が高い。
そして、ここはそんな街中である。
「……ごめん、できない。」
「えーっ!?」
震える自分の声に、アメの大きな声が重なった。
ああ、早く引っ越しをしなければ。ただただその思いが強まるのであった。
【ヒトのルール、ネコのルール】
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