第2話 連絡先交換と幼馴染

​***


 三十分ほど前。俺は学校の教室で、「氷の聖女」こと雪宮しずくと、幼馴染になった。

 「幼馴染になるとはどういうことだ?」という疑問は、今も俺の胸に居座っているが、とにかく、俺は先天的なステータスを、強引に後天的に手に入れたらしい。


 ​人生の勝ち組へ足を踏み入れたその日の放課後。

 ​傾いた日差しが窓ガラスを貫き、俺の机の影を長く、教室の床に引き伸ばしていた。

 クラスのあちこちから、鞄を漁る音や、友達を呼ぶ声など、帰り支度のざわめきが聞こえる。


 ​そんな喧騒の中、いつも通り教室の隅で一人、無言で鞄のチャックを閉めていると――

「久澄くん。こ、こんにちは」


 ​相変わらず顔を真っ赤に染めた雪宮が、俺の席に向かって、ぎこちなく声をかけてきた。​その瞬間、ザワッと、教室の空気が目に見えて揺れた。

​ ざわめきと同時に、無数の視線が、まるで矢のように俺と雪宮に突き刺さる。その一瞬で、教室の体感温度が二度くらい急降下した気がした。


​――やっぱり、目立つんだな、雪宮は。


 ​掃除の時間の一件で、少し薄まっていた雪宮の「氷の聖女」の威圧感が、再び増幅されたのを感じた。

 ​雪宮は、胸の前で両手をぎゅっと握りしめている。それは、小さな覚悟を無理やり作り上げようとしている仕草に見えた。


 ​そして、彼女は意を決して口を開いた。

「あの、久澄くん、よければ、なんですけど、連絡先、交換しませんか?」

 もし、この声が野次馬たちに聞き取られていたら、一体どうなっていたことか。

 ある者は発狂し、ある者は絶望のあまり踊り始めるくらいには、大事件になっていただろう。


 それほどまでに、雪宮は全校生徒にとって、手の届かない高嶺の花なのだ。俺とは、住む世界が違いすぎる。


 ​幸いなことに、雪宮の声は小さすぎた。まるでひそめられた祈りのように、その言葉は野次馬たちには届かなかったようだ。

​ これで、発狂する者も、踊り始める者もいなくなった。彼女はまた、多くの人間の人生を救ったのであった。


 ​安堵したのも束の間、このままでは、彼女の言動を勘繰った発狂予備軍が現れかねない。雪宮の声が小さくて助かった、と思った次の瞬間、俺の足が、勝手に逃走の準備を始めていた。


 ​俺は半ば強引に、教室から逃げ出した。きょとんとしている雪宮を尻目に、野次馬たちの視線をかき消すように勢いよくドアを開ける。


 ​――ふう、助かった。


 ​元来、俺は目立ちたくない。そして、雪宮ほどではないにしても、俺もまた人見知りなのだ。話しかけられない限り話さないし、話すのも必要最低限のみ。

 俺の人生のコミュニケーションの相手は、親と妹、そして唯一友達と言ってもいい男子一人で構成されていた。

​ そこに今日、雪宮が加わったのだが。


 ​ほとんど走りながら、校門を出る。

 ​――しかし、雪宮には少し悪いことをしたな。今度、改めて謝っておこう。

 そう考えていると、突然、服の裾あたりが重くなった。いや、掴まれている。


 ​……誰に?


 ​もしかして、教室で発狂以下略を企てていたやつに、今から俺は暗殺されるのだろうか。

 それとも、普段ストレス発散に煽りまくっている妹が、帰り道を狙って俺を襲いに来たのか。

 恐る恐る、後ろを振り向くと――あら、美少女。

​ そこには、俺のシャツの裾をキュッと掴んだ、雪宮が立っていた。

「どうして、逃げるん、ですか」

 雪宮は少し拗ねたように、上目遣いでこちらを見つめる。その完璧に完成された光景は、まさに正真正銘の聖女だった。


 ​キョロキョロと、周囲に発狂以下略予備軍がいないかを確認する。人影はまばらで、謝罪するには絶好のチャンスだ。

「雪宮、すまなかった。ちょっとお前のファンたちに、殺されそうな視線を向けられたもんで……」


 ​頭を掻きながら、誠意を込めて謝罪した。

​ その言葉に、雪宮は優しく微笑んで、

「そんな、殺されそうなんて、大げさです。でも……そうだったんですね、ごめんなさい、私のせいで」

 謝るつもりが、謝られてしまった。

​ 雪宮以外が言ったら自画自賛のナルシストになりそうだが――彼女に限っては、それはもう仕方のないことだった。

「ところで、そうだな、あの、連絡先、なんだが」

 緊張のせいで、思わずカタコトで話してしまう。

「交換、しないか?」


 ​俺はスマホを彼女に突き出して言った。恥ずかしくて、顔を見ることができない。

 ​連絡先の交換って、こんなにも気恥ずかしいものなのか。

​ 雪宮は、またふふっと小さく微笑んで、


​「もちろんです」

 と、心底嬉しそうに言った。

 ​こうして俺は、雪宮しずくという、規格外の美少女の連絡先を入手したのであった。

***


 メールの文字を打っては消し、打っては消しを、何度も何度も繰り返した。もう、そうして一時間が経過しようとしていた。


​「何やってんだ……俺は……」


 ​部屋の蛍光灯の明かりが、スマホの画面に反射して眩しい。

 ​外はもう真っ暗で、窓に映る自分の顔が、やけに情けなく見えた。

 ​机に顔を擦り付け、一人呟く。だがその呟きは、誰にも拾われることなく、虚空に消えていく。


 ​そう、俺は帰り際に雪宮と連絡先を交換して、逃げるように帰ってきたわけだが――


 ​――メールを、送ってもいいのか。


 ​幼馴染って、そんなに簡単に、連絡を取り合うものなのだろうか。

 ​というか、誰も見ていないプライベートな空間でも、幼馴染を演じる必要はあるのか。

​ というか、本当は雪宮と一緒に、帰りたかった。

 残念ながら、勇気が出なくて駄目だったが。そんな言い訳のような、終わらない自問自答を繰り返して、一時間が過ぎ去った。

 要するに、何をするにも、俺は経験値が足りないのだ。色んな意味で。


 ​そんなことを考えていると、ふと虚しい気分になった。

 ​――何を、馬鹿なことをしているんだ……。

 携帯電話をスリープにする。

​ こうしていると、あの出来事が、まるで夢だったかのように思えてくる。あの雪宮が、まさか極度の人見知りで、その練習相手として俺を選ぶなんて……本当に、夢物語だ。

 そこまで頭の中で考えて、ふと気づいた。

​そうだ、そういえば、何で雪宮は、俺を選んだのだろうか?


​ 雪宮は、友達になるとあらぬ噂が広がる――つまり、恋人同士と勘違いされることを恐れて、幼馴染として振る舞ってほしいと言っていた。

​ ならば、男ではなく、女を選べばよかったんじゃないか?

 ​そうすれば、恋人同士と勘違いされることもなくなるし――こんな、面倒な立ち回りをする必要もなくなる。


 と、考えていた​そのとき、


 ​ブブッ――。

 突然、机の上のスマホが震えた。

 ​俺の心臓が、同じタイミングで跳ねる。

 ​スマホのスリープを解除し、画面を見ると――そこには、一件のメールが届いていた。


 差出人は、雪宮しずく。

​ そのメールには、


​『今度の週末に映画を見に行きませんか?

久澄くんと一緒に行けたらいいなって思ってます。もし大丈夫なら10時に公園の噴水前に来てください』

 と書かれていた。

 ​そのメッセージが、やはりあの出来事は、夢ではなかったのだと、俺に再確認させる。


 ​週末。確か、予定はなかったはずだ。

 ​でも、二人で映画――それってほとんど、デートみたいなものなんじゃないか?

 ​いや、こんなことを思っているのは、きっと俺だけなんだろう。

​ 雪宮は、きっと、ただ、人と話す練習をするために、誘っているだけだ。

 そう、俺たちは恋人じゃない。

​ 友達でもない。ただの幼馴染だ。

 ​それ以上でも、未満でもない。

 ​分かっている。そう、分かっているんだ。

 ​でも、やっぱりその誘いは、俺を舞い上がらせてしまう。

 『分かった』とだけ返信し、スマホの電源を切る。


 ​――これが、幼馴染ってやつか。


​ カーテンの隙間から、街灯の光が差し込む。その淡い光の中で、俺は一人、静かな感動に浸っていた。

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