第3話 Gal vs. Ice Saint

***


 そして、週末、約束の当日。

 ​待ち合わせ時間の三十分前。俺はすでに公園の噴水前に立っていた。

 いや、正確には、極度の緊張に耐えかねて、家から逃げ出してきた、と言う方が正しい。

​ さすがにこの時間では、雪宮もまだ来ていないだろう――そう楽観視していた俺の考えは、鮮やかに裏切られた。

 噴水の前に、制服ではない雪宮がいる。

 ​……一瞬、誰だか分からなかった。


 ​ポニーテールに束ねられた漆黒の髪が、朝の柔らかな光を受けて揺れている。薄いクリーム色のブラウスに、シンプルなデニム。

 ただそれだけの装いなのに、息を飲むほどに洗練されて、綺麗だった。

 その佇まいは、まさに見る人全ての視線を引きつける聖女そのものだ。

 なんだか、学校の時よりもずっと、大人の女性という感じがする――。

 俺に似合わず、胸がざわつき、微かに緊張してしまう。

​ だって仕方ないだろう、こんな規格外の美少女との外出なんて、俺の人生で初めてなのだから。

「おはようございます。いい天気ですね、雪宮さん」

 俺は、精一杯の平静を装って話しかけた。

「どうしたんですか? その、喋り方」

 雪宮はふふっと微笑みながら、少しからかうように言った。

​ その柔らかな笑顔に、俺の胸の奥で固まっていた緊張の氷が、少しだけ解けた。

「じゃあ、行こうか」

 俺は、自然にタメ口に戻っていた。

「は、はい!」

​ 今度は雪宮が、少し緊張した声で返事をした。

​ 形勢逆転――いや、この場合は緊張の波が俺から彼女へ移動した、と言うべきか。

​ なんだかそれがおかしくて、俺は思わず声に出して笑ってしまう。

 ​それに釣られるように、雪宮も静かに、くすりと笑った。お互いの間の張り詰めた糸が、完全に緩んだ気がした。

 この公園から映画館までは、徒歩で五分ほどの距離だ。

 目的地は、随分古い建物の、客も少ない映画館。この光景をあまり人に見られたくない俺たち偽装幼馴染にとっては、絶好の場所というわけだ。

 映画館に向かう途中、雪宮が口を開いた。

「きょ、今日、来てくれて……ありがとう。あの、その……久澄くんは、どんな映画が好きなんですか?」

 途中で何度も息を飲みながら、それでも懸命に話す声だった。

​ 彼女が頑張っていることは痛いほど伝わってきた。

 言い終えた雪宮は、やりきった、みたいな顔をしている。この努力を無駄にしたくなかったので、話し方のぎこちなさにはツッコまないでおいた。


​「うーん、そうだな。俺は、アニメとか見るのが多いかな。リア充が出るような映画は見ない」

 至極真面目に言ったつもりだったのだが、雪宮はまたクスクスと笑った。

 俺は続けて尋ねる。

「雪宮は、好きな映画とかないの?」

 雪宮はうーん……と唸ってから、答えた。

「私は、人が死なない映画が好きですね。人が死ぬのは、見ていて怖いし、悲しいです」

 人が死なない映画、か。

​ 彼女の穏やかな笑顔の奥に、見えない何かが沈んでいる気がした。どうしてそう思うのだろう。分からない。

 知りたい。

 ​俺はまだ、彼女のことを、何も知らない。こんな状態で、彼女の幼馴染を名乗っていいのだろうか。

​ もっと、知らなければ。そしてやはり、どうして俺を選んだのか、それを聞かないことには始まらない。


 ​意を決して、その疑問を口にしようとした、そのときだった。

「あれ、古本と、え? 雪宮さん?」

 空気が、一瞬で凍った。

 ​聞こえてきたのは、クラスの女子の声。学校でも派手で、校則ギリギリの格好をしているような――いわゆるギャル集団の一人だ。         

 雪宮に何の遠慮もなく話しかけられる、数少ない人物と言える。

 雪宮の身体がビクッと震えた。

​ 俺の額にも、嫌な汗がにじむ。


 ​――最悪だ、なんで、このタイミングで――

「え〜、どうしたの? 二人とも? まさかデート? 古本やるじゃ〜ん。それにしても、まさかこの二人がね〜」

 ギャルはニヤニヤした視線を、俺と雪宮に交互に交わし、何の遠慮もなく断定した。

​ こいつらは、俺たち一般人とは違う、独自の思考回路を持っているのだろうか……。いや、引きこもり気味の俺が言えたことではないが。

 横を見ると、雪宮が緊張と、俺に対する申し訳なさからだろうか、ものすごい顔をしていた。そう、「氷の聖女」と呼ばれた、無表情で冷たい、あの顔を。

 そんな彼女の反応に、俺も少し申し訳なくなる。そして、ギャルがまた余計なことを言った。

「クラスのみんなに、教えてあげなきゃ〜。大ニュースだもんね〜」

 スマホをいじり、相変わらずニヤニヤした顔のままこちらを見てきた。

​ 雪宮がそれに耐えかねて、口を開いた。

「あ、あの、私達、そんなんじゃ」

 その声は小さすぎて、ギャルには届いていなかった。雪宮はしゅんと、哀しそうな表情になった。

「え〜っと、古本と雪宮が、付き合ってる……と」

 プッチン。その言葉に、普段使っていない感情を司る、どっかの細い線が切れた。

​ もう我慢できない。ぶっ◯すぞ! という言葉が喉元まで出かかったが、隣にいる雪宮を思い出して、危うく踏みとどまる。

 この状況を、一発で打開できる、そんな、魔法のような言葉があるのだろうか。

​ 考えろ。考えろ。


 ​何度も自問自答を繰り広げた末に、俺の口から出た言葉は、

「俺と雪宮はただの幼馴染だ。それ以上も未満もクソもない。いい加減目を覚ませ。覚ませられないなら大声でセクハラですって叫んで無理やり覚ましてやるよ」


 ​カッコ悪かった。しかも、卑怯だった。天晴なほどに。

​ それを受けて、ギャルは一瞬固まってから、

「は? 何言ってんのあんた? 私に口をきける立場なの――」

 そこで、ギャルの声が止まった。

​ 見たのだろう。雪宮の顔を。

​ 氷より冷たい、その眼光を。

 次の瞬間、ギャルはヒッ、と短い悲鳴を上げて、振り返ることもなく走り去った。

​ ギャルの姿が見えなくなった後、雪宮は声を震わせながら言った。

「久澄くん、ごめんなさい」

「まあ、いいってことよ。それに、雪宮は悪くない」

 俺は精一杯、彼女の罪悪感を和らげられるような、優しい言葉を探した。

​ そして、そう言ったあとに、彼女の顔が、少し、赤くなった。

「ありがとう、ございます」


​ その声は、いつもの雪宮に戻っていた。

 ​その言葉と一緒に、彼女の頬の赤みがほんの少し強くなった。

​ それだけで、なんだか、俺のしたカッコ悪い行動が、全て報われた気がした。

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