3枚目
深夜。倉庫の地下室の空気は張り詰めていた。シグムントは壁際で呆然と立ち尽くす。
エルーナは魔石回路を手にそれを見つめていた。
(イドリス。解析結果を簡潔に)
――――「回路の
エルーナは無言で魔力により回路の破壊をはじめた。回路は微かな悲鳴のような音を立て、内側からひび割れていく。金属の縁が赤く焼け、空気が焦げた匂いを放った。
次の瞬間、白い光が室内を満たし――世界の輪郭が一瞬だけ
床を伝って重く響く残響が、まるで地下全体を軋ませるように続く。
ドンッ――
次の瞬間、倉庫の壁が低く唸り、砂埃が舞い上がる。埃の粒が光に照らされ、まるで時間が止まったように宙を漂った。
――――「回路の破壊が、隣接する地下倉庫の壁に物理的な力の偏りを生じさせた。想定外の物理的被害だ」
イドリスの分析を聞くまでもなく、エルーナの肌はその
「破壊の影響ね。まずは状況を確認するわ。あなたたちも」
三人で階段を上り、外へ出る。夜気が一気に流れ込む――はずだった。だが空気は、重たく、湿って、まるで世界全体が息を潜めているように動かない。
月光の下、倉庫が無残に崩れ落ちていた。屋根が半ば陥没し、支柱がねじれたように倒れている。建物の縁は淡く燐光を帯びていた。現実と非現実の境界が、まだ定まっていない。
静けさの中、瓦礫がゆっくりと転がり落ちる音がする。それだけが、この夜の現実をかろうじて繋ぎ止めている。
エルーナは一歩踏み出し、目を細めた。彼女の視線の先で、空間がわずかに揺れていた。建物の残骸の上に、熱気のような
――――「因果律の反動が、物質の層にまで干渉している。これは、ただの崩壊じゃない」
イドリスの声が脳裏で響く。
エルーナは小さく息を吐き、シグムントを一瞥した。
「……この精算は後日、カフェで。見てのとおり、問題が山積みだわ」
シグムントは顔を
崩壊した倉庫の応急処置を終えた頃には、夜はもう明けかけていた。東の空が白み、街路に薄い霧が漂っている。冷たい風が頬を撫でた瞬間、ようやく、世界がふたたび呼吸をはじめた。
カフェに戻り、イドリスが即座にアンナとシグムントの精神状態を解析する。
――――「アンナの精神から、回路への異常な執着は完全に消えている。彼女の『自己保身』という性格はそのままだが、すでに危険はない。そしてシグムント。彼の逃亡の意志も存在しない」
エルーナは黙って頷き、ゆっくりと珈琲を淹れはじめた。その香りが店内を満たし、夜の焦げ跡のような疲労感をやさしく包み込む。
カップを差し出しながら、彼女はようやく口を開いた。
「シグムント、アンナは回路の反動で少し消耗しているだけ。今日は解散よ。倉庫の件でまた話をするから、逃げ出さないこと。いいわね?」
シグムントは深く息を吐き、わずかに目を伏せた。
「……ああ。迷惑をかけた」
その声音には、もはや恐怖ではなく、素直な疲労と悔恨が滲んでいた。
彼が去った後、エルーナは残ったコーヒーを飲み干し、店の奥の窓際へ歩いた。
霧の向こう、瓦礫の影がまだ街の輪郭に残っていた。
数日後。エルーナはシグムントをカフェに呼び出した。
彼の目の前には、二枚の請求書が広げられていた。エルーナは指で指し示しながら淡々と説明をする。
1. 物理的な損失: 倉庫の修復と物品のサルベージ費用。
2.
物理的な損失の分は、なんの因果か先日の依頼で得た金額と同じ、金貨三十枚と明記されていた。
―――「姉さん。ボクの計算によると、シグムントも
(分かっているわ、イドリス)
エルーナは書類を静かに閉じ、シグムントに微笑みかけた。
「物理的な損失、つまりこの『1』の書類の分については、私が肩代わりしておいたから、後々返してね」
シグムントは神妙な面持ちで黙って聞いている。
「それで、『2』の修復費用、要するに私の報酬のことなのだけれど……。きっと『1』だけでも精一杯よね。これは今後の働きで返してもらうとするわ」
「どういう意味だ?」
「
「了承した。それでいい。金もないしな」
シグムントは、すべてを失った者が迎える、最も屈辱的な、しかし最も論理的な償いの道を受け入れた。
少しの間の後、エルーナが思い出したように言った。
「あ、そうだ。そろそろカフェの運営資金が底をつきそうなの。あなた、私に借金してるんだし……今ある分くらい、出してくれる?」
「金はないと言っただろう!」
エルーナは肩をすくめた。
「知ってるわ。でも言ってみたの」
彼が去った後、エルーナは大きく伸びをした。
――――「姉さん。やはりあの精算は、極めて非効率的だ。彼らの全財産を奪うほうが、カフェの安定に寄与した」
「そうね。あなたの計算通り、彼らの全財産を要求していれば、このカフェは半年は安泰だったでしょう」
――――「だが、そうしなかった。なぜだ? 姉さんが一時的にでも肩代わりしたせいで、カフェは依然として危機のままじゃないか」
エルーナは、カウンターに頬杖をつく。
「あなた、回路の破壊が終わった後も、彼らの性格は消えていなかったと言ったでしょう?」
――――「ああ。回路への執着は消えたが、彼らの本質的な性質は残っていた」
「人間も、やりすぎると
エルーナは静かに息を吸い込んだ。
「彼らは、新たな
――――「……なるほど。彼に償いという『希望』を与えることで、彼らが安定した法則の歯車として稼働し続けることを優先した、というわけか」
「ええ。あなたの知識だけでは測れない想いという変数が、時として最高の利益を生むのよ」
――――「……まったく、姉さんの詭弁は、いつも最後は人道的な論理として成立してしまうな」
「あなたがいてくれるから、できるのよ」
エルーナは背筋を伸ばし、誰もいないカフェの扉を見つめる。
「さて……。次のお客様を待ちましょうか」
客のいない店内に、その声だけが静かに残った。
扉の向こうでは、まだ誰も知らない
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