第一編: 外れ値の監査報告書
第2綴 : 折れない剣と崩れる法則
4枚目
カフェ【静寂の木陰】。エルーナは冷めたコーヒーを前にして座る。細いペンを帳簿の余白に滑らせていた。
――――「姉さん。帳簿を見つめても、数字は変わらない。非効率だ」
弟、イドリスの優しくも冷徹な声が、思考の奥に響く。
(これは心の平穏を守るために必要な儀式よ)
その時、店の奥で、旅装の男とその友人の声が届いた。
このカフェにとって来客は珍しく、その会話は自然と耳に入る。
旅人は腰の短剣を軽く叩いた。
「見てくれ、この剣。露店で手に入れたが、岩に打ち付けてもなぜか刃こぼれ一つしない」
友人が笑い飛ばしても、旅人の目は真剣だった。
「本当だ。あとで見せてやるよ」
エルーナは帳簿の上で無意味に動かしていたペンを止めた。
――――「
イドリスの声が、耳の奥でわずかに震えた。
彼女は静かに指を動かし、カウンターの下で
(もし
微細な
数日後の夜。
泥と汗にまみれたシグムントが、カフェの扉を押し開けた。作業着の腕章には【
「相談がある。倒壊事故の原因を、解析してほしい」
「報酬は?」エルーナの声は低く静かだった。
「協会の特命予算だ」
差し出された魔石の袋が、月光を受けて鈍く光る。
「上層部はこれを
彼の眼差しには、かつての失敗の影が宿っていた。
「もし俺の過ちに連なるなら、責任を取りたい。どうか、力を貸してほしい。そういう約束でもあったからな」
「論理的ね」
エルーナは頷き、報酬の入った袋を受け取った。
その日の夜、シグムントが走らせる馬車が、倒壊事故現場の裏路地に止まった。協会の職員は誰もおらず、監視の目もない。
「ここだ。少し触れるだけでこの瓦礫は崩れる」
エルーナはイドリスと共に瓦礫を解析する。
――――「……何かを補うために、物質が自ら脆くなっている」
その時、瓦礫の奥から微かな泣き声。
「子供が……中に?」
「一時的に剛性を元の状態に戻して、崩壊を止める
エルーナは即座に決断した。
――――「姉さん、待って!魔力を限界まで消耗する。非合理だ!」
それでもエルーナは目を閉じ、掌を瓦礫に向けた。
手の先から微かに震えが伝わる。
光が指先から漏れ出し、瓦礫を包む。
「
白い光が瓦礫を包み、脆い石塊は一瞬だけ形を保った。
体は熱を帯び、呼吸が乱れる。
「おい、大丈夫か!」シグムントの声が響く。
エルーナは答えない。
彼の中で、何かが切れた。考えるより先に、瓦礫の隙間に飛び込んだ。
――――「二秒!維持は限界だ!」
「まだ……!」エルーナは呻く。
瓦礫の隙間から、シグムントが子供を抱えて飛び出す。
直後、光が途切れ、瓦礫が音を立てて崩れ落ちた。
彼は倒れかけたエルーナを支える。
全身の力が抜け、彼女はゆっくりと呼吸を整えた。
子供の小さな体を確認し、安心の重みが胸に落ちる。
「なぜ何も言わなかった!なぜ全て一人でやろうとする!」
「咄嗟に、体が動いてしまったの。ありがとう……。約束していてよかったわ」
夜風が二人の肩をそっと撫で、子供の白い息がゆっくりと空に溶けていく。
瓦礫を後にし、子供を家まで送り届ける。
夜の街路は静かで、瓦礫の崩れた匂いも遠くなっていく。
子供が母親の腕に戻る。安堵の空気が満ち、二人は静かに立ち去った。
帰路、エルーナはシグムントに背中を向けたまま、静かに言った。
「悪いけど、後始末は任せるわ。少し休ませて」
シグムントは深く頷いた。彼の目は、彼女の疲労した背中に釘付けになっていた。
エルーナは指先の微かな痙攣を感じながら、一人、カフェへの道を歩き始めた。
カフェに戻ると、エルーナは受け取ったばかりの魔石の袋を取り出し、そのうちの大半を握りしめた。光が彼女の掌に集まり、魔石はただの石へと変わる。
彼女は疲労のままソファに沈んだ。
「イドリス。解析は?」
――――「……原因は、あの短剣だろう。子供もその『
「そう。明日は彼を探さないとね」
――――「姉さん。もう少し、自分の事も考えて」
エルーナは小さく息を洩らし、瞼を閉じた。
「あなたがいてくれるから、大丈夫よ」
――――「……まったく。非論理的だ」
イドリスの声が、静かな安らぎに溶けた。
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