第2話 塩の舟と「輪の試し」
朝の光が白い砂を浅く焼きはじめたころ、湖面の遠い藍がまた一度、静かに膨らんだ。
「来る」
ユナが火打石を指で撫でながら、誰にでもなく言う。
私は頷かない。息をひとつ吸って、吐く。吸うより、吐くほうを長く。湖の呼吸に、合わせるために。
霧の薄皮がめくれ、木の舟が三つ、列になって現れた。
昨日の舟より大きい。腹が深く、縁に吊した貝輪は数で余白を誇り、塩袋は二重の草布で巻かれている。塩の舟だ。季節の名であり、風の呼び名でもある。
舟の先頭に立つ年長の女の胸が、こちらに向く。
返事として、イサハは葦を撫で、手の高さを低く示した。近づきすぎない距離。息で合う距離だ。
「輪は広めに」
イサハが短く言う。
オホは石を拾い、昨日よりも外へ、半円を描くように置いていく。
私はユナの斜め後ろにしゃがみ、火床を浅く掘り直した。火は高くしない。初めての者の前で火は、背の毛並みの高さだけ見せる。
「ナカヨ」
ユナが囁く。
私は顔を上げる。
「胸の向き。あなたは内と外の間で」
「分かってる」
輪は二重になる。内に村、外に舟。
その境目に座る者は、言葉ではなく、呼吸で双方を繋がねばならない。ユナは火、私は間。そういう役目の朝。
舟が砂に腹を落とすと、先頭の女が胸を低くして膝を砂につけた。
礼だ。受け入れを乞う礼ではない。互いの輪の重さを量るための礼。
「塩を持ってきた。等価を見たい」
女の声は低いが、私たちの言葉に近い抑揚をしている。
舟の者たちと村の者たちが、視線だけで、物の所在を確かめ合う。
私はサヌを見た。
彼は輪の外縁、舟の者の列の端に立っていた。胸は湖へ、肩は村へ。昨日と同じ向きだが、背が、器の形を深くしている。手の甲には、縄の古い跡。塩が乾いて、白い粉のように皺へ沈む。
「……ここにいる」
彼が小さく言った。
頷く代わりに、私は息をひとつ長くした。
交易は静かに始まった。
塩袋は一つひとつ砂に触れてから渡され、葦布は端を湿らせてから指を入れやすい幅で巻かれる。置いてから渡す/湿らせてから渡す。湖と地と指に順番を通すのが、ここの作法だ。
先頭の女が、私の胸を見た。
視線が問う。“あなたは輪のどこに立つのか”。
「間」
私は短く答える。
彼女はそれ以上は問わず、塩袋を指で叩いた。袋の内側で、塩が乾いた雨のように鳴る。
「等価は?」
イサハが葦布の巻きを二つ置き、干し魚の束をひとつ添え、さらに骨の針を一握り、数を見せる。舟の女は、胸を少し上げ――下げた。足りない。
「塩は遠くになった。風が変わった」
彼女の言葉。
オホが舟の腹を軽く叩いて、波の骨の返事をひとつ拾う。
値は、遠さで重くなる。この朝の等価は、昨日よりも上だ。
「だったら、輪で確かめよう」
イサハが言った。
その声に、舟の者の列がわずかに緊張する。私は火箸を置いた。来た。
この土地で、外から来た輪と内の輪が等価を測るとき、言葉より先にやることがある。
「輪の試し」。
手を使ってはならない試し。
声を使ってはならない試し。
息と、触れ方と、離すタイミングだけで、互いが相手の輪を壊さずにいられるかどうかを測る。
「火の子(ユナ)、芯を」
イサハの呼びかけに、ユナが火床から赤い芯を、砂の上へ小さく転がした。
私は砂で浅い道を描く。丸の縁から縁へ、二つの出入り口をつなぐ細い溝。詰まらないように、指の腹で軽くならす。
「舟の者から一人、村から一人。芯を踏まず、消さず、息で運ぶ」
舟の女が列を振り返る。視線が一人に止まり、そして――止まったまま、戻る。
選べない。彼女の輪は、誰を“差し出せば”良いのか、いまはまだ決めかねている。
「わたしが行く」
私は言った。
ユナが、胸だけで止めようとする。止めない。息で止める仕草の、さらに手前で留める。
イサハは頷かない。代わりに視線を外へ滑らせた。“相手を見よ”。
「……行く」
サヌが、一歩、丸の切れ目の手前に進んだ。
胸は湖へ。肩は村へ。背は器。
舟の者の列がざわめく。ざわめきは声ではなく、胸の向きで起こる。
先頭の女が彼を見て、わずかに目を細めた。
「おまえは――」
名を呼ぼうとした。声が、古い傷に触れた。
私は、息で遮った。一度、静かに吸って、長く吐く。
女は私を見た。私は言わない。けれど、輪の真ん中に置かれた芯の赤が、合図のようにかすかに強くなる。
「“名は急がない”」
ユナが、火の世話の声でだけ、短く言った。
舟の女は唇を閉じ、頷かず、視線を落とした。
「始める」
イサハの掌が砂に触れ、空から風がひとつ下りた。
サヌは芯から半歩離れた位置に立ち、私はその反対側、内の切れ目の手前に立つ。
踏まず、消さず、息で運ぶ。
芯の熱は、輪の中に細い道を作りたがる。押せば死ぬ。引いても死ぬ。
必要なのは、触れられる距離に保つこと。掌ではなく、踝で土の返しを探る。息の長さで熱を前に送り、砂の斜面でそれを受ける。芯は転がらない。ただ、移る。
「吸って」
私は言わない。けれど、胸の動きで伝える。
サヌの肩が浅く落ち、喉の奥で短い呼気が砂を撫でた。
芯の赤が、半息ぶん前へ移る。
舟の列から小さなざわめきが起きた。息の高さが一つ乱れ、すぐ戻る。
「いい」
ユナが火箸を持ち直し、火床の呼吸を合わせる。
私は半歩下がり、足裏の泥の“喜び”を確かめる。泥は踏まれるためにある。踏めば、息が長くなる。
芯は、丸の縁へ近づく。
あと三つの呼吸。
サヌの胸が、わずかに速くなった。“速さ”は、過去の場所から来る。海では速さが要る。輪の中では、長さが要る。
「止めて」
私は目を合わせる代わりに、鼻先で短く息を切る。
サヌの踵が、砂へ沈み、芯の赤はそこでほどけずに留まる。
丸の内側が、静かになった。
**“見ている”**気配が増える。子どもたちの骨笛は鳴らない。
舟の者の列の先頭の女が、胸をわずかにこちらへ向け直す。
最後の呼吸。
私は砂に浅い切れ目を作る。出入り口。
サヌが半歩だけ、中へ入る。胸は湖へ、肩は村へ。背は器。
芯は切れ目を越え、内の丸の縁の前で息を吐いたみたいに赤をやわらげた。
――成功。
音はない。けれど、輪の中で、灰の温度が少し上がった。
イサハは視線だけで合図し、オホが舟の腹を叩く。二度。舟は一度返す。
「等価は下げる」
先頭の女が言った。
彼女の胸は今、内の丸へ半歩、近い。“輪を壊さない”技を見たのだ。
塩袋ひとつの価値は、干し魚二串と葦布一巻き――そこへ、骨針の半分で足りる。
「半分は折って渡す」
私は言う。
骨針は長さで役目が変わる。半分は縫うため、もう半分は結び目をほどくため。
ほどけるところを残すのが、この土地の結びの作法。
交易は流れを増す。塩は輪の外縁から内側へ、干し魚は内から外へ、葦布は輪の間へ、骨針は結ばれずに小さな皿へ。
子どもたちは砂に線と丸を描き続け、舟の子が線を引き、村の子が丸を重ねる。重なれば、意味が生まれる。意味は重なる側に宿る。
そこで、風が変わった。
山の端で溜まっていた風が、湖の面へ落ちてくる。
葦の背が、同じ向きに二度、逆立つ。
「下がれ」
アサギが槍の柄で砂を叩く。合図。
私は火床の縁を手で押さえ、灰を浅く掻き、火の背を低く寝かせる。ユナは鍋を置かず、網の上の魚を指で押して戻す。押しすぎない。戻しすぎない。
「舟を離せ!」
舟の列の若者の一人が叫んだ。叫びは風に千切れ、意味のない高さで漂う。
声は、ときに輪を壊す。
波が来る。
湖なのに、波が、来る。
山から落ちた風は、湖の面を一度だけ大きく撫で、白い爪を立てて砂を引く。舟の腹が片側だけ持ち上がり、外縁の子どもが足を取られた。
「……っ!」
私は走らない。
走れば、砂は喚き、輪は崩れる。
息を二つ、重ねる。
一つは自分に。もう一つは――サヌに。
サヌが先に動いた。
胸は湖へ、肩は村へ。背は器。
外縁の子の背へ、押さない掌を置く。
押せば、海へ戻してしまう。置くだけ。
置かれた重みは、**“置いていけない”**という重さだった。
子どもの膝が砂を掴み、足裏が泥に沈み、波はほどける。
舟の腹が戻る。オホが底板を叩く。三度。舟は二度返す。まだ偏っている。
「綱!」
アサギが槍ではなく、舟の脇に巻いてあった乾いた葦綱を引きはがす。
投げる。
サヌがそれを受ける――受ける前に、掌を温めた。
温かいものを受ける手は、先に温まっていなければならない。
輪の作法を、目で覚えた手。
綱は高く飛ばない。低く、短く。
“囲いを壊さない”高さ。
舟の者の女が胸で合図し、二人の若者が同じリズムで引く。
砂の上で、息が揃った。
風は、三呼吸で去った。
残ったのは、ほどけた波の跡と、輪の上を薄く流れる、塩の匂いだけ。
「終い」
ユナが火を撫でる。炎はさらに低く、話の続きのための熱を守る。
イサハは石を一つ拾い、どかし、丸の出入り口を、もう一つ作った。
「出入りがひとつだと詰まる。――今日は二つ」
先頭の女がその石を見て、小さく笑った。
笑い方に、喪った季節の影がひとひら混じる。
「等価は、さっきのままでいい」
女は言い、そして輪の外を振り返った。
舟の後ろのほうで、もう一艘、小さな影が霧にほどけかけている。遠い家族か、遅れてきた仲間か――あるいは、彼(サヌ)を捨てた輪かもしれない。
「――おまえ」
舟の列の年少の男が、口を開いた。
呼びかけの息に、古い名の高さが乗っている。
サヌの肩が、硬くなった。
私は前に出た。
言葉は使わない。
私の手首の紐――老婆にもらった紐――を、サヌの胸の前へ、ほどけたまま垂らす。
結ばない。ほどけるところを残したまま。
「名は急がない」
ユナが火の上で、短く息を返す。
骨の笛が、その高さで一度だけ鳴った。同意。
年少の男は唇を噛み、名を飲み込んだ。
先頭の女は彼の肩に指先を置き、押さずに離す。
離すタイミングは、やはり手が知っているのだ。
交易は、在ること自体が合意であるかのように、ゆっくり続く。
塩は輪の底に溜まり、干し魚の脂が火の上で跳ね、葦布の端は濡れて、骨針は半分に折られて皿の上で光る。
昼の少し前、子どもたちが砂の文字を真似しはじめた。
舟の子が線をまっすぐ引き、村の子が丸を重ねる。
重なったところに小さな点が生まれ、すぐ消え、また生まれる。
消えたあとに残る静けさを、誰かの息が拾う。
「書かない形もある」
イサハが砂に指を置いただけで、何も描かなかった。
描かないことで、生まれる形もあるのだ。
午後、光は白く強く、影は短く、境界が薄くなる。
私はサヌの背へ掌を置いた。置けるだけ置き、押さない。
縄の凹凸は、もう私の指に馴染んでいる。
塩の結晶は、痛みではなく、乾いた星のように静かだ。
「ありがとう」
彼は振り向かない。振り向かせない。
背の筋が、器の縁のようにやわらぐ。
「夜は、輪をさらに広く」
イサハが石を並べ直し、外と内の間の砂を、浅く撫でて道にする。
出入り口は二つのまま。詰まらないために。
夕暮れ、輪ができる。
舟の者は外縁、村の者は内側。二重の輪。
火は低く、話の続きのための熱を守る。
「海の歌を」
オホが風に投げる。命令ではない。夜への挨拶。
サヌが胸を整え、囲いを壊さない高さで声を出す。
低く、揺れる、波の間の声。
骨の笛が同じ高さで返す。返しは交わり。交わりは、言葉で約束しない。
私は歌の切れ目に、ひとつ息を結ぶ。
呼吸の結び。ほどける余白を残す結び。
そして、掌をそっと離す。
離すタイミングは、手が知っている。
学んだのではなく、思い出したのだと、胸の奥で静かに確信する。
輪がほどける前、先頭の女が立ち上がった。
胸を地に向け、掌を上へ。受け取る所作。
彼女は塩袋の最後のひとつを、砂に触れさせてから置いた。
「あなたたちの輪は、壊さない。……だから、これは置いていく」
等価の計算からはみ出す、置き土産。
イサハは頷かず、視線を落とし、砂の上の一点を撫でる。受け取りの作法だ。
「明日もここにいる?」
女が、焚き火の煙越しにサヌを見た。
問いの形をしていないのに、問いだと分かる声。
サヌは胸を湖へ、肩を村へ向けたまま、短く言った。
「……ここに、いたい」
“いる”と“いたい”のあいだには、距離がある。
私はその距離を、壊さないための余白だと知っている。
「なら、明日、名の前の名を持っておいで」
先頭の女が言った。
名の前の名――呼ばないで示す呼び方。
舟の輪では、ときどきそういうものを、生まれ直しのしるしとして持つことがある。
「輪の試しを越えた者に、帰り道は多い」
女は胸を下げ、舟の列へ戻っていく。
帰り道が多いという言い方。
その道の一本がもう、ここへ向かっている。
夜。
灰は眠りの下敷きになり、火は低い赤を保つ。
子どもは膝へ肩を落とし、別の手が重みを受ける。重みの形で誰かを知る。
私はサヌの背に掌を置く。置けるだけ置き、離すときに離す。
「……ナカヨ」
私の名が、風の中で軽く鳴る。
私は返事をしない。息を合わせるだけ。
その夜、ふたりはまだ名前で呼び合わなかった。
名は便利だ。けれど、ときどき遠ざける。
私たちは――近さのための距離を、また少しだけ残して目を閉じた。
星は昨日よりも多く、湖は深く、海は静かに湿る。
鹿の影は見えなかったが、気配はあった。気配のときは、名前を呼ばない。名を呼ぶと、気配は人になってしまう。
朝。
白い砂は乳白、濃い藍は遠くで光を飲む。
舟は砂を離れず、まだ、ここにいる。
灰の上で、細い緑が二本になっていた。
灰は眠らせるだけじゃない。起こすこともできる。
「きょうは――」
ユナが火を撫でながら言う。
私は頷かない。けれど、胸で返す。
「きょうは、“名の前の名”を探す日」
サヌは輪の切れ目の手前に立ち、半歩だけ、内へ入った。
胸は湖へ、肩は村へ。背は器。
器は空のままでは器にならない。何かを受け取って初めて器になる。
背も同じだ。誰かの息を受け取って、初めて背になる。
遠く、櫂の音がした。
塩の舟は、まだ見えない。
けれど、来ている。
世界は、今日も、まだ決まりきっていない。
言葉より先に、息がある。
息が道を作り、道が名を生む。
名が生まれても、息は消えない。息のほうが先にあったから。
「サヌ」
私は心の中でだけ、音を鳴らした。
呼ぶのではない。在ることを確かめるだけ。
混ざりは、血より先に、息で起こる。
そして、名の前の名は、息に一番近い場所で見つかる。
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