海と火の間で、君と息をあわせる

桃神かぐら

第1話 舟が運ばれてきた日

 朝の湖が、ひとつ膨らんだ。


 風じゃない、とすぐ分かった。

 水の表皮が、外からそっと押されたみたいにふくらみ、白い砂は眠たげに岸を縁取る。藍の底は遠く、浅瀬は乳白に濁って、波の端だけ細く銀を残す。


「……来る」


 私は胸で息を測ってから、短く言った。言葉は一応、確認のためだ。

 隣でしゃがむユナは、火打石に触れたまま首を横に振る。


「まだ。火は高くしない」


「うん」


 湖の霧が薄く裂け、木の舟が現れた。

 漕ぐというより――湖が舟をここへ運んでいる。そんなふうに見えた。舟の縁には日焼けした背。太陽だけではつかない色で、塩と風に磨かれた、遠い旅の色。


 その背には、縄の痕があった。擦れて、裂けて、塞がって、また裂けた痕。見るだけで、背中に沁みるような塩の痛みを想像してしまう。


(“捨てられるために選ばれた背”。……そういう匂い)


 言葉にする前に、体が先に知ってしまうことがある。


 村の年長、イサハが片手を低く上げ、もう片方で葦を撫でた。合図だ。近づきすぎない距離、つまり息で合う距離。舟の者は胸の向きを下げ、舳先を砂へ寄せる。


 オホが舟べりに掌を置いた。木が低い重さで返事をする。


「塩、ある」


 舟の者の女が、胸の向きで示し、指を二度上下させた。

 言葉より、身振りと息で交わす。それがここでの正しさだ。


 私はユナを見る。ユナはうなずかず、ただ火を起こした。

 初めての者の前で火は高くしない。

 火は噛みつかない犬と同じで、背の毛並みの高さを見せればいい。

 煙が白い砂の上を薄く流れ、海の匂いと重なる。


「やさしい匂いだな」


 背後から低い声。狩りの若者アサギだ。槍を持ったまま、私とユナのあいだに視線だけ落とす。


「湖の匂いに、火の匂いを混ぜたいの」


 ユナが小さく返す。

 アサギは肩をすくめ、槍を立てかけた。


「舌より鼻で争いが止まるなら、俺はそれで助かる」


 舟には、塩の袋、干し魚の束、編んだ草の筒、貝輪。舟の者は胸の向きで意思を示し、等価を問う指の動きは短い。岸の者は近づきすぎず、距離を息で決める。


 舟の中央にいた若い男は、舟から降りなかった。網をほどき続ける。その背中の縄痕は古く、そして新しい。塩が沁み、風が触れるたび、静かに痛むはずの背。


(……痛みの向き)


 私は立ち上がり、砂の音を立てない歩き方で舟へ寄る。

 ユナは火のそばで、わずかに息を長くする。私の歩幅に合わせて。


「ナカヨ」


 イサハが半分だけ首を振る。止める仕草じゃない。

 **“重さを確かめて”**という意味。


 私は頷かない。代わりに、男の背のほうへ回り込み、ゆっくりと――掌を、置いた。塩の結晶が砂より細かい声で鳴き、縄の凹凸が手のひらに写る。熱は乾いていた。


(逃げてきた)


 遠いところから、長い時間を背負って。

 ここでようやく、止まれた背だ。


「……!」


 男の肩がわずかに震えた。胸の向きは横へ。拒絶ではない。

 痛みの向きを、こちらへ少しだけずらしただけ。


「受け止めるよ」


 口に出したのは、ほんの四文字。

 理由は要らない。そこに背があったから。


 息がひとつ重なり、もうひとつ重なる。呼吸の隙間から、音がこぼれた。


「――サヌ」


 呼んだつもりはなかった。触れた形が、音になっただけ。

 火のそばでユナが同じ長さで息を吐く。輪の外縁にいた子どもが、骨の笛を低く吹いた。曲ではない。息の長さだけが音になっている。


 交易は言葉なしで始まった。

 塩ひと袋に干し魚二串。干し魚一串に葦布を幅のまま一巻き。価値は物に書かれず、扱い方に出る。


 午後、光はきつく、影は短くなった。

 イサハが石を三つ、半円に置く。そこに物を一度ずつ触れさせ、輪へ配る。舟の者は外縁に、村の者は内側に座る。


「座って」


 私はユナの隣に腰を下ろした。

 骨の形は同じなのに、背の重さだけが違う。

 同じ母から生まれた者にだけ残る影が、火の光で揺れる。


 サヌは食べなかった。

 食べ方を知らないのではない。輪の真ん中の火へ、まだ自分の息を混ぜてよいか分からないのだ。


「はい」


 私は骨の走り方で魚を割り、身の柔らかい側を、背のほうから差し出す。サヌは目を上げない。背の筋が、ごく浅く動き、受け取った。輪の外縁の食べ方で。


「胸の向き」


 ユナが囁く。

 私は視線だけでサヌの胸を見る。湖へ向く胸と、村へ向く肩。そのふたつが互いを邪魔しない位置が、たしかにひとつだけある。


「……ここで、いい」


 聞こえないほどの声が、サヌの喉から落ちる。私の指先は、焚き火の熱で少し温かい。


 日は傾き、白い砂は灰に寄り、濃い青は黒に溶けて、火の赤だけが輪の内側に残った。骨の笛が低く鳴る。舟の者も、その息を真似る。胸の向きが揃っていく。


「鹿」


 イサハが闇の外へ短く目をやる。私は言葉を飲む。名にしてはいけないものが、この夜の上にいる。


 輪がほどける前、老婆が立ち上がる。昼間、紐を撚っていた指。

 結びは二つ目で止まっている紐を、私の前へ置いた。


「ほどけるところを残すのが、結びの作法だよ」


「はい」


 私は頷かず、静かに巻いた。頷くのは息が決める。

 サヌが胸の向きで礼をする。


 眠りの場は、火の灰の匂いが届くところに作る。舟の者は砂の高いところに身を置き、水が近づけば最初に濡れるのが自分になるように並ぶ。海を渡る者の癖だ。


 私は砂の音を立てずに歩く。サヌの背のそばに座り、掌を置く。背が少し広くなる。**器のように。**誰のものでもない背が、誰かのための背になる。


「……寒い?」


「ちがう」


 サヌの答えは短い。震えは寒さの震えじゃない。

 息の深さを探っている震えだ。


「押さないから」


 私は言って、掌の重さを減らす。押す掌は、誰かを海へ戻してしまう。ここは、戻す場所じゃない。


 星が水へ落ちるふりをして、落ちない。火は輪の記憶を灰の下にしまい、明日の息のために温度を残す。


 その夜、ふたりはまだ名前で呼び合わなかった。

 呼べば近い。けれど、呼ばないことで残る距離がある。

 その距離のぶんだけ、輪が壊れない。


 ……そして、朝。


 白い砂は乳白、湖は濃い青に戻る。鳥の影が短く走る。舟の者は舟を押し出さなかった。まだここにいる。塩はほとんど残っていないのに。


「返事、ひとつ」


 オホが舟べりを二度叩く。舟は一度返す。それは終わりの合図ではなく、始まりの返事だ。


 子どもたちは砂に細い線を引き、村の子がその線に丸を重ねる。線はどこかへ行こうとし、丸はどこかを含もうとする。重なれば、意味になる。


 ユナは火の上に手をかざし、熱の高さで朝を決めた。

 今日の火は昨日より少し高い。舟の者の冷えが、まだ抜けていないから。


「――ナカヨ」


 ユナが私を呼ぶ。

 私は砂をならして、丸の縁に指先で小さな切れ目を入れた。出入り口だ。ひとつだけだと詰まる。ふたつの出入り口がある輪は、混ざる前に、混ざる場所を作る。


 サヌが、その切れ目から半歩だけ内へ入った。胸は湖へ、肩は村へ。背は器の形。中身はまだ決まっていない。


「……ここに、いていい?」


 サヌの声は低い。問いのかたちをしていないのに、問いにしか聞こえない。


「いて。ううん――いてほしい」


 私の声は、火の高さと同じくらいの温度だった。

 ユナがわずかに息を足して、焚き火が小さくふくらむ。**火は誰のものでもない。けれど、誰にでもなりうる。**育てた息に似ていき、奪った手には、傷だけが残る。


 午後、海からの風と湖の風が白い砂の上で重なり、砂粒が揃う。光がまっすぐ立つ瞬間、私はサヌの背へ掌を置いた。もう驚かない。縄の凹凸は指に馴染み、塩の結晶は痛みではなく、乾いた星みたいに静かに光った。


「……ありがとう」


 サヌは振り向かない。振り向かせない。

 それでも、背の筋が、器の縁のようにやわらかく広がる。


 骨の笛が低く鳴り、ユナが同じ高さで息を返す。返しは同意で、同意は交わり。交わりは、言葉で約束しない。


「夜は、輪を少し広くしよう」


 イサハが石を並べ直しながら言った。

 私は頷かない。けれど、指で丸の縁をならす。形は決まっていない。息で決める。


 ――その夜。


 火の上で脂が跳ね、同じ高さの熱が続いて、音が歌に変わる。ユナは網の上の魚を指で押して戻す。押しすぎない、戻しすぎない。火は指のためにあるわけじゃないけれど、指は火のためにある。


「海の歌を」


 オホが風に向かって投げるみたいに言った。命令じゃない。

 輪に向けた言葉でもない。ただ、夜に向けた合図。


 サヌは胸を整え、喉を空に向ける。海の歌は広さへ投げる歌だ。だけど、ここには囲いがある。囲いを壊さない高さで、声を出す。低く、揺れる、波の間の声。火はわずかに光を増やすだけで、輪を照らしすぎない。


 歌は一節で止み、骨の笛が同じ高さで一度だけ返す。

 私は歌の切れ目に息をひとつ結ぶ。呼吸の結び。固くない結び。ほどける余白を残す結び。老婆の紐で覚えた結び方だ。


「……わたし、いま分かった」


 小さな声で、私は自分に向かって言う。

 離すタイミングは、手が知っている。

 学んだのではなく、思い出したのだと。


 輪がほどけると、灰が静かに呼吸をはじめる。眠りの場が火の匂いの届くところに並び、子どもは膝へ肩を落とし、別の手が重みを受ける。受けた手は名前を呼ばない。重みの形だけで、だれかが分かる。


 私はまた、サヌの背に掌を置く。置けるだけ置き、離すときに離す。


「……ナカヨ」


 名を呼ばれたのは、その夜の終わり近くだ。

 私は返事をしない。

 ただ、息を合わせる。


 その夜、ふたりはまだ名前で呼び合わなかった。

 名は便利だ。だけど、ときどき遠ざける。

 私たちは――近さのための距離を、すこしだけ残して眠った。


 星は昨日よりも少し多く、海は湿り気を増し、湖は静けさを深くした。鹿の影は見えなかったけれど、気配はあった。気配のときは名前を呼ばない。名を呼ぶと、気配は人になってしまう。


 朝。

 オホが舟べりを二度叩き、舟が一度返す。石は昨日よりさらに広く置かれ、灰の上に細い緑が一本だけ起きていた。灰は眠らせるだけじゃない。起こすこともできる。


 遠く、櫂の音がした。

 塩の舟はまだ見えない。けれど――来ている。


 世界は、今日も、まだ決まりきっていない。

 言葉より先に、息がある。

 息が道を作り、道が名を生む。

 名が生まれても、息は消えない。息のほうが先にあったから。


 私は目を開け、ユナの火起こしの音を聞く。

 言葉を使わなくても、私たちは同じ世界にいた。


「サヌ」


 私は心の中でだけ、音を鳴らした。

 呼ぶのではない。在ることを確かめるだけ。


 ――混ざりは、血より先に、息で起こる。


 この日、混ざりが始まった。

 争いの形を取りに行かないまま、ゆっくりと。

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