第2話 奈落の迷宮と理不尽な責任転嫁

翌日、俺たちは目的のダンジョン『奈落の迷宮』の入り口に立っていた。

 ごう、と地獄の底から吹き上げてくるような不気味な風が、洞口から絶えず流れ出してくる。それはまるで、生者を拒む巨大な獣の嘆息のようだった。


「ひっ……な、なんだよこの威圧感……」


 大剣使いのダリオが、思わず喉を鳴らす。魔術師のリナも、いつもは自信に満ちたその顔を青ざめさせていた。

 この空気だけで分かる。ここは、俺たちが今まで攻略してきたどのダンジョンとも次元が違う。死の匂いが、あまりにも濃すぎる。


「ふん、何を怖気づいている。俺たちSランクパーティー『神速の剣』が挑むのだ。恐れるものなど何もない!」


 ガイアスだけが、虚勢を張るように胸を叩く。だが、その声が僅かに震えていることに、俺だけは気づいていた。

 俺の勘は、警鐘を通り越して、もはや絶叫に近い悲鳴を上げていた。

 入るな。入れば、戻れない。

 だが、俺の言葉に耳を貸す者など、ここにはいない。


「おい、ゴミ! 突っ立ってないでさっさと先行しろ! お前は肉壁くらいにしか役に立たないんだからな!」

「……はい」


 俺は抵抗することなく、一歩、また一歩と、奈落の入り口へと足を踏み入れた。

 その瞬間、全身の毛が逆立つような悪寒が背筋を駆け上がった。


 ◆


 迷宮内部は、予想を遥かに超える魔境だった。

 通路を埋め尽くすスケルトンの群れ。天井から無音で忍び寄る巨大な毒蜘蛛。そして、巧妙に隠された殺意の高い罠の数々。


「ぐっ……! キリがねぇ!」

「リナ! 広範囲魔法で焼き払え!」

「魔力の消耗が激しすぎるわよ!」


 パーティーは明らかに精彩を欠いていた。これまでのダンジョン攻略がいかに俺の事前準備と危機察知に支えられていたか、彼らはまだ気づいていない。

 俺は戦闘の邪魔にならないよう最後尾に下がりながらも、常に意識は周囲の環境へと張り巡らせていた。


 (ん……? この壁、他の場所と色が僅かに違う。それに、空気の流れが不自然に淀んでいる……)


 俺の研ぎ澄まされた感覚が、壁に仕掛けられた罠の存在を捉えた。

 その直後、先頭を歩くダリオが、まさにその壁の横を通り過ぎようとする。


「ダリオさん、待って! その壁に触れないでください!」

「あぁ? なんだよ、いきなり……」


 俺が叫んだのと、ダリオが訝しげに足を止めたのは、ほぼ同時だった。

 次の瞬間、俺が指摘した壁から無数の毒針が、シュシュシュッ! という鋭い音を立てて発射された。ダリオがもしあと一歩でも進んでいたら、ハリネズミのようになっていただろう。


「ひぃっ……!?」

「なっ……」


 全員が息を呑む。

 ガイアスは一瞬だけ驚愕の表情を浮かべたが、すぐに尊大な態度に戻り、咳払いをした。

「……ふ、ふん! 俺の勇者スキルが危険を察知していたからな。貴様らの注意を引くために、このゴミにわざと叫ばせてやっただけだ。感謝しろ」


 (またか……)


 俺の功績は、こうして当たり前のように奪われる。もう何度目か分からない光景に、俺の心はますます冷え切っていった。

 だが、この迷宮の脅威はそんな生易しいものではなかった。

 スケルトンとの戦闘中、ガイアスが叫んだ。


「おい、アル! 対アンデッド用の聖水はまだあるか! こいつら、物理攻撃が効きにくい!」

「も、申し訳ありません、ガイアスさん! 容量の都合で、ご指示通り3本しか……! 先ほどの戦闘で、もう使い切ってしまいました!」


 俺の答えを聞いた瞬間、ガイアスの顔が怒りで真っ赤に染まった。


「はぁ!? たった3本だと!? このS級ダンジョンに、たった3本!? 使えねぇスキルだな、おい! お前のそのゴミみたいな【アイテムボックス】のせいで、俺たちがどれだけ危険な目に遭ってるか分かってんのか!」


 ついに来た。

 理不尽な責任転嫁。この男の常套手段だ。


 (俺は言ったはずだ……。この迷宮に挑むなら、聖水は最低でも10本、できれば20本は必要だと。だが、お前たちが『そんなものより、高級ワインとチーズを詰めろ』と命令したんじゃないか……!)


 喉まで出かかった言葉を、俺は必死に飲み込む。

 反論すればどうなるか、分かりきっているからだ。

 ガイアスの怒声に、他のメンバーも同調し始めた。


「確かに、アルの収納がもっと大きければ、もっと多くのポーションや魔法の巻物(スクロール)を持ってこれたのにね」

「こいつのせいで、私たちが全力を出せないってことじゃない!」


 違う。違う、違う、違う!

 お前たちの無計画さと贅沢のせいで、必要な物資を積めなかっただけだろうが!

 俺は、お前たちが捨てたガラクタの隙間に、こっそり予備のポーションを数本詰め込んである。それすら、お前たちは知らない。


 だが、俺にできることは、ただ一つだけだった。

「……申し訳……ありません……」

 地面に額をこすりつけんばかりに頭を下げ、ただひたすらに謝罪の言葉を繰り返す。

 感情を殺せ。心を無にしろ。俺はただの道具だ。そうすれば、痛みは感じない。


 パーティー内の空気は、もはや最悪だった。

 俺への罵倒は、休憩のたびに執拗に繰り返された。それはまるで、自分たちの不安と恐怖を、俺というサンドバッグに叩きつけて発散しているかのようだった。


 そんな険悪な雰囲気のまま、俺たちはさらに迷宮の奥深くへと進んでいった。

 そして、一つの巨大な扉の前にたどり着いた時だった。

 俺の全身のセンサーが、これまでとは比較にならない、絶望的なまでの危険信号を感知した。


 (ダメだ……! この先にいるのは、オークキングやオーガといったレベルじゃない! もっと、もっと格上の……Sランクパーティーですら、全滅しかねない何かがいる!)


 俺は恐怖を振り払い、必死の形相で叫んだ。

「ま、待ってください! この扉の先は、絶対にまずいです! 一度撤退しましょう! なにかとてつもなくヤバい奴の気配がします!」


 しかし、ガイアスは俺の忠告を鼻で笑った。

「うるさい! ボス部屋はもうすぐそこだ! お前のせいで遅れた分を取り戻すんだよ!」

 彼はそう言うと、俺の胸倉を掴み、力任せに突き飛ばした。


「邪魔だ、無能が!」


 俺は無様に床に転がる。

 ガイアスはそんな俺を一瞥もせず、意気揚々と巨大な扉に手をかけた。


「さあ、お宝の時間だぜ!」


 ギィィィ……という重々しい音を立てて、扉が開かれる。

 その瞬間、扉の奥から迸ったのは、眩い財宝の輝きではなかった。

 響き渡ったのは、ダリオとリナの、恐怖に引きつった絶叫だった。


「なっ……なんだよ、こいつはぁっ!?」

「ドラゴン……!? なんでこんな階層に、エンシェントドラゴンがいるのよぉっ!」


 扉の向こう側。

 広大な空間の中央でとぐろを巻いていたのは、全身を漆黒の鱗で覆われた、伝説級の古竜(エンシェントドラゴン)だった。

 その黄金の瞳が、ゆっくりと、俺たちという矮小な侵入者を捉えた。

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