第3話 最悪の裏切り
「ドラゴン……!? なんでこんな階層に、エンシェントドラゴンがいるのよぉっ!」
リナの悲鳴が、広大な空間に虚しく響き渡った。
俺たちの目の前でとぐろを巻く、漆黒の古竜。その巨体は小高い丘のようであり、一枚一枚の鱗が鈍い光を放っている。何よりも絶望的なのは、その黄金に輝く双眸だった。まるで矮小な虫けらを見るかのように、俺たちを冷ややかに見下ろしている。
あれは、格が違う。
ゴブリンやオークなどとは、存在としての次元が違う。
肌を突き刺すような威圧感だけで、俺の足は竦み、呼吸すらままならない。
「ひっ……に、逃げるぞ! こんなの勝てるわけがねぇ!」
大剣使いのダリオが、情けない声を上げて後ずさる。
「馬鹿野郎! 背中を見せたら一瞬で黒焦げにされるぞ!」
ガイアスが怒鳴るが、その声も恐怖で上ずっていた。虚勢を張っているのは明白だった。彼の額には、脂汗が滝のように流れている。
エンシェントドラゴンは、まだ動かない。まるで、俺たちの絶望を愉しむかのように、ただ静かに観察している。
どうする? どうすれば、この死地から生還できる?
俺の脳が、普段の何倍もの速度で回転を始める。
(罠は? 地形は? 利用できるものは? 俺の【アイテムボックス】の中にあるもので、何か一矢報いることは……いや、無理だ。石ころやガラクタを投げつけたところで、あの鱗に傷一つ……)
思考が袋小路に入り込んだ、その時だった。
絶望に染まったガイアスの視線が、ふと、俺を捉えた。
そして、その瞳に、どす黒い光が宿るのを俺は見た。
「……おい、アル」
地を這うような低い声だった。
「てめぇのせいだぞ、これ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
俺のせい? このドラゴンが現れたのが?
「とぼけるな、ゴミが!」
ガイアスの怒声が、静寂を切り裂いた。
「てめぇのそのクソみてぇな【アイテムボックス】がゴミだからだ! もっと容量があれば、対ドラゴン用の決戦兵器だって、伝説の聖剣だって持ってこれたんだよ! お前の無能のせいで、俺たちは丸腰でこいつと戦う羽目になったんだ!」
(何を……言ってやがる……?)
頭が真っ白になる。
決戦兵器? 聖剣? そんなもの、俺たちは最初から持っていない。そもそも、こんな場所にドラゴンがいるなんて、誰も予想していなかったはずだ。
こいつは、この絶望的な状況の責任を、全て俺一人に押し付けようとしている。
「そ、そうだ……! アルのせいだ! こいつがもっとまともなスキルを持っていれば……!」
ダリオが、ガイアスの言葉に鬼の首でも取ったように同調する。
「そうよ! こいつのせいで、私の高価な魔法触媒も最低限しか持ってこれなかったわ! だから、今、決定打が撃てないのよ!」
リナまでもが、俺を指差して糾弾し始めた。
違う。
違う、違う、違う!
お前らが高級ワインだの、ふかふかの寝袋だの、無駄な贅沢品ばかり詰め込ませたせいだろうが!
俺は何度も警告したはずだ! もっとポーションを、もっと予備の武具を、もっと聖水を積むべきだと!
それを鼻で笑って一蹴したのは、どこのどいつだ!
だが、俺の心の叫びが声になることはなかった。
ガツン、と鈍い衝撃が頬を襲った。
視界が火花を散らし、俺は無様に床に倒れ込む。
ガイアスの拳だった。
「この……無能がぁっ! 役立たずがぁっ!」
馬乗りになったガイアスが、俺の顔を何度も、何度も殴りつける。
痛みで意識が遠のいていく。
ダリオが俺の腕を押さえつけ、リナは冷たい目で見下ろしているだけだった。
ドラゴンへの恐怖が、彼らの理性を完全に麻痺させていた。俺という弱い存在をサンドバッグにすることで、自分たちの精神を保とうとしているのだ。
「はぁ……はぁ……」
しばらくして、殴り疲れたガイアスが荒い息をつきながら立ち上がった。
俺は血と泥にまみれ、もはや抵抗する気力もなかった。
「……いいことを思いついた」
ガイアスが、悪魔のような笑みを浮かべた。
「こいつを、囮にしよう」
「お、囮……?」
「そうだ。こいつをドラゴンにくれてやれば、俺たちが逃げる時間が稼げるはずだ。どうせゴミなんだ。最後の最後で、俺たちの役に立てるんだから、本望だろう?」
その言葉に、一瞬だけダリオとリナの顔が引きつった。だが、背後で静かにこちらを見つめるドラゴンの存在が、彼らの最後の良心さえも消し去った。
「……仕方ないな」
「ええ……私たちの命には代えられないわ」
決まりだ、とばかりにガイアスが俺の胸倉を掴んで引きずり起こす。
「おい、こいつの装備も全部剥ぎ取れ。ポーションの一本でも持ってたら勿体ないからな。少しでも俺たちの生存確率を上げる」
彼らは、俺が着ていた革鎧を乱暴に引き剥がし、腰に下げていたポーチの中身までぶちまけた。中から出てきたのは、彼らが捨てたパンの耳と、万が一のためにこっそり隠し持っていた予備のポーション数本。
「ちっ、こそこそと盗みやがって、汚ねぇ野郎だ」
ガイアスはポーションを自分の懐にしまうと、俺をゴミでも捨てるかのように、ドラゴンがいる部屋の中心へと突き飛ばした。
「さあ、最後の奉公だ」
背後で、ガイアスの冷たい声が響く。
「ここで魔物の餌になって、俺たちのために時間を稼げよ、寄生虫」
その言葉と共に、背中を強く蹴られた。
俺の身体は無様に宙を舞い、ごつごつとした石畳の上を転がる。
ギィィィ……という重い音を立てて、彼らがいた通路の扉が閉ざされていく。
最後に見たのは、仲間だったはずの彼らの、安堵と侮蔑が入り混じった冷酷な目だった。
やがて、扉は完全に閉ざされ、広大な空間に完全な闇と静寂が訪れた。
俺は、たった一人になった。
いや、違う。
ゴオオオオオオッ……!
地響きのような咆哮が、ダンジョン全体を震わせた。
ゆっくりと、巨大な影が俺に覆いかぶさってくる。
見上げると、そこには月のように輝く、巨大な黄金の瞳があった。
エンシェントドラゴンが、ついに俺という餌を認識したのだ。
(死ぬのか……?)
(こんな……こんな理不尽な場所で、こんなクズどもの身代わりになって……)
脳裏に、これまでの人生が駆け巡る。
罵倒され、殴られ、搾取され続けた日々。
それでも、いつかきっと報われると信じて、血の滲むような努力を続けてきた。
その結果が、これか。
(ふざけるな……)
ふつふつと、心の底から黒い感情が湧き上がってくる。
痛みも、恐怖も、絶望も、全てが混ざり合い、一つの強烈な感情へと変わっていく。
(嫌だ……)
(死んでたまるか……!)
(あいつらに復讐するまでは……いや、違う。あんなクズどもはどうでもいい)
(ただ、俺は……静かに、穏やかに、生きたいだけなんだ……!)
生存への、渇望。
その想いが、俺の魂の奥底で臨界点に達した、その瞬間だった。
――ピロン。
まるで場違いな電子音が、脳内に直接、響き渡った。
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