ソロモンの影
あたりを土煙が包み込む。
先ほどまでの馬車でのゆっくりとした時は、突如として終わりを告げた。
リートが大声でクリウスに告げる。
「庇いながらは無理だ! 遠くに逃げろ、クリウス!」
いつものおちゃらけた表情は抜け、
その瞳は目の前の悪魔——アンドラスを鋭く睨みつけていた。
悪魔もまた、リートを見つめ返し、口を開く。
「久しい気配だ……。まだ生きていたか、かつての煉獄の王よ。」
知り合いのように語りかけるその声音に、クリウスは息を呑む。
(煉獄の王……?)
クリウスは剣を構えた。
ここで逃げれば、もう自分は騎士とは名乗れない——
そんな気がしたのだ。
「援護する!」
悪魔をまっすぐに見据えるクリウス。
だが、その目ではアンドラスの動きを捉えきれなかった。
——カチンッ。
金属がぶつかる音が鳴り響く。
と同時に、クリウスの目の前で、悪魔の巨大な爪を小刀で受け止めるリートの姿が現れた。
「マリザ!」
リートが叫ぶ。
「わかってるわよ。」
マリザは尻餅をついているクリウスへと手をかざした。
その瞬間、マリザとクリウスの体は小高い丘の上へと転移する。
「マリザ様! 私も戦います!」
クリウスの必死の声に、マリザは静かに諭した。
「あなた、あの悪魔の動きも見えないでしょ?
あなたがあの場にいたら、リートが守らないといけない。邪魔なだけよ。」
“聖女”の辛辣な言葉に、クリウスは唇を噛み、下を向く。
マリザはそんな彼を静かに見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「自ら命を捨てるということは、勇敢でも何でもない。
今生きて——強くなりなさい。」
クリウスは悔しさを押し殺した。
マリザが詠唱する。
「《オムニシエント(全知)》」
雲の上に戦況が映し出される。
動きは早く、ところどころしか見えないが——
それでも、リートと悪魔はほぼ互角。
クリウスはそう感じた。
「《ヘル・ダガー(業火の短剣)》!」
リートが掌を短剣にかざす。
刀身からは炎が燻り、やがて大炎となって刀を包んだ。
アンドラスはそれを見て、ニヤリと笑う。
「炎の力は健在……だが弱い! 遥かに!」
勝利を確信したように、低く笑い声を上げ、
口から煙を吐き出した。
煙は瞬く間に広がり、二人の周りを覆い尽くす。
霧の中からアンドラスの低い囁きが聞こえた。
「《サウンドレス・ワールド(音のない世界)》。」
リートは目の前の白い霧を睨みつける。
「思い出したよ、引きこもりのアンドラスか。」
冷や汗を浮かべながら笑う。
「お前は、せこい戦いしかできないんだよな!」
霧の全方位から、嘲るような声が返る。
「見栄をはるな、かつての王よ。
人間と同化などしたのがお前の敗因だ。」
リートは背後を振り返り、霧を切り裂く。
だが、手応えはなく、空振りに終わった。
「我の固有魔法は音を自在に消せる。
忘れたわけではあるまい? この霧の中、お前は我を見ることもなく死ぬ。」
声が終わると同時に——
リートの背中から、音もなく血飛沫が上がった。
しかし彼は、反応しない。目を閉じたまま、ただ立ち尽くす。
四方八方から襲いかかる無音の斬撃。
しばらくして、リートはゆっくりと目を開けた。
「——ソロモンが動き出したんだ。
出し惜しみは、しないほうがいいよな。」
その口元に、いつもの笑みが浮かぶ。
「アンドラス! ここからは命をかける!」
ボロボロの上着を脱ぎ捨てたリートの心臓部には、黒い闇が広がっていた。
闇から亀裂が走り、胸から左目へと伸びていく——。
——ボッ。
リートの全身が、炎の帯に包まれた。
「っ……!」
アンドラスが霧の中から姿を現す。
だが、その霧はリートの熱によって、一瞬で拡散した。
「これで、どこにも隠れることはできねぇな。」
リートの左目は怪しく光り、悪魔の瞳へと変貌していた。
「それがどうしたッ!」
雄叫びを上げ、アンドラスは爪を振り下ろす。
だが、次の瞬間——
「お前は、所詮こんなもんだ。」
アンドラスの腕は、地面へと落ちていた。
断面からは、真紅の炎がゆらめいている。
「ソロモンに、また席が空くな。」
リートはそう呟き、
腕の断面を呆然と見つめるアンドラスへと歩み寄った。
「く、くるなぁ……!」
アンドラスは気づいた。
目の前にいるこの男は、自分をいつでも殺せる——。
瞬時に腕を再生し、翼を広げて空へと逃げる。
だが、その上空から——まばゆい光が降り注いだ。
「《テーミス・レイ(裁きの光線)》!」
アンドラスが見上げると、
“聖女”マリザが微笑みを浮かべ、手を掲げていた。
光はアンドラスを貫き、その身を削っていく。
「ぐぁぁぁぁぁ!!!」
やがて光が収まると、アンドラスは黒焦げとなり、
空から落下した。
横たわる悪魔が、かすかに首を動かす。
視線の先には、ゆっくりと歩いてくるリートの姿。
「アンドラス、最後に言いたいことはあるか?」
アンドラスは小さな声を絞り出した。
「それでも……お前たちは……勝てない……。」
リートは冷たい表情で見下ろし、低く呟く。
「それでも、約束なんだよ。」
——ザクッ。
小刀を突き刺すと、アンドラスの体はチリへと変わり、空へと舞い上がっていった。
クリウスは静かに、リートのそばへ歩み寄る。
悪魔の目は元に戻り、全身に広がった黒いヒビは心臓の闇へと沈んでいった。
だが——
クリウスはこの男の中にある“悪魔”を目の当たりにし、驚きを隠せなかった。
悪魔がいた場所を見下ろすリートは、どこか悲しげな表情を浮かべた。
* * *
聖アストリア帝国からはるか南の森——
木の葉が揺れる枝の下で、一人の男が目を開けた。男は静かに耳を澄ませ、囁く。
「君の炎は、まだ消えていないようだね。」
男は口元に笑みを浮かべ、木の葉が作り出す、幻想的な光を見つめる。
「——待ってるよ。」
男は再び目を閉じて眠りについた。
風が木々を揺らし、古の記憶を運んでいった。
Pandora 赤さん @-akasan-
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