朝がくる

京野 薫

夜と朝

 窓の外は薄暗い。

 雨が窓を打つ音が不定期なのにどこかリズミカル。

 それが気持ちよくて、落ち着く。


 ある有名なミュージシャンが末期ガンになったとき、自然の音だけを脳が求めてユーチューブで自然音をひたすら流した、と言う記事を読んだけど、凄く分かる。

 脳が疲れてると、どんな名曲でも心に重くなる事があるんだよね……


 そんな事をうだうだと考えながら、布団の中で手足を動かす。

 そして、目覚めてから何回目になるだろう。

 布団のすぐ横に置いてあるスマホを取ると、黒い画面に浮かぶ時刻を見る。


 07:10


 その数字を見た途端、まぶたが酷く重くなって目を逸らし軽く目を閉じる。

 もう……こんな時間……

 早すぎるよ……


 でも、起きなきゃ。

 今日こそは……昨日の夜、あんなに決めたんだ。

 絶対に起きるって。

 絶対に起きてお仕事に行くんだ、って。


 もうちょっと。

 ちょっとだけ……心を休めたらエイ! って起きよう。


 目を閉じて心地よい暗闇と雨音に包まれながら、元気を……心の中に貯めていく。

 うん、大分……貯まった。


 ……雨音……気持ちいいな。

 今日、回したいガチャあるんだ。

 新キャラ……取れたら、ギルドのみんな……凄いって褒めてくれる。

 ギルドのみんな、困ってるよね。

 私が……頑張んなきゃ。


 貯金、まだ大丈夫だよね。

 一万円くらいジュエル買っても……うん、そうだ。

 思い切ってやっちゃおう。


 ……明日、頑張る。

 明日は起きるんだ。

 今日はもっと栄養を……心に栄養を貯めないと。

 そのためにガチャまわそ。


 そう思うと急に元気が湧いてきた。


 うつ病には、栄養がいる。

 ガチャは心の栄養なんだ。


 お仕事行けなくなったのは……確か一月前。

 心療内科……みどりこころのクリニック。

 うん、覚えてる。

 そこで、中等度のうつ病って言われた。

 ……悔しい。

 思い出すと悔しくなる。


 私、キチンと働けてたのに。

 いきなり通勤途中で涙が出て、しゃがみ込んで。

 こんなの私だけじゃ無い。

 なのに……出されたお薬飲んでから色々……おかしくなった。


 奥歯をギリっと噛みしめると、手に取ったスマホをクッションに向けて、寝転んだまま投げつけた。

 おトイレ行きたい。

 でも……おっくうだ。


 良かった、一人暮らしで。

 これで親と同居してたらメンタル参っちゃう所だった……


 私は布団を被って、その中の薄暗い世界で胎児のように丸まりながら、遠くに聞こえる雨音に身を浸す。


 今日……来週の復帰に向けて人事の人たちとの面談がある。

 行かないとダメだった。


 ううん、ダメなんじゃ無い。

 もうちょっと休憩するだけ。

 もうちょっと先に延ばしてもらうだけ。


 私は、スマホを取ると会社に電話した。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


 11時。

 壁の時計を見た私は、力なく締めたカーテンを見る。

 そして、空になったポテチの袋を無造作に近くに置いて、ぼんやりとそれを見る。


 半日終わる……無駄に。

 お金も無駄にしたんだ。

 あんなくだらないガチャで一万円も……

 我慢できなかった。

 たかが絵なのに……


 先生が言ってた。

 うつ病は前頭前野も弱らせるし、自己肯定感も低くしてしまう。

 実際はそうじゃ無くても。

 だから、スマホのガチャなんかはしないように、って。


 分かってるんだ。

 だけど……ギルドのみんなの……

 口の中をしきりに噛んでゲームにログインする。

 そして取ったURのキャラを見た。


 褒めてくれると思ってた。

 なのに、ログインしてた数人は微妙な反応だった。


(え? それ、取ったの……)


 と言う書き込みを見たとき、私は血の気が引いた。

 ……価値……無かったの?


 私は目の前が真っ赤になるのを感じて、ギルドのみんなのやる気の無さに対してありったけの不満を書き込み……ゲームをアンインストールした。

 あのキャラに価値なかったら、私何のために会社行かなかったの?

 無駄……だったの?

 あんなガチャやるんじゃ無かった。


 そう思うとますます身体が、脳が鉛のように重くなる。

 寝転んだまま、脳は覚醒してるのに身体は泥のように……布団の中に溶けるように……沈む。

 動けない。

 動きたいのに……重すぎる。

 脳の一部だけが、洗車後のフロントガラスのようにクリアだけど、それ以外が重い。

 これって何?

 怖いよ。


 こんなの私じゃ無いよ。

 目をボンヤリと開けて、白い壁の一点を意味も無く見る。


 お仕事も頑張ってた。

 趣味のホットヨガも、毎週末の友達とのお出かけも。

 同僚のためだったら、お仕事を巻き取って残業するのだって平気だった。


 求められてる。

 一人じゃ無い。

 毎日充実してる。

 彼氏はいないけど、そんなの気になんない。

 友達との繋がりがあれば。

 そして、お仕事があれば。


 でも、ある朝。

 切っ掛けは分かんないけど、前日の夜に酷く頭がボンヤリした。

 寝不足かな、って思った。

 通勤途中に、今日のお仕事ときっとやるであろう残業を思ったとき、ジンワリと涙が滲んだ。

 でも、今日は休めない……

 そう思った途端、気がついたら奥歯をギリギリと噛みしめてる私が居た。

 そして、降りるべきバス停を通り過ぎた。

 そのまま最後の停留所まで、立つことが出来なくて……こうなった。


 なんで。

 うつ病なんて、もっとブラックな職場の人とか酷いパワハラを受けてる人がなるんじゃないの?

 私、平和だよ。

 いい上司に、優しい同僚達。

 尊敬すべき先輩。

 充実したお仕事。


 なんで?

 私、気が狂っちゃったの?


 ハッと我に返ったらもう13時20分だった。

 ……もう一日も半分過ぎた。


 私はブクマして何度も……ううん、何十回も見たホームページを見る。

 うつ病への対応が書いてある、メンタルクリニックの記事。


 日光を浴びなきゃ。

 セロトニン出して、脳のやる気ホルモン……出さなきゃ。

 で、動けるようになってお仕事復帰しなきゃ。


 ……でも今日はいいか。

 雨だもんね。

 もう午後だし、日光もこんなんじゃ弱い。

 セロトニンだってそんなに出ない。


 今日だけはお休みしよう。

 明日こそは……


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


「……由衣。……ね……どうなってんの!」


 途切れ途切れに声が聞こえる。

 ……誰?


 真っ暗な部屋の中でボンヤリと声の方に意識を向ける。

 そこには……姉が居た。

 仲の悪かった姉。

 いつでも太陽のように明るくて、私を無理矢理自分のペースに巻き込むうっとうしい人。

 高校を出て大学に入ると共に家を出て、それからは姉には連絡すらせず、度々来るラインも苛ついて適当に返していた。

 そんな人。


 なんで……あなたが。

 段々ピントがあってきた意識が、姉の言葉を捉えていく。


「ずっと連絡付かなかったから心配してたら……なに、この部屋。それに……そんなに……痩せて。……なん……で」


 初めて見る姉の泣き顔だった。

 そして、子供の頃以来だろうか。

 姉に……抱きしめられたのは。


 あったかい。

 姉ってこんなにあったかかったんだ。


 私は姉の背中に手を回そうとしたが、力が上手く入らない。

 代わりに涙がポロポロ出てきた。

 そして、何度もつぶやく。


「おねえ……ちゃん。……ねえ……ちゃん。助け……て」


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


 それから姉が連日来てくれるようになった。

 姉はお父さんとお母さんに電話して、私の事を伝えた。

 そして、アパートに来ては晩ご飯を作ってくれ、翌日の朝食と昼食も作っておいてくれた。


 お休みの日には朝から来て、お掃除もしてゴミも片付けてくれた。

 淀んでいた空気が爽やかになってくるみたいだった。


 姉は何も言わなかった。


(なぜそんな病気になったの?)

(いつ治るの?)


 そんな事を一言も聞かず、ただそばに居てくれた。

 そして時々思い出したように「元気でいてくれてありがとね」と言ってくれた。

 涙が出そうだった。


「私……生きてていいんだよね? お姉ちゃん」


「当たり前じゃん。私を泣かすな」


「これから……どうしよう」


「ただ生きてればいい。それからの事は……お姉ちゃんと一緒に考えよ」


「……うん。頑張る」


「頑張らなくていい。ただ生きてればいい。それで百点」


「……うん。あのね……この前、ガチャ回しちゃった。一万円」


「たまにはいいじゃん」


「もう……やらない」


「オッケー」


 不思議だけど、お姉ちゃんが居てくれる時はちょっとずつ動けるようになって来た。

 それでもまだ外に出たりするのは辛かったけど、お姉ちゃんがお休みの日には近くの緑地公園を一緒に歩いてくれた。


 職場は退職した。

 お姉ちゃんが「あそこはもう辞めな。残業も休日出勤も多過ぎ」と言ってくれたのだ。

 あそこも私には辛かったんだ、と気付いた。


 それから二年経った。

 傷病手当や退職金。

 それにお姉ちゃんの援助で何とか日々を過ごしてきた私は、とある中小の部品工場の事務職を始めた。


 口数は少ないけど、優しい人たち。

 そして、残業の無い定時退社の環境の中で、日々お薬を飲みながら何とか生活できている。

 社会人をやれている。

 お薬も、以前は合わないと思ってたけど、今は凄く助けられていたんだと素直に思え、今はキチンと内服している。


 そして……今日は初めてのボーナスの支給日だった。

 私は、姉と待ち合わせて小さなイタリアンのお店に入った。


 今日は姉の誕生日だったのだ。

 一緒に食事をして、私の頼んだサプライズのお祝いのケーキが店員さんから出されると、姉は涙ぐんでいた。

 それを見て私も泣いた。


 代金は全部私が出した。

 それが堪らなく嬉しく、誇らしかった。


「大丈夫? 無理してない?」


「大丈夫だよ、お姉ちゃん。あと……ちょっとだけ言ってもいい?」


「うん。なに? 良いこと? 悪いこと?」


 大げさに怖がるフリをする姉にクスクス笑いながら私は言う。


「お姉ちゃん……大好き。有り難う」


【終わり】

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朝がくる 京野 薫 @kkyono

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